世界最高のまじゅちゅし
静かな居間に、一組の男女の影。
その正体は、俺と、このボロ家の家主である少女だ。
外からは小鳥の囀りが。内からは暖炉にくべられて燃え盛る薪が、己の存在を主張するように小さく音を立てている。
今時の現代日本においては滅多に見ないであろう、古めかしい木造の内装に溶け込む木製の家具類。
ここだけ時代に取り残されたのではないかと勘繰りたくなる程に古風な印象を受ける割には、身を優しく包まれるような温もりを感じさせる。
この家を訪れた客人は安らぎにも似た安堵感を覚えることだろう。
室内に漂う空気は清潔そのもので、隅々まで掃除が行き届いていることがよく分かる。
そんなことを思いながら、俺は風穴をぶち破ってしまった天井を眺めた。
頭の上にパラパラと落ちてくる木屑が実に鬱陶しい。
インテリアの常識を覆す、斬新な模様替えを施してしまった事実に最初こそ肝を冷やしたが、家主が気にするなというので、今はもう気にしないことにした。
そして、人の家の屋根をぶち抜くなどというとんでもない粗相をやらかした俺の目の前には、優雅に茶を飲む小柄な少女――年齢的には10歳前後にしか見えない、この木造ボロ家の家主――が、ニコニコと嬉しそうとも楽しそうとも取れる笑みを浮かべて座っている。
目が覚めるような美貌と儚げな雰囲気を併せ持つ少女だ。
腰のあたりまで伸びた癖のない長髪は艶やかな銀色で、陽光を反射して白金の如き優美な光沢を纏い、それ自体が宝飾品にも劣らない美しさを誇っていた。
くりくりとした愛嬌のある瞳の色は蒼銀であり、綺麗に整った長い睫毛を瞼に飾っている。その独特な色彩は、外見の幼さに見合わない聡慧さを内包しているようだ。
サイズが合っていないぶかぶかのローブを着こなす姿は幼稚ながらも、裾から覗く白い太腿にはシミ一つない。清楚と可憐を完璧な黄金比で同居させた絶妙な色香には、ただただ言葉を失うばかりである。
その手の趣味を持つ人間に出会ったが最後、彼らはあらゆる労力を惜しまず、万難を排してでも彼女をハイエースすることだろう。
見る者の不安を掻き立てる、そんな危うげな魅力を放つ少女だった。
「ほれ、温かいうちに飲むといい。煎じたハーブには心身を穏やかにする効果がある。苦ければ、砂糖か蜂蜜を使うとよいぞ」
陶器のティーカップに注がれたお茶からふわふわと湯気が立ち昇り、ハーブの良い香りが鼻腔をくすぐる。
しかしながら、今はお茶に手を付ける気分にもなれなかったので遠慮した。
「……もしかして、ハーブティーは嫌いだったかの?」
上機嫌に茶を勧めていた少女が、ここで不安そうな声を上げる。ふと目線を向ければ、悲しそうな顔で上目遣いに見つめられていた。
その捨てられた子犬のような眼差しに耐え切れず、俺は渋々ながらカップに手を伸ばす。
「……いただきます」
まぁあれだよ、あれ。リラックス効果があるというのは有難い。今の俺に最も必要な要素だ。……さすがに毒とかは入っていないよな?
あぁ、ダメだ。疑心暗鬼になってる。普通に考えて、俺に毒盛る理由なんてないだろうが。
俺は混乱を極める内心を落ち着かせる為に、舌を湿らせる程度の量を少しずつ飲み下していく。
あぁ、美味い。ハーブ故に慣れない人には少々苦味がキツイかもしれないが、渋みはいい感じだ。苦味も渋みも楽しめる味覚を持ってる俺としては、このハーブティーの味は嫌いじゃない。
「美味い」
「――! そうか、口に合ってなによりなのじゃ」
ユメリアは自分の淹れたお茶を褒められて、嬉しそうに笑みを浮かべる。つられて、俺の唇の端も微かに緩んだような気がした。
さて、今更ながら自己紹介を。俺の名前は斎河幸人。平仮名でさいがゆきと、と読む。
もう1人、ダボッとした紺色のローブに身を包み、長い銀髪を整えることもなく無造作に地面に垂れ流している少女の名はユメリア。
俺は日本の首都の真下にある県に根を下ろす、21世紀を生きていた現役高校2年生だ。
それがどういうワケか、今現在、自称『世界最高の魔術師』を名乗る少女と茶飲み話に興じている。
意味がわからないと思うが、俺もわからない。
とりあえず、俺の身に一体何が起こったのか、ダイジェストで解説するとこうなる。
俺、高校生、夏休み。課題である読書感想文の題材にする為の小説を古本屋で物色中、変な皮張りの本を見つける。んで、その本を手に取ってみたら眩しい光に包まれて、気付いたらどっかの空中に放り出されていた。
そして、そのまま無様に落ちた。
呆然と身を硬くしているうちに眼下の森に突っ込み、枝葉を折りながら藁敷きの屋根に尻を直撃させて、天井に風穴をぶち開けながらも奇跡的な具合で室内の椅子に着席。
