私の愛は枯れました
私は今日も、息子から届いた手紙を暖炉にくべる。
炎の中で身悶えするように燃え尽きるそれを見ても、何の感慨も湧かない。
きっと私は、あの日に壊れてしまったのだろう。
***
グンター・ケステンとの縁談が持ち込まれたのは、私が16歳の時だった。
実家のレッチェルト男爵家は、ささやかな領地しかなく貴族としては底辺。しかも、当時はかなりの危機的状況だった。
微々たる収益を増やすべく、父は特産物を使った新規事業を立ち上げたが、なかなか軌道に乗らず赤字は増える一方。もはや爵位を返上して破産するしかないという所まで陥ったところに、救いの手を差し伸べる者が現れた。
多くの支店を抱えるケステン商会。その当主グンターへ私が嫁ぐ見返りとして、借金を全て肩代わりするとの申し出があったのだ。
レッチェルト男爵家はケステン商会とも取引をしており、商談のため我が家へ訪れたグンターが私を見初めたらしい。
初めて顔を合わせた時、あまり彼に良い印象は持たなかった。ギラギラとした野心溢れる目と、私へ向けるねっとりとした眼差しが苦手だと思った。
借金のカタに娘を売るようなものだと両親は嘆いたが、傾いた実家を救うために選択肢はない。それに向こうは、大金を費やしてまで私を欲しているのだ。愛のない夫婦より良いかも知れない。そうして私は成人後にケステン家へと嫁いだ。
結婚当初はそれなりに仲の良い夫婦だったと思う。
実家を救ってくれた夫へは感謝していたし、私なりに彼を愛そうと努力した。グンターは仕事で飛び回ってはいたものの、帰宅すれば私を傍に置いて愛でる。宝石やドレスなど、そんなに要らないといってもふんだんに与えられた。
「これは奥様、初めてお目に掛かります。噂通りお美しいですな」
「初めまして、バーデンさん。お噂はかねがね伺っておりますわ」
「妻は男爵家の生まれでしてね。少々金は掛かりますが、貢ぎ甲斐がありますよ。ははは」
自慢げに答える夫。
相手の眼差しには媚びているようでありながら、嫌悪も含んだ色が宿っている。
(貴族の娘を手に入れたくらいで調子に乗りおって。この成り上がりが)という心の声が聞こえるようだ。
帰宅してから「あまり自慢なさらない方が……聞いた方に悪い印象を与えかねないわ」と宥めた私に対し、夫は「本当のことなのだからいいじゃないか。みな、内心では羨ましくて仕方ないのさ」と事も無げに答えた。彼は相手の負の感情など見抜いており、その上でマウントを取っていたのだ。
グンターは、貴族の妻がいるというステータスが欲しくて私を望んだのではないか?
そんな不安を私は必死で振り払った。
そんなことより、私はもう一つの問題を抱えていたからだ。グンターの母、すなわち義母である。
彼女はとても明るく朗らかで、人当たりも良い。嫁いだ時は「男爵家のご令嬢に嫁いで頂けるなんて嬉しいわ!仲良くしましょうね」と私の手を握った義母に、心が温かくなったものだ。
だが、彼女は一筋縄ではいかない女性だった。
私が家の事を覚えようとしても「あらあら、そんなこと私がやるわ。お貴族様のご令嬢だもの。やったことないわよね?」と義母がしゃしゃり出てくる。私はいつまで経っても客扱いだ。
「うちは平民だもの。ご実家のやり方と違うのは仕方ないわよ」
「ディーツさんのところ、お孫さんが生まれたんですって!羨ましいわねえ。ああ、催促してるわけではないのよ。子供は授かりものだものね」
言い方は柔らかくて、一見こちらを気遣っているように見える。だけどそこかしこに厭味が含まれていることくらい、すぐに分かった。
ケステン商会は、先代であるグンターの父が一代で大きくしたものだ。義母は義父がまだ貧乏商人の頃から、ずっと支えてきたらしい。義父が亡くなり隠居したが、義母は今でも従業員や使用人からとても尊敬されている。
私が義母の厭味について相談しても、夫は「母様はいつもああだから、君がうまく往なしてくれ」と答えるだけだった。当主のグンターといえど、彼女には逆らえなかったのだ。
そして長男のフランツを授かった際、とうとう私と義母の対立が表面化した。
跡継ぎが生まれたと大喜びした義母は、勝手に乳母を決めてきてしまったのだ。
大事な息子を任せる相手だ。私が自分の目で選びたかったのに。
フランツが喋り始めた頃、私は家庭教師を雇いたいと義母へ話した。だが義母は「そんなのまだ早いわよ~」と認めてくれない。
彼女は孫を溺愛している。自分と孫の触れ合う時間が減ることが、嫌なのだろう。
