7:或る寒い冬の朝に
早朝のネットカフェ。
始発に合わせて帰るお客さんも一段落ついた。
出勤してきた時は雪がちらついていたが、天気情報を見ると、もう止んでいるようだった。
俺は従業員控室で、手すきの時間を利用して、増山さんと一緒に今日の授業の予習をしていた。
BGM代わりに、先月公開された、七期生五人による「Tiny Triunphal Tales」の歌動画をスマホでループ再生している。
「TTT」はフルダイブプロジェクトのテーマソングともいえるオリジナル楽曲で、先輩たちもライブイベントなどで大事に歌い継いできた歌だった。
遅れてデビューした七期生の他の四人も、それぞれ個性的な歌声の持ち主で、フィービーの独唱とは違うアイドルグループっぽいテイストに仕上がっている。アレンジも控えめに言って最高で、なかんずく、ただでさえキャッチ―なTTTの歌詞が際立つパート分けは神がかっていた。
「増山さん、イブのご予定は?」
一段落したところで、俺がおもむろに訊ねると、増山さんは自分のスマホの予定表を確認しながら答えた。
「京大特講、源田の基礎解析」
「俺は朝からの共通テスト直前年末特講でして。お休みいただいてますんで」
「あー、朝七時からのあれなー。――あ、そしたら、一緒のシフトは今日までか。いままでおおきに」
「お世話になりました」
俺と増山さんはパイプ椅子から立ち上がって、恭しく互いに一礼した。
夏の終わりから、推し活の資金稼ぎのために始めたこのアルバイトも、今月末で契約が切れる。
受験も本番直前なので、俺たちは勉学に集中しなければならない。
十二月も下旬に入り、巷はクリスマス気分に華やいでいるけれど、受験生にはまったく関係が無い別世界の出来事だった。
増山さんとは連絡先を交換し合っているので、バイト先で会えなくなったとしても、お互い励ましあうことはできるだろう。
フィービーを推していなければ、そんな盟友とも言える人と親しくなることも無かった。
「実は俺の誕生日、四月の頭なんですよ」
「ん? 急に何?」
増山さんが怪訝そうな顔を向ける。
「ええと、来年、二十歳になるんで。お花見いって一緒にお酒飲みましょう」
「ああ! ええやん――桜が咲いてるのが条件やけど」
「きっと咲きますよ、桜」
そんな他愛ない会話をしつつ業務を終了し、二人並んで予備校への道を急ぐ。
師走の朝、駅前はまだ、すれ違う人も少ない時間だ。
静かな朝の風景の中で、俺たちも自然と言葉少なになる。
「うわ、寒っ」
ガード下をくぐったところで、ふいに寒風が吹き抜け、増山さんのコートの裾を揺らした。
「寒くなりましたね」
「そやな――まだちょっと時間あるし、喫茶コーナーで温かいもん飲んでいかへん?」
「いいですね」
予備校の一階ロビーの奥に、セルフサービスの喫茶コーナーがあって、朝一から解放されている。
他の塾生はいないようだ。
紙コップ式の自動販売機で、二人とも暖かいブレンドコーヒーを淹れて、窓際のカウンター席に並んで座る。
「さっきのお花見の話やけどな」
一心地ついたところで、増山さんは唐突に話を切り出した。
「やっぱり約束できひん」
「え?」
「うち、もう二回も桜散らしてるからなあ。どうしても億劫になるわ」
「今からそんなこと――」
わかりませんやん、という前に、増山さんは首を横に振って言葉をつづけた。
「うちが京大に行きたかったのはね、二つ上のお兄ちゃんが居て、一緒のとこで勉強したかったからやねん」
「初耳です」
「そらまあ、今はじめて話したもん。――でな、お兄ちゃんは現役合格で、うち二浪してるから、来年合格できたとしても、お兄ちゃんと一緒にはなられへんやん?」
二つ上なら今年二十二歳で、現役合格なら、留年してなきゃ学部の卒業年度だ。医学部ならワンチャンあるけど、増山さんの志望は工学部だったはずだ。お兄さんもそうなのだろう。
「なんでうち、京大行きたいんやろな、って」
俺は自分が九か月前に味わった、足元の地面が崩れていくような感覚を思い返していた。
増山さんも似たような迷いと戦っていたのだろうか。
普段の彼女の、達観したような大人びた物言いからは想像もつかなかった。
「お、お兄さんは、なんて言うてはるんですか?」