「ふむ……予定していた時間よりも随分と早いのう。まぁ、ええじゃろ。世界最高の魔術師の家にようこそ――って、誰じゃぬしぃ!?」
掌大の懐中時計を見やりながら、ドヤ顔で歓迎の意を示そうとした銀髪少女が目を剥いて驚愕し、危うく背中から椅子が倒れそうになるのを「あわわわわ!」と、わたわたしながらなんとか回避して、ぜぇぜぇはぁはぁと息を荒げる。
その後、急転する事態に付いていけず、狼狽するあまり声も出ない俺の様子に気付いたユメリアが「むむ? 何やら酷く怯えておるようじゃな。安心せい、わしはぬしを取って食ったりなどせんよ」と、ひたすら言葉を尽くして宥め続けてくれた。
それでようやく落ち着きを取り戻し、会話ができるまでに精神が回復したところで、互いの自己紹介とここに来るまでの経緯を説明。
ついでに屋根をぶち破ってしまったことを謝罪。
謝罪を快く受け入れてくれたユメリアに、転移の元凶と思われる分厚い皮の装丁の本を証拠として差し出した。
俺から本を受け取ったユメリアは物凄い速さでページを捲っていき、最後のページまであっという間に読み切ると、合点がいったと納得顔で頷いた。
理由はわからないが、本の中身を読んだことで全ての事情を把握したらしい。何が起こったのかを説明をしてくれると言い残し、彼女は台所へ向かって、お湯を沸かし始める。
お湯を沸かしている間に、どこか怪我をしていないか診てくれた後、「飲み物があれば舌の滑りも良くなるじゃろ」と、ハーブティーのポットを持ってきてくれた。
そのまま慣れた手付きでハーブティーをカップに淹れてくれたところで、今に至る。
「ふふっ。予定にない客人というのも存外嬉しいものじゃの! もうしばらくすればティアリーズが来るとはいえ、こうして客人をもてなすのは久方ぶりじゃ」
ユメリアは実に機嫌良さそうに、お茶菓子としてテーブルに置かれたクッキーを手に取り、もきゅもきゅと口に頬張る。
「さて、ユキトに事の真相を説明するとして、どう話したらよいものかのぅ……」
うーん、と悩むように首を捻るが、思い直したように口を開く。
「まずは、ここがどこなのかハッキリさせておくとしようかの」
ユメリアはくいっとティーカップの中身を空にすると、ソーサーに置いた。
「今、お主がいる国の名はキルフェルニアという。そしてここは、他国と国境を跨いで生い茂るアクィナス大森林内に建てられたわしの家じゃ。付け加えていうなら、この国の辺境伯であるベクター卿の領内じゃな」
「……キルフェルニア?」
そんな国、聞いたこともない。
「左様。皇帝アルテリオが治める帝国じゃの」
「………………」
帝国とか、皇帝とか、おい。
現代において国際的に皇帝(Emperor)の称号を認められてるのって日本の天皇陛下だけなんだぞ。
それが、なんで……まさか、そんなバカな。
「察したようじゃな。おぬしの懸念通り、ここはユキトにとって『異世界』と呼ばれる場所になる」
「……嘘だろ」
思わず頭を抱える。
こんな流行りのラノベ的展開、望んでないんだけど。
そんな俺を気の毒そうに見つめるユメリアは、ポットから自分のカップにハーブティーのおかわりを注いだ後、俺のカップにも注ぎ足してくれた。
「――それにしても『異世界』ときおったか。おぬしがいた『地球』とわしらがいるこの世界は同一空間にあるというわけでもないようじゃし、言い得て妙じゃの」
「それ、どういう意味だ?」
「おぬしにも理解し易いように述べるなら、お主がいた世界はのんふぃくしょん。わしらがいる世界はふぃくしょんといったところじゃな。まぁ、わしからすれば逆なんじゃがの!」
カラカラと愉快そうに笑うユメリアだが、俺は全く笑えない。
熱いのも構わず、カップの中身を半分程、一気に喉に流し込んだ。
胃がカッと熱くなり、現実を受け入れられずに眩みそうになる視界をなんとか保つ。
熱いお茶のおかげで少しばかり落ち着いた頭を振り絞り、考えてみた。
何がどういう理由で、俺はこの世界に招かれたのか。俺は元いた世界に帰れるのか。
ていうか、そもそもの疑問として、何でもこうもすんなり"話が通じる"のか。
「幾つか質問があるんだけど、いいか?」
「なんじゃ?」
「何で、俺がいた世界の名前を知ってるんだ? 経緯は教えたけど、俺がどの星から来たなんて話は一度もしてないぞ。それに、俺の話をすんなり信じてくれた理由も知りたい」
「ほう、少しは冷静に物事を考えられるようになったようじゃな!」
何故か椅子の上に立ち、物理的に上から目線でのたまってくる。