だけど愛する息子に関することだ。私は引き下がらなかった。
「この子はケステン家の跡取りです。早いうちからしっかりとした教育をしなければ」
「そんなこと、貴方が考えなくてもいいわよ。私がそのうち良い家庭教師を探してくるから」
「私はこの子の母親です。家庭教師なら、私が探します」
義母の眉間に皺が寄る。彼女がこんな風に感情を表へ出すのは珍しい。
「貴方は所詮お飾りなんだから、余計な事はしなくていいのよ」
「……どういうことですか?」
彼女は一瞬、しまったという顔をした。だが、ごまかしきれないと悟ったらしい。開き直った顔で「あの子は外に女がいるのよ」と言ったのだ。
「嘘でしょう!?」
「本当よ。貴方みたいに気位の高い女は、つまらないって言っていたわ。夫ひとりも満足させられないのね。お嬢様だから仕方ないのかしら」
帰宅したグンターを問いつめると、彼は決まりが悪いのか目を逸らしながら「そうだ」と答えた。
「貴方、私というものがありながら愛人なんて、何を考えてらっしゃるの!?」
「愛人くらい、珍しくないだろう。君はフランツを身籠ってから夜の相手をしてくれなかったじゃないか。ずっと一人寝なんて、男には耐えられないんだよ。分かってくれ」
一番愛しているのは君だ、とグンターは盛んに私の機嫌を取ったが、そんな言葉を信じることは出来なかった。
閨事は私にとって苦痛なものだった。
夫は自分勝手に腰を振るだけで、私を気持ち良いかどうかなど全く気にしない。
彼の希望ではしたない下着を着けさせられることもあった。それでも妻の役目と、羞恥と嫌悪に耐えていたのに……。
そんな努力も彼にとっては「つまらないもの」だったのだ。
「娘を引き取るから、養育は任せる」
「娘って……どういうこと!?」
さらに数か月後、夫から突然そう告げられた。
娘の名はフィーナ。母親はエレナという平民の娘で、ケステン商会の受付嬢だった。夫は見目美しい彼女を気に入り、強引に愛人として囲っていたそうだ。
だが彼女は身籠ってしまい、夫の相手ができなくなった。そこで夫は新たに愛人を作り、そちらへハマってしまったらしい。エレナの元には全く訪れなくなったそうだ。
娘の将来を案じたエレナの両親が夫と話し合い、手切れ金を貰って別れることになった。彼女は別の男性へ嫁ぐことになったが、婚家はフィーナを連れてくることを許さなかった。そのため、夫が娘を引き取ることになったのだ。
「そんな簡単に……!フランツだってまだ幼いのよ」
「一人も二人も一緒だろう」
さらりとそう答える夫に、私は唖然とした。普段から、彼は子育てに全く携わらない。仕事が忙しいからそれは仕方がないと思っていたが、子育ての大変さも、どれだけ理不尽なことを言っているのかも、理解していない様子にひどく腹が立った。
それに、エレナのことも。
強引に愛人にしておいて、身籠って閨事が出来なくなればあっさりと捨てる。彼にとって、女は物と変わらないのだろう。
それ以来、私は寝室に鍵を掛け、夫婦の営みを拒否した。
私が拗ねていると考えた夫は私の機嫌を取ろうとしたが「私のようなつまらない女の相手を、無理になさらなくても良いでしょう。若い愛人の所へ行ったら如何?」と突っぱねた。
夫は「何て可愛げのない女だ!もういい。カミラの所へ行く。君がそう言ったんだからな!」と怒鳴り、その後は愛人宅へ入り浸るようになった。
たまに帰ってきては「カミラにダイヤのネックレスを買ってやった。彼女はお前と違って愛らしいからなあ。つい買ってやりたくなってしまうんだよ」「今度カミラと温泉に行くんだ。楽しみだな~」などと、ニヤニヤしながら私へ話す。
だけど顔色を変えず淡々と「そうですか」と返す私に、チッと舌打ちして去って行った。
本当に、どうでも良かったのだ。
夫が愛人を何人抱えようが、誰を寵愛しようが、私の心にはさざ波一つ立たない。
彼への愛は、とっくに枯れていたのだ。
その分、私の愛情は子供たちに向けられた。
最初は疎ましいと思ったフィーネだけれど、世話をしているうちに愛情が湧いてきた。今では本当に自分が産んだ娘なのではと思うほどに可愛い。
それに、彼女はとても良い子だった。
私の言う事を良く聞き、使用人たちからも可愛がられた。娘に興味のない義母が、フィーネの教育には口を挟まなかったことが良かったのもしれない。
一方で、フランツの教育は難航していた。
家庭教師を付けても、飽きただの怒られるのは嫌だのと我が儘を言うため、長続きしない。
