9:どんなに離れても
「ええと……この方、お姉さん?」
増山さんが俺と姉さんを見比べながらおずおずと訊ねてきた。
「はい。姉です。――なんかすんません」
「なんで謝るん」
増山さんは姉さんに向き直って、丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして。弟さんとお付き合いをさせていただいています。増山と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。愚弟がお世話になっています」
姉さんもお辞儀を返して、増山さんに笑顔を向けた。
そういえば、二人が顔を合わすのはこれが初めてか――と、妙にたどたどしい挨拶を交わし合っている二人を見ていたが、ふとそこで、俺は姉さんの背後にもう一人、小さな人影がいることに気づいた。
ん?
俺が回りこもうとすると、小さな人影はそれに合わせて、姉さんを挟んで見えない位置に移動した。
「……姉さん、そちらのちみっちゃい方は?」
「ああ」
姉さんは振り返って、隠れていた人物の肩に手をやり、俺たちの前におし出した。
白いコートを着て、オレンジ色のマフラーを巻いた、小さな女の子だった。
陶製人形のような整った小顔で、髪は艶のある銀髪で、瞳は淡いブルー。肌は透けるように白い。
頭にはベレー帽を乗せ、肩からかわいい猫の形のポシェットを提げている。
小柄で、年齢は小学校の高学年か中学生ぐらいに見える。
もっとも、女性の年齢を見た目で推測するのが難しいことは学習済みだ。背の高さ、増山さんと同じくらいだし。
「この子は、坂本さんや」
容姿は日本人離れしているけど、苗字はめっちゃ日本人やった。
紹介された彼女は、ペコリとお辞儀をして、それからまた姉さんの背後に駆けこむように戻った。
姉さんの説明によると、坂本さんは劇団時代の後輩らしい。いつもは東京にいるけど、今年の年末年始はたまたま家族で関西圏に旅行に来ていて、近くのホテルに泊まっているから久しぶりに会おう、という運びになったそうだ。
「それで寝正月やめたんか」
「うん。――でもびっくりしたわ。観光がてら天満宮まで来て、初詣のついでにかわいい弟の合格祈願してさ、神社出てちょっと歩いたら、当のあんたがそちらの彼女さんと見つめあってんねんもんなー」
姉さんからニヤニヤとした顔を向けられた増山さんは、真っ赤になって押し黙った。
「まあ、こんなとこで立ち話もあれやし、そこでおうどんしばいていかへん?」
と、姉さんは橋の向こうのうどん屋を指さす。
俺はため息をついてうなだれながら、横目で増山さんに許しを請うように「どうします?」と視線を送った。
増山さんはなぜか嬉しそうに、
「ええよ」
と微笑んだ。
店内のテーブル席。
テーブルを挟んで据えられた、二つの毛氈敷きの床几に、それぞれ二人づつ向かい合って座り、俺たちはうどんを待ちながら話をした。
俺の右隣に増山さん、向いに姉さん、その隣に坂本さんだ。
「失礼ですが、お姉さんて」
皆が座り終わるのを待って、増山さんが斜向かいの姉さんに話しかけた。
「お仕事、何したはるんですか? 劇団て聞こえたんですけど」
「劇団はまあ昔の話やね。今はちょっと芸能界というか、エンタメ産業のはしっこにいる感じで」
「ええ! すごいじゃないですか!……ひょっとしたらそれでかな。どこかでお会いしたような気がしてたんです」
「あはは、それは気のせいかな。あんまり表に出ることはないから」
この説明で身バレ回避しているところを見るのは今回が初めてではない。実は発言内容自体にウソは含まれていないところがミソだ。
諏訪原千織の時の姉さんはすこし声を作っているので、普段のしゃべりとは若干声色が違うから、多少話し込んでも声だけで身バレすることは普通は無い。
ただ増山さんは、実は姉さんのヘビーリスナーでもあるので、すこし心配になった。
「ええと、そっちの、坂本さん?のことも紹介してほしいんやけど」
俺は話を逸らしがてら、気になっていたことを訊ねた。
坂本さんはちょこんと膝の上に手をのせてすわり、不安げに姉さんの方ばかりを見ている。
「なんやおまえ、二股かける気か?」
「ちゃうて。さっき挨拶してそれっきりやったから」
その挨拶もお辞儀だけで、現在坂本さんについて知っている情報は苗字が坂本ということぐらいだ。