「おぬしの質問に対する答えは明確。それは、わしが世界最高のまじゅちゅしだからじゃ!」
「………………」
まるで質問の答えになってない。しかも噛んでるし。
「あぅ……ほんの冗談じゃ。じゃから、そんな生暖かい目で見つめんでおくれ……」
盛大に噛んだこともあって、すごすごと椅子に座り直したユメリアは顔を赤くしてモジモジしだす。ちょっとだけ可愛いと思ってしまった俺は決してロリコンではない。
「わしが世界最高のまじゅちゅし……まじゅじゅっ……まじゅちゅっ……魔法使いであることは疑いようのない事実じゃが、それとは別に、おぬしの世界を知っていた事とおぬしの話を信じた根拠はちゃんとあるのじゃ」
ツッコまない。俺は絶対にツッコまないぞ。
そう強く念じる俺の意志はさておき、ユメリアは先程渡した本を片手でひらひらと振って見せようとして断念した。重かったらしい。
「おぬしが持っていたこの本じゃがな、これは遠い未来のわしが製作した『魔導書』なのじゃよ。おぬしがどこの異世界から飛んで来たのかも、この本を通して知ったのじゃ」
「……は? 未来? 魔導書?」
「うむ。この書物は一見すると、意味不明な文字の羅列が記してあるだけのように見えるがの。実態は高度な術式で構成された召喚魔法陣を分解し、文字として再構成したものを書き留めた『魔導書』なのじゃ」
おいおい。
未来のユメリアが作っただとか意味のわからない言葉は放置するとして、召喚魔法を封じた書物ときたか。
俺の内心の動揺は余所に、ユメリアは本の装丁を指でなぞって言葉を続ける。
「さらに言えば、この魔導書は転移させた者の記憶情報を取り込み、わしに転写するように……えっと、おぬし風にいうなら、おぬしの頭の中身をだうんろーどして、その情報をわしにあっぷろーどするようにぷろぐらむされておるのじゃ」
「ははぁ、なるほどな。ようやく理解できた。だから、ユメは俺の話をすんなり信じてくれたのか」
なんだそれ。チートか? チートなのか?
何よりもこの魔導書って代物、とんだブービートラップじゃねぇか。しかもプライバシーの欠片もないクソ仕様ときたもんだ。
……。
もしやこの魔導書、本を開いた人間を片っ端からこの世界に飛ばしてきたってんじゃないだろうな?
そんな物騒な思考が頭を過ぎった瞬間、ユメリアが見透かしたように言葉を重ねた。
「勿論、この本に選ばれる人間は限られておる。一定の条件を満たした者のみが、この"場所"に送られてくるように設定されているようじゃ」
「その一定の条件って?」
「それはわしにもわからぬ」
「おい、それお前が書いたやつなんだろうが」
「そう言われても、遠い未来のわしにしか分からないようにぷろてくとが掛かってるのじゃ。その時代に辿り着くまで、暗号化された中身はわしにも解読できぬ」
ユメリアはそう言い放つと、指で銀髪を弄りながら、ぷぅっと拗ねたように頬を膨らませる。
「わかった、その話はもういい」
解答が出ない話題をいつまでも引っ張ったところで意味がない。
ここは話を進めよう。
「次の質問なんだが……」
「なんじゃ? 何でも言うてみよ。わしは機嫌がいいでの、特別大サービスじゃ。今なら、わしのスリーサイズでも答えてやるぞい!」
「……」
「少しくらいツッコんでくれてもいいと思うのじゃ。あと、その生暖かい目はやめておくれ。わしの渾身の自虐ネタをそんな優しい目で返されると、逆に傷つくの……」
ユメリアは自分の慎ましやかな胸を両手で押さえながら、悲しげに俯く。角度的に唇がωの形をしているように見えて、それがまた哀愁を誘った。
それにしても、渾身の自虐ネタって……まぁいいか。
「まぁ、その、なんだ……。そんなに気にするなよ。胸の大きさよりも大切なことって、いっぱいあると思うしさ」
「うん……」
「………………」
束の間の無言。
俺はすっかり温くなってしまったハーブティーを飲み干すと、軽く咳払いして話を続ける。
どこか鬱屈とした空気は、努めて無視することにした。
「話の続きなんだが、俺は元の世界に帰れるのか?」
「うむ、ちゃんと帰れるぞい。流石に今すぐ、というわけにはいかんがのう」
やっぱり、すぐに帰れるってわけにはいかないんだな。まぁそうなるよな、予想はしてたよ。
それでも、帰れると分かっただけで今は十分だ。
とりあえず、理由だけ聞いておこう。
「それは何故?」
「元の世界に帰るには、この本を用いて召喚魔法を起動させないといけないんじゃが、これがまた難しくての。扱いこなすには、少しばかり修行を要するのじゃ」
「それって、魔法を扱える才能がなかったら帰れないってことじゃ……」
ヤバイ。ここにきて詰みフラグか?