商人の跡継ぎなのだから勉学や礼儀作法は必要だと何度も諭したが、義母が「この子はまだ小さいから仕方ないわ。そのうち理解するわよ」と甘やかす。
さらにフランツはフィーネに暴力を振るうようになった。
何度叱っても止めようとしない。義母が庇うから、悪いことをしていると認識しないのだ。
天真爛漫だったフィーネがおどおどとした娘になっていくのを見て、心が痛んだ。私にできたのは、彼女がフランツと二人きりにならないよう、心を配ることくらいだった。
ある時、フィーネが泣きながら「私、お母様の子じゃないの?この家を出て行かなきゃならないの……?」と私へ聞いてきた。
「誰がそんなことを言ったの!?」
「お兄様が……」
義母からフィーネの素性を聞いたのだろう。フランツは妹に「知ってるのか?お前、母様の子じゃないんだぞ。ただの居候なんだ。そのうち追い出されるだろうなあ~」と揶揄ったらしい。
彼女の実母については、娘が成長してから話すつもりだった。少なくとも、まだ幼く繊細な状態で言うべき事ではない。
私は息子をキツく叱った。
だがフランツは全く悪びれることなく、「だって、本当のことだろ?」とニタニタしながら答える。
その表情が愛人のことを喋る夫にそっくりで。私はぞっとした。
数年後、私は夫へ離縁を申し出た。実家の事業がようやく軌道に乗り、肩代わりしてもらった金を返す目途がついたのだ。両親や兄も私を後押ししてくれた。
「離縁してどうする?再婚の当ても無いんだろう。一人でどうやって生きていく気だ」
「再婚するつもりはありません。両親と兄が面倒を見ると言ってくれていますし……結婚はもうこりごりですから」
「……勝手にしろ!フランツは連れて行かせないからな」
子供たちについては、当人たちの意思に従うつもりだった。幸い、フィーネは私に付いて来たいと言ってくれた。
もしフランツも私と共に来たいというなら、夫と対立することになっても連れていくつもりだ。
「フランツ、お母様はお父様と離縁するつもりなの。一緒にレッチェルトの家にくる?」
「……はぁ?何だよそれ?」
息子はバカにしたように答えた。最近の彼は私に対していつもこんな態度だ。どんなに叱っても聞きやしない。
「レッチェルトの家って、貧乏なんでしょ?お祖母様が言ってたもん。どうせろくなものも食べてない、服もつぎはぎだらけだよって!そんなとこへ行くのは真っ平だ」
「そんなこと無いわよ。今はお金もあるし、きちんと学校にも通わせてあげられるわ」
「しつこいなあ!行きたくないって言ってるんだよ。貧乏男爵家なんて、オバサン一人で行きなよ」
向けられる言葉が、棘となって私の心に刺さる。
ジクジクと痛む心を抑え、私は何とか息子を説得しようとした。このままこの家にいては、彼は駄目になってしまう。実家で再教育し、少しでもまともに矯正したい。
「お母様に会えなくなってもいいの?」
「別にあんたのことなんて、母親と思ってないし」
その言葉が、血を流す心の最後のひとかけらを砕いた。
私は彼の説得をあきらめ、それ以来口を利くこともなかった。何だかもう、疲れてしまった。
「離縁ですって?借金を肩代わりしてあげたのに、恩知らずだこと」
出立へ向けて忙しく準備をする私の所へ、義母がやってきた。
「その節のことは感謝しております。ですが、借金を返す目途も付きましたので」
「フランツを置いていくなんて、それでも母親なのかしら」
「息子はこの家にいたいようですので。これまで通り、お義母様が面倒を見てあげて下さいな」
厭味を流す私に、腹を立てたのだろう。義母はふんと鼻を鳴らした。
「貴方は本当に出来の悪い嫁だったわ。今だから言うけど、私、本当は貴族のお嬢様なんて迎えるのは嫌だったのよ。息子の嫁にするなら、商家のお嬢さんの方が良かったわ」
「そうでしょうね。貴方より若くて美しくて教養もあって、身分も高いのですもの。私が傍にいて、さぞや目障りだったでしょうねえ」
「なっ……!」
半笑いで答える私に絶句した義母は、乱暴にドアを閉めて出て行った。
気付いていないとでも思ったのだろうか。彼女が抱えるコンプレックスなど、とっくに知っていたのに。
実家に戻った私とフィーネを、両親や兄夫婦は温かく迎えてくれた。
何年ぶりだろうか。こんなに心の安寧を得られたのは。
私は仕事を探して、いずれ実家を離れるつもりだった。兄クラウスが跡を継いだ時、出戻りの妹がいては邪魔だろう。
だが兄夫婦は気にしなくていいと言ってくれた。11歳になったばかりのフィーネには、きちんとした教育を受けさせたい。そのため私はありがたく、兄夫婦の好意に甘えることにした。