「こっちもどう接したらええかわからへんし。ねえ?」
と坂本さんに同意を求めると、彼女はびくりと身をすくめて、姉さんの左袖にすがるようにして顔を隠した。
「え?」
なんか嫌われるようなことしたかな?と不安になったが、
「この子はまあ、こういう子なんや」
と姉さんは言った。
「お母さんが北欧のどっかの国の人で、こんな見た目やから、いろいろコンプレックス持っててな。筋金入りのコミュ障やねん。見た目は可愛いらしいさかい劇団に入れられたんやけど、昔はもっと人見知り激しい子で。それでもあたしにだけはちょっと仲良くしてくれてな。面倒みてた。――その後いろいろあって、今に至るというわけや」
後半ざっくりしすぎやろ。
まあ、嫌われているわけじゃないのならいいか。
話しているうちに、うどんが出来上がる。
増山さんと一緒にいたので気にならなかったが、今日は滅茶苦茶寒かったので、温かい昆布と鰹の合わせ出汁が冷えた体に沁み渡った。
「ところで、増山さんのこと訊いてええかな?」
一息ついたところで、姉さんは増山さんの方を見て言った。
「は、はい」
品定めをするような姉さんの表情に、増山さんはすこし緊張しているようだ。
「弟と同じビーちゃん推しなんやて?」
「そ、そうです」
「彼女の、どういうとこが好き?」
そう訊かれると、増山さんはにわかに、ぴん、とタガが外れたように、早口で語りはじめた。
「そらやっぱり、最初にくるんは歌ですねー。あんなモンスターどこで見つけてきたんや、て最初思いましたもん。歌う技術もですけど、声がね。あと、ゲームなんかで、初見は下手でも努力してちゃんとうまくなれるとこ。ゲーム配信のアーカイブ観てくれたらわかるんですけど、コツをつかんでからの伸びがすごいんですよビーちゃんは。それをわかってない指示厨湧くの見るとほんま腹立ちますよ。あ、アーカイブで思い出したんですけど、ビーちゃんのアーカイブてめっちゃわかりやすくリスト化してくれてて――」
「語るなあ、さすがやなあ」
増山さんの語りはまだまだ長くなりそうだったので、姉さんが適当なところでぶった切って止めた。
「……すいません、布教スイッチ入ってしまいました」
「いやいや。実はね、弟に近づくために話を合わせて言うてるだけなんちゃうか? 思て、少し疑ってたから訊いたんやけどな。ガチなんがわかって良かったわあ」
姉さんが女狐の様な表情で笑った。
「ああ、そういうことやったんですね。でも、実際弟さんに影響されたとこもありますよ、もちろん。――好きな人と同じ人を推せるのは幸せですわ」
そう言って増山さんは姉さんににっこりと笑みをかえした。
……なんかテーブルの真ん中で微弱な火花が散ってるように見えるのは気のせいだろうか。
「とにかくまあ、いい関係みたいで安心したわ。――シャレ抜きで言うけど、この先も、弟と仲ようしてくださいね」
「はい、任せてください!」
増山さんの元気のいい返事を確認してから、姉さんは、おもむろに俺に向き直って言った。
「あたしなあ、近々東京に引っ越すことにしたから」
俺は危うく、うどんを吹き出しそうになった。
***
姉さんが、東京に引っ越す?
一瞬、言葉の意味を理解できずにパニックに陥り、そして理解するや、目の前が真っ暗になった。
「聞いてない! 聞いてないよ!」
「うん。そやから今はじめて言うたもん」
姉さんは人の気も知らず、まるで当たり前のことを言うような口ぶりだ。
「なんで――」
まず口をついたのは「なんで」という思いだった。
「やっぱり仕事の都合やねえ」
姉さんは淡々と理由を説明した。
「オンラインではできない仕事もあって、その都度新幹線で行くのは経済悪いし、あと、何かあってドタバタしたときに小回りが利くんよね、東京にいると」
釈然としない。今までだってそうだったし、それで実家を出るなんて言い出すことは無かったやないか。
もちろん理性では、いつかそういうこともあるだろう、と理解していたけれど。
「そやかて……そんな急に」
「近々、言うてるやん。今日明日の話ちゃうよ」
「いつ頃になりそうなん?」
「いまマネさんに部屋探してもろてるから、早くて三月かなあ」
それでも、不意打ちを食らったような理不尽さを感じずにはいられない。
「……受験終わるまでは、いてくれるんやんな」
もう泣きそうな声になってる。彼女の前やのに、姉さんのことで泣くなんて。
「なんやの、情けない声出して」