俺は元々、魔法なんぞとは縁がない世界の住人だ。この世界に来れたからといって、イコール魔術師としての才能があるとか、そう都合のいい楽観視はできない。
「その辺は大丈夫じゃよ。この本に選ばれたからには、そこらへんの才能云々は全てクリアしておるはずじゃて。ちゃんと修行に励めば必ず帰れる。安心するがよい」
そうなのか。
良かった、詰んだかと思って冷や冷やしたよ。
「わしなら簡単に起動できるんじゃがなぁ……。ユキトを元の世界に送り帰すには、おぬしの記憶と本に刻まれた記録を一致させたうえで、おぬし自身の魔力を通さないといけないのじゃ……力になれなくてスマンのぅ」
「……そっか」
何れにせよ、最終的には自分の力で帰るしかないってことだな。
「で、でもでも! この世界に召喚された時点で、おぬしは時間という概念から切り離された存在になっておる。じゃから、この世界にいる限り、ユキトはわしと同じく不老じゃ! いつまでも好きなだけまじゅちゅの修行ができるぞい! さらにいえば、元の世界からユキトが消えたことで、おぬしの存在は元々"なかった"ことになっておるハズじゃ。仮に帰れなくなったとして、残してきた家族や友人知人に一生心配をかけ続けるなんてこともないぞい。元の世界に帰る時は、本に記録された時間情報を抽出して元の世界への道筋を構築する故、寸分違わぬ時間軸に送り帰されるはずじゃ。ユキトが世界から消えたことによる、存在の不安定化も起きぬ。どっちに転んでも、おぬしが傷つく結果にはならぬ!」
また噛んでるし。噛まずに魔術って言えたの、開口一番の台詞だけじゃねぇか。
ていうか、さらっと不老とか聞こえた気がしたんだが……いや、気にするまい。
尋ねたところで、内容を理解できるとも思えないしな。
捲し立てるように熱弁するユメリアは、真摯に俺の心を案じてくれているのだろう。胸中の不安を少しでも楽にしようと必死に言葉を費やしてくれた。
話の半分以上は理解できなかったけど、おかげでやっと精神的に楽になれた気がする。
不安と焦燥という熱を帯びてドロドロしていた頭の中が、すぅっと鮮明になっていくようだ。
「そっか。そこらへん、ちゃんと考えてくれてるんだな」
「流石にのぅ……。相手の都合を無視して、こっちの身勝手で呼びつけるわけじゃからの……。あふたーけあの一つもなしというのはあんまりにあんまりじゃと、未来のわしも考えたようで……」
ふむ。どうやら、ユメリアは善良な性格をしているらしい。
問答無用の拉致を敢行された身だ。この世界の人間に少しばかり不安を抱いていたのだが、少なくともこの少女だけは信用できるかもしれない……未来の拉致実行犯という事実は別にして。
「じゃあ、次の質問だ。ユメリアは考え方や言い回しが随分と"俺達に近い"けど、その知識もその本から得たのか?」
「うむ。先程もちょろっと教えたが、この魔導書はこの世界に運んだ人間の記憶を取り込む。当然、知識も然りじゃ。おぬしとの間にじぇねれーしょんぎゃっぷを感じさせることなく会話を成立させておるのも、全てはこの魔導書の成果じゃな。当然じゃが、おぬしの世界の独特な言い回しは、わし以外には全く通じぬぞい」
「……この魔導書って、マジでチート染みてるな。もしかして、こうして言語そのものが通じてるのもコイツのおかげか?」
「御明察! ユキトがこの世界で言語の壁に阻まれないのは、わしがこの魔導書を作ったおかげなのじゃ! 褒めてもいいのじゃよ?」
日本人である俺と異世界の住人であるユメリアとの間に対話が成立しているのも、魔導書が翻訳を果たしているかららしい。
トラップ要員ではあるものの、とことん優秀なアイテムだ。
「作ったのは未来のユメリアだろ」
「それでも作ったのはわしなのじゃっ!」
「あーはいそうですね。よしよし偉い偉い」
「むふぅ」
駄々っ子のように喚く銀髪少女にうんざりしながらも、仕方なく腕を伸ばして頭を撫でてやる。
科白が棒読みだろうが何だろうが、ユメリアは頭を撫でられてご満悦のようだ。
「次の質問。俺の他に、この世界に飛ばされた人間はいるのか?」
「あくまでも異なる次元の話じゃが、この本に蓄えられた知識を読み取った限りだとユキト以外にもいたようじゃな。この世界の知識、おぬしの世界の知識にも当て嵌まらぬ第三の知識が幾らか見受けられる」
