2:妖精のうた
受験生としての気負いとか身内の気恥ずかしさがあって、去年までは姉さんの活動を視聴者として観ることは少なかったのだけど、あの夜以来、姉さん――フルダイブ一期生「諏訪原千織」のGoCubeチャンネルを、時間の許す限り視聴するようになっていた。
姉さんのもう一つの顔は、俺の知る「魂」の外見とは似ても似つかなかったけど、それでも画面の向こうで喋ったり笑ったりする姿は、演技も取り繕いもない、素のままの姉さんだった。
たくさんのリスナーさんに愛され、弄られ、笑いあっている華やかなチャンネルの雰囲気には、まさに姉さんが子役の頃からずっと思い描いていた世界が結実している。
そして姉さんをきっかけに、彼女と交流のある他のバーチャルタレントの配信も見るようになっていった。
「フルダイブ・プロジェクト」には、現状で姉さんを含めて、国内勢だけで三十五名のバーチャルタレントが所属している。
姉さんと誰かのコラボ配信がある都度、コラボ相手のチャンネルを登録して、さらにそのコラボ相手の……とやっていたら、気がつけば全メンバーが芋づる式に登録済みチャンネルになっていた。
姉さん以外のフルメン(フルダイブメンバー)さんも、みんな面白くていい人ばかりだ。
実際に配信を視聴し始める前は、全員ひとくくりに「アイドルグループ」という認識で、顔と名前の区別もついていなかったが、興味を持ってニ、三人の配信を観たところで、それぞれに個性があり、得意分野があり、配信スタイルの工夫があることが分かってくる。リスナーとの関係性も様々だし、チャンネルの空気も違っている。
受験勉強で根を詰めすぎて気が滅入りそうなときも、誰かしらの配信でバカみたいな雑談を聴くだけで、持ち直したり救われたりする。彼女たちが集まって踊ったり歌ったりしているのを視聴するだけで、今日を生きる力をもらえる。
おかげさまで、すっかりVの沼に片足を突っ込んでしまった。
浪人生という立場もあって、投げ銭もできずグッズも買えず、パワーをもらうばかりで何もお返しができないのがもどかしかった。
当初から俺の応援スタンスは基本「ハコ推し」で、姉さんは別として、特定の誰かを強く応援したい、という感じではなかった。
それが変わったのは、七月になって、とある新人メンバーがデビューしてからだ。
フルダイブでは、新人のデビューは数か月から半年ぐらいの区切りで数名がまとまってデビューし、その同期メンバーを「○期生」という感じでひとまとめにする。
プロジェクト立ち上げ直後の公募でデビューした、姉さんを含む六人が「一期生」、その後の半年でデビューした五人が「二期生」といった具合だ。このほかに、特殊な事情で同期がいないメンバーについては便宜的に「ゼロ期生」と呼ばれたりする。
前回の六期生デビューからすでに八か月が経過していて、その間新人の加入がなかったので、ファンコミュでは「七期生は来年かなあ」などとささやかれていた。
ハコとしての勃興期を終えて、ひとまず現メンバーで売っていこうという体制に切り替わったんだろうな、と俺も漠然と思っていた。
そこで、まさかの新メンバーデビューの公式発表があったのが、七月十日のことだった。
満を持してのサプライズ。しかも、異例のソロデビューだった。
〈フルダイブ七期生の一番手、フィービー・シルエット、十六歳です! 歌います! よろしくお願いします!〉
初配信前のSNS投稿で、彼女は初々しくそうつぶやいた。
公式の立ち絵は、銀髪、やや幼い顔立ちの小柄な容姿で、ゆるりとしたワンピース基調の、妖精のような衣装をまとった女の子だった。
片膝を曲げてステップしているような躍動的な姿勢で、挑発的な笑みを浮かべてこちらを見ている。
正直言ってこのビジュアルは好みだ。
公式の説明文には「歌うことが大好きな電子の妖精。生意気でかわいい、みんなの妹分」と書いてあったけど、バーチャルタレントの公式説明文ほどあてにならないものはない。
ちなみに姉さんのは「魔法学校の生徒会長。清楚な女子高生」だった。清楚……いや、何も言うまい。
とにかく、蓋を開けてみるまで、初配信を観るまで、どんな人なのか分からないのがVだ。
フィービーの初配信は幸いにも、予備校の休講日の前日の夜だった。
これは運命。観るしかない!
勝手にそう盛り上がって、当夜はスマホの前で正座待機していた。
そこに、姉さんが勝手にドアを開けて入ってきた。配信定休日なので夜まで自室でゲームの練習をしているはずだったけど。
「……何してんの?」
ベッドの枕にスマホを立てかけ、イヤホンを両耳につけて神妙な顔で正座している俺を見て、彼女は呆れた声でそう訊いてきた。
「何か用?」
俺は振り向かずにそのままの姿勢で問い返した。
「イヤホン壊れたから借りよう思て」
「ごめん、あと一時間くらい待ってくれへん?」
俺はそこでようやく振り返って、姉さんに手を合わせて謝った。
夜中に外部スピーカーで大音量はさすがに近所迷惑だから、ステレオで聞きたいならイヤホンは必須だ。
「何か観るの?」と姉さん。
「フィービーさんて新人さんの初配信」
「あー! そやったらええわ、後でな。……ふふふ」
姉さんは意味ありげな、なにか悪だくみをするときのような表情でニタニタ笑いながら、ドアを閉めて退出した。
「なんやねん」
姉さんの態度に若干の疑念がわいたが、配信開始時間が迫っている。だが、すぐにそんなことは忘れて、待機所のコメントを追った。
〈ソロデビューってゼロ期生ちゃうんか?〉
〈一人時間差デビューは前にもあった〉
〈歌います! はよかったな〉
〈清楚枠だと信じたい〉
まだ見ぬ新人に対して、期待と願望の入り混じったリスナーのコメントが、チャット欄を高速で流れていく。
チャンネル登録者数は開始前に既に二万人越え。
最初から収益の見込める数字を獲れるのは企業勢Vの強みだ。
ちなみに姉さんたち一期生の初配信の時は、みんな千人もいっていなかったから、業界として、市場としての三年間の成長を示すこの数字には隔世の感を覚える。
配信タイトルは
【七期生】はじめまして!フィービー・シルエットです【はじめのいっぽ】
というシンプルなものだ。
概要欄にはフルダイブお決まりのテンプレ注意事項のほかに、協力者の一覧が書き添えてあったのだが、その中に見知った名前を見つけた。
OP動画:すわてぃせんぱい
すわてぃせんぱい……とは諏訪原千織の愛称、すなわち、うちの姉さんのことやんか!