姉さんはテーブル越しに、右手で俺の肩を少し強めに叩いた。
「お姉ちゃんな、もう安心してんねんよ、あんたのことは。自分で考えて進路も決めたし、しっかりした彼女もいてはるし。――ちゃんと姉離れできるぐらい頑張ってるやん」
そんなことを言われても……
「ちょっといいですか」
増山さんがそこで、おずおずと手をあげて、遠慮がちに口を挟んだ。
「ご家庭の事情に嘴つっこんで申し訳ないんですけど、やっぱり話が急すぎませんか?」
姉さんは少し驚いたように彼女を横目で射るように見た。意見されるとは思っていなかったのだろう。
増山さんは臆することなく、言葉をつづけた。
「……うちも、お兄ちゃん離れなかなかできひんかったから、何となくわかるんですけどね。弟さんきっと、姉離れするにしても、お姉さんと『対等』になってから離れたいんですよ」
そうだ。
それは、自分自身にもよくわからなくてモヤモヤしていたことを、的確に説明する言葉だった。
姉さんがいなくてもやっていけるようになりたいと、ずっと思っていたけど、それは姉さんに追い付いて追い越してからだ、とも思ってた。
「せやから、急にお姉さんの方から『離れる』って言われたら、なんというか、勝ち逃げされたような気分になると思うんです」
「勝ち逃げ、か――そやね」
「もう決まったことや、いうんは分かりますけど、それでも、心の整理する時間が必要やと思うんです。――まあ、これはうちが勝手に思うだけかもしれませんけど……」
それを聞いて、姉さんはどんぶりに残っていたうどんつゆを一気に飲み干し、テーブルの上に置くと、すっと立ち上がった。
そして深々と、増山さんに頭を下げた。
「ごめんね、気ぃ使わせてしもて」
そして、すぐにしゃんと立った姿勢になり、腰に手を当て、今度は俺の方を見下ろした。
「あんた、彼女のこと大事にしいや」
「え? そらまあ、言われんでも……」
「実はな、お姉ちゃん、ここ最近あんたに先を越されてるようで焦ってた」
「焦ってた……?」
姉さんは床几の上に座り直すと、目を細めて、遠くを見やるように言った。
「さっきも言うたけど、あんた最近しっかりしてきたさかいな。それで、あたしも先に進まんとなあって。あたしの方も、ちゃんと弟離れせんとあかんなあ、って。それがほんまの引っ越す理由や。――そやからまあ、増山さんには悪いけど、今回は勝ち逃げさせてもらうわ」
そうか、と得心がいった。
俺はようやく、姉さんを焦らせることができた、ってことか。
それなら――それなら、受け入れよう。姉さんとの別離を。
受け入れられるように努力しよう。
まだ完全に気持ちの整理がついたわけじゃないけど――。
増山さんが横から差し出してくれたハンカチを、今は遠慮なく使わせてもらう。
「わかった」
拭いてもあふれてくる涙をこらえながら、俺は姉さんに精一杯笑顔を作ってみせた。
「いままで、おおきに」
***
そのあとしばらく、姉さんも増山さんも坂本さんも、俺が落ち着くまで待っていてくれた。
「さ、そろそろ出よ。あたしら車で来たから、送ったげるわ。駐車場の方にまわるで」
姉さんに急かされてうどん屋を出るころには、既に夜になっていた。
冬の夜の外気の寒さが、急に顔を撫でる。
一足遅れて出てきた坂本さんが、すこし震えて、「いくちゅ!」とかわいいくしゃみをした。
「くしゃみたすかる」
「くしゃみたすかる」
条件反射で出た俺と増山さんの声がハモった。
ん?
二人で顔を見合わせる。
なんだろう、このデジャヴュ――。
…………
……
…
「あ」
情報量の多い俺の方が、先に答えにたどり着いて、思わず声を上げ、坂本さんの方を見直した。
坂本さんは口元に両手をあてて、「しまった」という顔で、上目遣いに姉さんを見ていた。
「あー、ええと、ちょっと待って。混乱してるんやけど――そういうことなん?」
増山さんが、やや上ずったふるえ声で訊いてくる。
聡明な彼女のことだ。姉さんのことにも気づいたのだろう。
姉さんは深くため息を吐いて、額に手を当て、「これは想定外」と沈痛な面持ちでつぶやいた。
「なんや、どっかでバレそうな予感はあったけど、まさかの『くしゃみたすかる』かぁ……」
その言葉で、俺の推測は確信になった。
いま目の前にいる銀髪の美少女、坂本さんこそが――俺たちの推し、電子の妖精フィービー・シルエットの「魂」の姿なのだ、と。