「それって、地球人以外で召喚された奴がいたってことか!?」
「そうなるのぅ。じゃが、文明の発達具合でいえば、ユキトの世界は他に比べて圧倒的じゃ。誇るがよいぞ」
衝撃の事実というべきか。地球とこの世界の他に第三の世界が存在するとは。いや、実際にはもっと沢山の世界が存在しているのかもしれない。それこそ無数に。
「そいつ等はどうなったんだ?」
「………………。本によれば、全員、元の世界へ帰還したようじゃ。未来のわしの目的は果たせなかったようじゃがの」
少し間を置いたことが気になったけど、それはどうでもいい。
未来のユメリアがそいつらに何をさせたかったのかは定かじゃないけど、重要なのは帰れなくなった転移者が1人もいないってことだ。
よかった。実績があるなら問題ない。どういう形であれ、帰れる事に間違いないはないらしい。
けど、彼女の言う目的って何だ?
一瞬だけ暗くなったユメリアの表情を見る限り、あまり歓迎できる内容じゃなさそうだが。
……ちょっと怖いけど、直接聞くか。
「んじゃ、次の質問。俺をこの世界に招き寄せた"目的"は何だ?」
「――ッ」
ここにきて、初めてユメリアが言い辛そうに口を噤んだ。
その反応にどこか冷めたものを感じながらも、俺はさらに言葉を言い募る。
「おいおい、何で黙るんだよ。何でも答えてくれるんだろ?」
「そ、それはじゃなぁ……そのぅ……あっそれよりもユキト、お腹は減ってないかの? 何じゃったら、わしが腕によりをかけて――」
「そんなことより質問に答えてくれよ」
「あぅ……」
ぴしゃりと言い切った俺に対し、しょんぼりと項垂れてみせるユメリア。
誤魔化し方が壊滅的に下手糞なことはひとまず置いといて、そうまでして言いたくないことなのか。
信頼できそうだと思った矢先にこれかよ……。
「まさか、何か後ろめたいことをやらせるつもりじゃないだろうな……?」
消えたと思っていた不安が再び胸中に灯る。
既知の間柄といえる人間が誰一人いない世界で、俺が頼りにできるのはユメリアだけだ。
素性の知れぬ俺の身を真摯に案じてくれる姿勢は、突然の異常事態に脳の処理が追いつかず、打ちのめされていた俺の心を確かに救ってくれた。
それだけに、目の前の少女から人には言えないような頼み事をされた日には、確実に人間不信に陥ることだろう。
「ユメリア!」
「……ッ」
思わず大きくなる声に、ユメリアはビクッと身を竦ませる。
頼むから、否定してくれ!
「お前を信じたいんだ」
このままじゃ俺、この世界で誰を信じればいいのか分からなくなっちまう。
「――悲劇を回避する為、らしいのじゃ」
そんな俺の心の声が届いたわけでもないのだろうが、ユメリアは目を伏せたままポツリと言葉を漏らす。
「悲劇?」
「うむ……」
なんだそりゃ。漠然とし過ぎてて意味がわからん。
でもまぁ――
「それだけなら別に、言い淀むほどじゃ――」
「今から遠くない未来、とある紛争で死する我が国の皇帝を救い、皇帝の死を契機に勃発する未曾有の大戦争を回避したい――と、本は伝えてきよる」
これまでの、どこかふわっとした柔らかな雰囲気から一変。ユメリアは冷たい双眸で俺を正面から見据えてきた。
たったそれだけで、心臓を鷲掴みにされたような怖気が背筋を奔った。
顔面の筋肉が一気に強張っていき、周りの気温が数度は下がったような錯覚を覚える。
「その紛争とやらが、いつどういった形で起こるかは確定していないようじゃが、少なくとも皇帝が戦で死ぬというのは間違いないようじゃ。そして、大陸の文明が崩壊するほどの大戦争が起こる」
ユメリアは声のトーンを落とし、陰鬱な表情を見せる。
「これはつまるところ、皇帝と共に歴史を変えろといっとるんじゃよ。もっと分かり易く噛み砕くなら、滅びゆく世界を護れ、といったところかの」
「………………」
世界を護れって……それは、俺に戦えって言ってんのか? 冷静に考えて無茶振り過ぎると思うんだが。
まさか、万事交渉で何とかしろって意味じゃないだろうし……。
仮にそうだとしても、俺はネゴシエーターの教育なんか受けてないし、そんな才能があるとも思えない。
今の俺に出来ることといえば……。