沈んだ空気をなんとかしようと、つとめて明るい口調を意識してそう言うと、増山さんはいっそう沈んだ表情になって肩を落とした。
「無理するな、って――無理してるように見えるんかな」
「あー、まあ、それはそれで優しさやと思いますけど」
「うん。でも、うちが欲しい言葉やなかったなあ……」
普段がカラっとした性格なだけに、お兄さんのことでだけここまで思いつめる増山さんを、どう扱っていいものか分からない。
「――まあ、結局今年も京大志望出したんやけど。一度めざしたからには、思て、意地でな。でもいざとなるとモチベ保てへん――ここに来て、逃げ出したい。今、マジで」
そう言って、また一口コーヒーを飲む。
どうにか励ましてあげかったけど、今の俺の立場や関係性で彼女にかけられる言葉なんてない。
「……そんなわけでね。この後ほんまダメなるかもしれへんから、そうなったらもう君に連絡もせえへえんと思うねん――今日で、これで会えるの最後かもしれへん」
「そんな……」
「そうなる前に、今のうちに言うておきたかってん」
増山さんはゆっくり丸椅子を回して体ごと、絶句した俺の方に向き直った。
「――君のこと好きや、って」
***
こういう流れで言われた「好き」の意味を取り違えるほど、俺は朴念仁ではない。
「……最初はね。ビーちゃん推しの仲間に会えたーってだけでうれしくて、声かけたんやけど」
目を瞑り、思い出したことを一つ一つかみしめるように彼女は語った。
「君のことずっと見てるうちにね。優しいところとか、熱心なところとか、自分の間違いに自分で気づいて、素直に反省できるところとか――それより何より、推し活を自分のエネルギーにできるポジティブさがね、見てて羨ましいぐらい眩しくて――気ぃ付いたら、好きになってしもてた」
返答に窮して、無言のまま数秒が過ぎた。
喫茶コーナーの自動販売機がうなる音が、静寂の中で耳障りなくらいに響く。
「あの、ごめんね。迷惑やったよね、こんな――」
沈黙に耐えきれなかったのか、増山さんは恥ずかしそうに言葉を継いだが、俺は最後まで言わせず、
「いえ、そんな」
と遮った。
「ただ、びっくりして……」
「ほんまごめん。大事な時期やのに――今すぐ返事が聴きたいとかじゃないから。イヤやったらイヤ言うてくれたらええから」
「イヤなわけないじゃないですか!」
俺は少し腹が立って、語気を強めた。
そうだ。返すべき言葉はとっくに決まっていた。
「俺かてね、増山さんと知り合って、一緒に勉強して、バイトして、推し活してて、だんだんどんな人かわかって、それでもまだ知らん事ぎょうさんあって――もっと増山さんのこと知りたいと思いましたし、そうなったらもう――」
そこで一呼吸間を置いて、勇気を振り絞る。
「もう、好きになってましたし。女性として」
「……え? ほんまに?」
「うそちゃいますよ。夏に一回だけワンピース着てきはったときはドキドキしてましたし、ファミレスで一緒にGPEX観てた時はデートみたいやったな、て後から思いましたし、今日かて可愛い冬服どうやって褒めよかてずっと思うてましたし」
話し出すと、秘めていた思いが止まらなくなった。
「――でもお互い浪人やから、そういうのはみな合格してからにしようと思ってたんです。……春になったら、二人でお花見いって、桜の下で」
「酔っぱらって?」
「そう、酒のんだ勢いで――って茶化さんといてくださいよ!」
「ごめん、つい」
俺は咳ばらいをして、急に気恥ずかしくなって、ついと横を向いた。
「そういうわけですから。――俺も好きです。増山さんのこと。そやから、これが最後なんて言わんといてください。頼りないかもしれへんけど、お兄さんの代わりに、俺が支えになります。一緒に、絶対合格しましょう!」
言い切ったところで、ちらと横目で彼女の表情を窺う。
「こっち見て言うてほしい」
顔を真っ赤にして、上目遣いになり、増山さんは小声でそっと要求を伝えてきた。
自分の顔は見えないけど、俺も同じくらい赤くなっているに違いない。
「……増山さん」
ぶん、と顔を振って、彼女の要求通り、俺は真正面から告白した。
「俺の恋人になってください」
「はい――よろしくお願いします」
バイト仲間で推し活の同志だった増山さんは、こうして俺の彼女になった。