フィーネは両親や兄一家に可愛がられ、徐々に年頃の少女らしい明るさを取り戻していった。元々、朗らかで素直な性格なのだ。
快活な彼女は学院でも多くの友人ができたらしい。その様子に、離縁して良かったと心から思った。
娘の手が離れたので、私は家庭教師の職に就いた。相手は知り合いの資産家のご令嬢で、貴族の家に嫁ぐ予定なので行儀作法を教えて欲しいと頼まれたのだ。
生徒となった令嬢は素直な子で、教えたことをすぐに覚え、私の事を先生と慕ってくれた。成人後はつつがなく嫁いだようだ。ご家族にはとても感謝されたが、そんなに大層なことはしていないと思う。息子の教育に比べれば、随分楽なものだったのだから。
そんなある日のことだ。フランツが私を訪ねてきたのは。
……なんて醜い少年だろう。
久しぶりに見た彼の姿に、私はそう思った。
肥え太り、夫そっくりの卑しい目。あんなに愛おしいと思っていたのに、今は愛情どころか、嫌悪しか湧かない。
グンターは愛人を後妻とし、次男が産まれたらしい。フランツは継母から邪険にされて家に居場所がないと愚痴を言った。義母は痴呆で頼りにならないとも。
それはそうだろう。ただでさえなさぬ仲であるのに、こんな醜い上に大人を小馬鹿にする生意気な子供など、愛せるはずがない。
後妻に共感してしまうというのも、笑える話だが。
「俺もこの家に置いてよ。フィーネと違って、俺は母様の実の子なんだから!」
そうせがむ彼を、私は冷たく突き放した。
「貴方のことを自分の子供とは思ってないの。私の子供は、フィーネだけよ」
泣きながら帰って行く息子の背中を見ても、私の心には波一つ起きなかった。あの時――夫が愛人について語った時と同じだ。
私の息子に対する愛は、枯れ果てていたのだ。
その後、フランツからは窮状を訴える手紙が何通も届いたが、無視した。
息子に対してこんな仕打ちをする……なんてひどい母親だろう。
私の心は、きっとあの家で壊れてしまったのだと思う。
今ではフィーネも結婚して子供がいる。
少々心配ではあった。彼女は親の冷えきった仲を見て育っている。夫となる人と、まともな夫婦関係が築けるだろうか、と。
だがそれは杞憂だった。フィーネは夫とも、義両親とも良好な関係を築いているようだ。
両親は何度か私へ縁談を持ってきたが、全て断った。
心の壊れた私が結婚したところで、幸せになれるとは思えないからだ。こんな人間と結婚する相手の方にも申し訳ないだろう。
以前教えたご令嬢やその家族は私を絶賛してくれたらしく、幾つかの家から家庭教師の申し込みがあった。
仕事は楽しい。生徒たちは嫁いだ後も、時折私を訪ねたり手紙をくれたりする。幸せそうな彼女たちの姿を嬉しいと思う一方で、心のどこかに痛みを覚えた。
私は、夫と仲睦まじい彼女たちを羨んでいるのだ。なぜ私は、温かい家庭を築けなかったのだろう。そう思うたびに、冷たい風が心を吹き抜けた。
息子からは未だに手紙が届く。
礼儀として一読はするが、すぐに焼き捨てている。勿論、返事など書いたことが無い。
ある日、手紙が二通届いた。
不思議に思って差出人を見たところ、一通はフランツ、もう一通にはグンターの名が書かれていた。
『元気にしているか。再婚はしていないと聞いたが、やはり君も俺との生活が忘れられないのだろうか』
そんな感じの書き出しだった。
何を言っているのかと呆れる。元夫のことなど、ここ数年思い出しもしなかったというのに。
グンターは病となったらしい。今は隠居し、後妻の生んだ次男が跡を継いでいる。
次男はまだ若く、後妻とその兄が商会を取り仕切っているらしい。今では実権のほとんどを後妻の家に握られてしまったそうだ。
彼らはグンターを数人の使用人と共に別邸へ押し込んだ。そこで寂しく死を待つ状態だそうだ。
貴方も今、不幸なのね。……良かったわ。
息子をあんな風に育ててしまったのは、親の責任だもの。
そんな私たちが、幸せになって良いわけはない。
『最近はいつも君の事を思い出すよ。エルヴィラは本当に、俺へ良く尽してくれた。死ぬ前に、ひと目だけでも君に会いたい』
手紙の最後は、そんな言葉で締められていた。
……本当に、息子は父親によく似ている。
自らの所業を省みることもせず、自分にとって都合の良い道を選ぼうとする。そして私がいつまでも、どんな仕打ちを受けても彼らを愛していると信じて疑わないのだ。
私は息子からのものと共に、元夫の手紙を暖炉へ放り込んだ。