心の内の葛藤を見透かしたのか、ユメリアは俺の思考を断ち切るように口を開いた。
「ユキトがどれだけ平和な時代に生きてきたか、わしだからこそ理解できる。魔導書を通して、おぬしの培ってきた知識や常識、その価値観を知ったからの。ユキトが生まれ育った国において、人を殺すということがどれほどの禁忌にあたるのかも把握したつもりじゃ」
外見相応の子供染みた言動は鳴りを潜め、目の前には世界最高と自らを称する魔術師がいた。
その手を数多の血で紅く染めてあげてきたのであろう、小さな魔術師が。
「そのうえで尋ねよう。おぬしは、己とは何の関係もない他人の為に、自らの命を賭して戦えるか? その手を血で汚せるのか?」
考えるまでもなかった。
そんなこと、できるわけがない。
どんな理由があろうと、人を殺すなんて真っ平御免だ。ましてやそれが、名前も知らない他人の為? 一考する余地もない。
「平和な世界で、両親の愛に包まれて生きてきたユキトの性根は純真じゃ。無垢と言い換えてもいい。未来のわしの悲願とはいえ、そんなおぬしに命懸けの殺し合いを強要することなど、今のわしにはできぬ……」
彼女は申し訳なさそうに俯いてしまう。その姿はまるで親に怒られて落ち込んでいる子供のように見えて、少しばかり和んでしまった。
それはさておき、魔導書が俺をこの世界に飛ばした目的はわかった。
道理でユメリアの口が重いわけだ。
やはりというべきか、彼女は俺のことを真面目に心配してくれてたんだな。
お人好しっていうか、なんとも優しい魔術師だ。
右も左も分からない小僧如き、適当に騙くらかすことも可能だろうに。
………………。
「よし、知りたいことは大体知れた。次で最後の質問だ」
「……どうぞ」
「俺はこれから、どうすればいい?」
「え?」
ユメリアはきょとんとした顔で俺を見つめる。
少し漠然とし過ぎたか。
俺はユメリアの理解を得るべく、さらに言葉を紡いだ。
「皇帝を助ける云々ってのは、まだ俺の中で整理できてない事柄が多すぎるから保留にしとく。だから、それを踏まえて今後どうするべきなのか教えてほしい」
「あ、うむ、そうじゃな……。細かいことは追々決めていくとして、まずは魔術師としての修行じゃな。これはユキトが元の世界に帰る為にも、絶対に欠かせぬ大前提じゃ」
重い空気を払うように、少し明るめに声を出す。ユメも空気を読んでくれたらしく、硬かった表情を柔らかくした。
「わかった。早速始めるのか?」
魔術といえば、空想を夢見る男女の永遠の憧れのひとつ。元の世界にはない異能に興味を覚えるなというのは無理な話だ。
俺としては、早く取り組んでみたい。
「いや、今日はやめておくかの。これから来客もあることだしのぅ」
「来客?」
「うむ、もうそろそろ来る頃じゃな」
来客、ね。ちょっと残念だけど、お客様が来るんじゃ仕方ないな。
しばらく個人的な話は出来なくなりそうだし、今のうちに纏めておくとしよう。
「んじゃ、客が来る前にさっさと話を纏めさせてもらおう。さっきの話は一先ず置いておくとして。今までの流れから察するに、全部お前のせいってことだよな?」
「えっ」
俺の科白にユメリアの顔が一瞬で凍り付く。
「俺を異世界に拉致するなんて馬鹿げた真似を仕組んでくれやがったのは、ユメリアで間違いないんだろ?」
「あっまっ待ってほしいのじゃっ! あぅぅ……未来のわしがやらかしたって意味では確かにそうなんじゃが……。で、でもでもっ! 今ここにいるわしがやらかしたワケではないんじゃよ? わしだって、突然こんな事に巻き込まれて、困惑しとるんじゃよ? そこらへん、きちんと汲み取ってくれると嬉しいなぁなんて。テヘッ」
「……ちょっとイラッとした。この胸のざわめき、どうしてくれる」
「あっ!? ごめっごめんなさい!! 未来のわしに代わり、平身低頭、謝罪させてもらうのじゃ!」
今ちょっと黒いオーラが出たかもなって自覚した瞬間、ユメリアが青い顔を晒して頭を下げてきた。
あらら、ちとやり過ぎたか。何も頭を下げる必要はなかったんだが。
自分よりも幼い少女を追い詰めるのもあまり気分が良くないし、反省したなら良しとしよう。
俺が屋根ぶち破ったのも許してくれたしな。