思わず地の文でツッコんでしまったけど、さっきの謎の微笑みの理由はコレか……
***
気を取り直して、姉さんが作ったというオープニング動画を観る。
フリーBGMのオルゴール曲に合わせて、テンポよく公式立ち絵がゆらゆら揺れたり、ファンタジックなデザインのシンボルマークや、音符や音楽記号が飛び交ったりする三十秒程度の動画で、シンプルかつオシャレにまとめられていた。
本人のビジュアルは公式絵のシルエットしか出てこないが、そこがまたミステリアスで良い。
三年前の姉さんは、動画編集ソフトの使い方すらおぼつかなかったのに、今やこっちが教わりたいほどにスキルアップしている。
〈このOPすわてぃなんか〉
〈これは清楚(概念)〉
〈OPおしゃ〉
と他のリスナーさんにも好評だ。
そのOPが明けて、ようやく新人さんのお出ましとなる。
フルメンが通常配信で使用するアバターモデルは、「2D;Stream」というモーフィングソフトを使ったもので、スマートフォンで撮影している配信者の「魂」の表情や動作を、リアルタイムでモデルに反映させている。
デビュー前に公表される立ち絵が、表情の動くモーフィングモデルにどう落とし込まれるのか、というのが新人Vをお迎えする際の楽しみの一つでもある。
「ええと……みなさま、こんばんは! はじめまして! 本日デビューしました、フルダイブプロジェクト第七期生、フィービー・シルエットと申します! よ、よろしくお願いします!」
すこし緊張した様子ながらも、フィービーは元気にそう挨拶して、にっこりと笑った。
チャット欄がにわかに
〈かわいい!〉
で埋め尽くされる。
俺も埋め尽くすのに協力した一人だ。
表情がかわいい。
声もかわいい。
2Dモデルになったフィービーは、挨拶の一言の間に、笑顔や、少し困ったような表情も見せてくれて、立ち絵よりも可憐さを増している。
その後彼女は、自己紹介(電子の妖精なんだって!)、自分がなぜフルメンになったか(六期生枠にも応募してたんだって!)、自分の趣味(DTM制作だって!)、好きな食べ物(海南鶏飯だって!……ってどんな料理だ?)、これからの活動方針(歌枠中心だって!)などを、よどみないトークで話し終えた。
そして、リスナーのファンネームや、SNSで使うファンマーク、ファンアート用タグなどを、コメントをうまく拾いながら決めていった。後半は緊張が取れてきたのか、トークの合間にアドリブを挟んできたりもした。
初配信定番のコーナーが一通り済んだところで、
「さいごに、少しの時間だけど、わたしの歌をきいてください」
という言葉とともに、先ほどまでの壁紙のような背景画像が蓋絵で隠れ、直後、ライブハウスのステージのような絵に切り替わった。
歌のセッティングのためなのか、そこから少しの間2Dモデルが消え、声が途切れる。
そういえば、SNSでも「歌います」って言ってたし、歌枠メインとも言っていたから、やはり歌うのが好きなんだな、と思いながら待っていると、彼女は再び現れて、モデルの立ち位置が画面の真ん中に修正された。
「あー、あー、あー、あー。どうでしょう? 音量大丈夫ですか?」
声が入った。少しエコーがかかっている。歌用のマイクセッティングに切り替えたのだろうか。
〈大丈夫!〉というコメントが流れるのを待って、彼女は、
「では行きます」
と一言。
イントロが流れる。
俺も知っている歌だった。
十数年前に公開された超有名劇場アニメのエンディングテーマで、原曲はオペラ歌手が歌っていたはずだ。
ロングトーンの安定と、音域の広さが要求される難易度の高い楽曲。
――選曲、これで大丈夫なんか?
若干の不安が脳裏をよぎった時、彼女の歌声がイヤホン越しに俺の耳に入ってきた。そして――
最初のワンフレーズで、心を奪われてしまった。
彼女の歌唱力は、俺の想定していた「歌うま」の上限をはるかに超えていた。
トークの声は軽妙なのに、歌声には声量があり、声の伸びや張りも良く、ブレスには魂がこもり、リズムや音程の狂いもなく、表現力豊かにラスサビのリフレインまで、フィービーは見事に歌い切った。
チャット欄には拍手の絵文字と、その歌唱力を絶賛するコメントが、追いきれないほどのスピードで流れていった。
この世にこんな素敵な歌声の女の子がいるのか――話し方もめっちゃ好みやったし。
その時から、俺の最推しはこの子に決まった。