「頭を上げてくれ。悪かった、ちょっと悪ふざけが過ぎたよ。事情はちょっとばかし……いや、かなり重いけど、元の世界に帰れるってんなら文句はない。寧ろ、貴重な人生経験を積めるって意味では感謝してもいいくらいだ。だから――」
ここで言葉を一旦切る。そして、ユメリアの瞳を正面から見据えた。
「ちゃんと責任取って、しっかり鍛えてくれよ?」
「……あぅ。う、うむ! 任せるがよい! わしが責任を持ってお主を一人前の魔術師にしてやるからの!」
何故かほんのりと頬を朱に染めつつ、ユメリアは偉そうに踏ん反り返る。こいつはいちいち威張らなくちゃ気が済まない性質なのか。
けどまぁ、こういう態度を取られたところで出てくるのが苦笑だけってのは、偏にユメリアの愛嬌が成せる業なんだろうな。
「そうじゃ、ユキトよ。この魔導書はおぬしが持っておくといいのじゃ」
「いいのか? 未来とはいえ、一応はお前の所有物なんだろ?」
「これはおぬしにとって、元の世界へ帰る為に必要な大切なものじゃ。自分の手元にあったほうが安心できてよかろ? それに、その本は異世界の物すら引き寄せる強力な魔導書じゃ。必ずおぬしの役に立つじゃろうて」
「それもそうだな。そういうことなら、俺が持っておくよ」
差し出された魔導書を受け取り、そのままテーブルの脇に置く。大き過ぎて、ちょっと邪魔だ。
これ、どこに仕舞おうか……。
そう思っていたら、唐突にユメリアが自分の席を離れて、俺の膝の上に横向きに座ってきた。
「なんだ、いきなりどうした?」
「えへへっ今まで弟子なんていたことなかったから、新鮮な気分なのじゃ!」
「そっか、これからよろしくな」
両足を交互にぷらぷら揺らしながら、キラキラとエフェクトが見えそうな程の笑顔を浮かべている。その姿は見た目相応、完全に幼い子供そのものだ。何となく微笑ましくなる。
ここでふと、自称世界最高の魔術師に弟子の1人もいなかったのはどういう理由なのか気になったが、敢えて聞かないことにした。あからさまな地雷をわざわざ踏み砕く理由もない。
まぁ魔導書の情報が確かなら、異なる次元の話ではあるものの、ほぼ確実に俺のような異世界人を弟子にとっているはずだが……。
しかしながら、それを言ったところで、俺の膝の上にいる魔術師様には全く関係のない話である。
大人しく忘れよう。
手持無沙汰も何なので、彼女の頭を撫でてやることにした。
ユメリアが心地良さそうに「あぅー」と、喉を鳴らして瞼を閉じる。猫か。
「――ハッ!? のう、ユキト! 折角じゃから、わしのことは師匠と呼んでほしいのじゃ!」
しばらくの間、長い銀髪を梳くように頭を撫でてやっていると、ユメリアが開眼したかのように唐突に目を見開いて叫びだした。
「えぇー……」
こんなちんまい少女を師匠呼ばわりとか、罰ゲームかよ。
でも、彼女は教える立場、俺は教わる立場。要求としては正当なものなんだよなぁ。
「師匠と呼んでほしいのじゃっ!」
「うーん……」
「呼んでほしいのじゃ!!」
「むむむ……」
「呼んで……欲しいのじゃ……」
声に力が無くなり、瞳に涙を溜めていくユメリア。どんだけ師匠呼ばわりに憧れてるんですかね、このちんまい魔術師様は。
「ったく、仕方ないな。修行の時や人前に出る時は師匠って呼んでやる。これでいいか?」
正直にいえば、人前でちんまい少女を師匠って呼びたくはないんだけど、自分の師を呼び捨てっていうのも問題だしな。傍目から見れば、俺がユメリアに対して敬意を抱いていないと捉えられかねない。それが原因で、ユメリアが他人から舐められてしまっては目も当てられん。
魔術師としての腕は確かなのだろうし、払われるべき敬意は払われて然るものだろう。
「――! それでいいっ! ありがとうユキト! 嬉しいのじゃ!」
「おう。その代わり、俺もユメリアをユメって略させてもらうからな。これで相子ってことで頼む」
「うむっ! 交渉成立なのじゃ」
自分の要求が通り、ユメは感極まった様子で抱き付いてくる。
思ったんだが、ユメってスキンシップ過剰じゃねぇかな。俺ら、まだ出会って1時間も経ってないんだけど。まぁ別にいいけどさ。
「ところで、来客が帰ったら、街まで案内してくれよ。ついでにお金も貸してくれると助かる」
「んぅ? それは構わぬが、何故じゃ?」
「いや、今日の寝床を確保しとかないといかんでしょ。このままじゃ俺、野宿だぜ。さすがにそれはキツイ」
「――? 何を言っておる、ユキトはわしの家に泊めるに決まっとるじゃろ?」
「なんだと」
ユメは首を傾げて、心底不思議そうな眼差しを送ってくる。
今日出会ったばかりの男を家に泊めるとか、正気かこいつ。いや、俺としては助かるんだけど。
「あっ……それとも、わしと一緒に暮らすのは嫌かの……?」
途端に声を小さく震わせ、寂しそうに瞳を潤ませるユメ。
なるほど、寂しがりやか。
うむむ、ユメって何か危ういな……。保護される側のはずなのに、保護欲を掻き立てられるとは、これ如何に。
「ちげーよ。見知らぬ男を泊めるのは流石に嫌だろうって気を使ってやったんじゃないか。そういう勘違いされるのは腹立つんだが」
「――? おぬしはもう見知らぬ男ではなく、わしの弟子じゃろうに。ならば、何も問題なかろ。おぬしの家は今日からここじゃ! これは師匠の命令じゃからして、心しておくよーに!」
「へいへい、御下命、謹んでお受けいたしやす。はぁ……お師匠様が自らここにいろって言ったんだからな? もう出ていけって言われても出ていってやらないから、そのつもりでいろよ」
「――! わしは弟子を途中で放り出すような冷血女ではないぞい。じゃから、その心配はいらぬ!」
パァッと雲の隙間から陽光が差し込むような眩い笑顔を全面に表すユメ。俺はその小さな頭を反射的に撫でてしまう。
クソッなんだか自分が手玉に取られているようで少し癪だが、悪い気はしないのが少し悔しい。
もんもんとする内心を抑えて、俺は改めて今日から住まうことになる家屋の内装を眺めた。
元の世界でいえばコテージにすら劣る木造の住宅だ。
玄関がある一階と地下に続く階段。
地下がどうなっているのかはまだ分からないものの、一階の広さはそこそこある。
台所はかまど式で、横に設置されている浴槽にも似た石造りの水場からは湧き水がこんこんと溢れていた。溢れた水は掘られた溝を通って外に流されているようだ。
ダイニングには俺達が陣取っているテーブルと2つの椅子のセットに大きな暖炉、その横には乾いた薪が積まれている。
俺がぶち破った屋根から、時折、木屑がパラパラと落ちてくるのがこの上なく鬱陶しい……あとで修繕しないとな、これ。
少し離れた寝室は衝立で仕切られ、粗末なベッドが1つ。ベッドは木の枠で形作られ、藁を敷き、その上にシーツを被せることでマットにしているらしい。原始的過ぎる。毛布はくしゃくしゃに丸まり、愛用されている痕跡が見られた。
ここが、今日から俺が住むことになる家か。
まぁ住めば都っていうし、何とかなるだろ。うん、そのうち慣れるさ。
……トイレとか大丈夫かな。
ふとユメの反応がないことに気付いて意識を向けてみると、いつの間にか俺の胸に頭を預けて寝入っていた。
頭を撫でられているうちに夢の世界へ旅立ってしまったようだ。マジかよ、こののじゃロリ。
「おい、起きてくれ。聞きたいことがある。つーか、今寝ると夜に寝られなくなるぞ?」
「ふぇ……? あぅ……なんじゃ……?」
意地でも下がってやろうと抵抗する瞼をコシコシ擦り、必死に意識を保とうとするユメを援護すべく、俺は耳元に口を近付けて囁いた。
「俺は今日、どこで寝ればいいんだ?」
「……ベッドは1つしかないでの…………今夜はわしと一緒に寝るがよかろ…………すぅ……」
「――oh、マジか。おっと、寝るな寝るな! そろそろお客様が来るんだろ?」
「んぅ……そうじゃった……」
再び瞼を擦り、紺色のローブのポケットから懐中時計を取り出すユメ。
「おお、もうすぐじゃな」
「うん?」
俺の胸に凭れたまま、顔だけ上げたユメと目が合わさる。
疑問符を隠せない俺の表情を見やり、それに満足気に頷くと、彼女はニヤッと笑みを浮かべながら、徐に指を人差し指から薬指まで三本立てた。
そのままゆっくりと薬指が落ち、次いで中指が落ち、最後に人差し指を先程までユメが座っていた椅子に向ける。
その直後――
「――ぁぁぁぁあああああ!!!」
枝葉が折れる音がけたたましく鳴り響き、藁の屋根を貫通して落ちてきた金髪碧眼の人間が、見事に椅子に着席していた。