ペンキをぶちまけてやろう
ユキトが私の前に現れた直後、内心は恐怖に満たされていた。
この少年も、私の正体を、いや、私の力の一端を知れば、私の前から逃げ出すに違いないと。
これまで出会ってきた人間達と同じように、彼もまた私を『魔術師』としか見てくれないのだと。
孤独から逃れることなどできないのだと、そう思っていた。
しかし、そうはならなかった。
それは彼が外からやってきた人間だったからか。それとも彼の生まれ持った性質故だったのか。ともすれば、その両方か。
今までの有象無象とは違い、ユキトは私を恐れることなく、いっそふてぶてしいまでに対等に扱ってくれた。
口は悪いけど、優しかった。
私が甘えれば何だかんだ言って甘やかしてくれるし、寂しさを覚えればいつの間にか傍にいてくれる、そんな人だった。
彼と一緒に暮らす日々は、私にとってかけがえのない日常となった。
――ユキトは未来の私が製作した魔導書によって選定され、この世界に連れてこられた人間だ。
私は魔導書の中身を読み、全てを知った。
彼の素性や記憶、持ち得る知識、ここに呼ばれた理由、その全てを。
未来の私の思考が全くもって不可解だった。
いったい何がどういう経緯で、文明の崩壊を防ぎたいなどと馬鹿げた考えを抱くようになったのか。
私にとって世界はおぞましい悪意そのものだ。
最初は灰色で、そのうち真っ黒になって、最後には色が無くなった、その程度の世界でしかない。
それが何故、気が遠くなるような年月を重ねて魔導書を作ってまで、世界の歴史を改変しようなどという理解不能な思考に至ったのか。
意味が分からない。
……ユキトは私にとって大切な存在だ。そんな彼を、未来の私の心底くだらない自己満足に付き合わせるつもりは毛頭ない。
自分で出来もしない事を赤の他人に押し付けようとする性根も気に食わない。
ふざけるな。ユキトは私のものだ。お前の駒じゃない。
世界の行く末なんて、どうでもいい。未来の私の悲願など知ったことか。
ユキトは何に代えても私が守る。そして、無事に元の世界に送り帰してみせる。
元の世界に……帰してみせる……。
◆◆◆――――――――――――――――――◆◆◆
俺が魔力を暴発させて意識を失った翌日。
一眠りしたら身体の怠さもすっかり消えていたので、これ幸いといつものように早朝の鍛錬をこなし、薪を割っていた。
気持ちの良い乾いた音が静かな森に響き渡り、真っ二つに割れた薪が地面を転がる。
……。
手斧を握る手に自然と力が篭る。
頭の中では、昨晩のユメの言葉が忘れられず、心中に鬱積した不満が延々と脳裏を駆け巡っていた。
彼女は言った。
この世界に興味はない――と。
あの時のユメの表情が忘れられない。
この世の一切を見限ったような、あの酷薄な瞳が……。
俺がこの世界に呼ばれた意味ってあるのか?
黒幕は未来のユメとはいえ、呼び出した本人が関心を抱いていない大事を成す為に、俺が命を賭して戦わなきゃならない理由がどこにある。
俺がここにいる意味はいったい……。
「――ユキトッ!!」
まだ十分に早朝といえるような時間に聞き慣れた声が森の中を木霊し、次いで馬の蹄鉄が大地を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
いやいやそんなまさかと現実逃避しつつ、でももしかしたらという気持ちを込めて声がした方向に振り返る。
そこには案の定、馬に跨って颯爽とこちらに駆けてくるティアの姿があった。
普段は後ろで縛って纏めている長髪もそのままで、風に靡く金髪が恰も砂金のように朝日の光を反射させている。
何故こんな朝早くに、とは思わない。
それだけ心配してくれたのだろう。
馬を繋ぐこともせず、鞍から飛び降りたティアは俺の姿を見て安堵したように息を吐くと、今にも泣き出しそうな顔で怒鳴ってきた。
「大バカだよ君は!! ボクやネレイス様がどれだけ心配したと思ってるのさ!?」
「返す言葉もない。心配掛けてゴメンな――っと?」
俺の謝罪を最後まで聞くことなく、ティアが胸に飛び込んでくる。
肩を震わせて嗚咽を漏らすティアを抱き締め、その温もりと甘い香りを堪能する。
知り合ってからまだ三ヶ月ちょっとしか経ってない男の為に涙を流してくれる優しい女の子が、どうやらユメの他にももう1人いたようだ。
罪悪感から胸の苦しみを覚えて、腕に込める力を少しだけ強めた。
「改めて、心配掛けてゴメンな。ティア」
「……初めてできた友人をこんなに早く失いかけるなんて夢にも思わなかったよ」
ぐはっ! いやはや、本当に申し訳ない……。
俺もまさかあんな事になるとは想定外だったんだよ……。
うん、言い訳は見苦しいよな。もう二度とあんな無茶はしません。ごめんなさい。
「これじゃ、あんまりにも友達甲斐が無さ過ぎるじゃないか。酷いよユキト……」
「全くもって仰る通りで……。深く反省してます」
涙声で訴えかけてくるティアの至極真っ当な抗議を受けて、ばつの悪さから苦笑が漏れる。
気まずさを誤魔化す為に軽く頭を撫でてやると、涙で目を真っ赤に充血させたティアがジト目で睨んできた。
「次、あんな馬鹿な真似したら絶交だからね?」
「肝に銘じておきます」
「……本当に?」
「誓うよ」
しばらくの間、疑うような眼差しを向けてきたティアだったが、やがて疲れたように溜め息を吐くと、最後に俺の胸にコツンと額を当ててから離れた。
「ならば良し。貴方の言葉、信じてあげましょう」
「はっ! ありがたき幸せ」
役者染みた科白の応酬を終えて、互いの言い回しに何方からともなく吹き出す。
そして、楽しそうに笑うティアの笑顔を見て、ふと思った。
彼女の瞳には、この世界はどのように映っているのだろう、と。
「なぁティアさんや」
「うん? なんだい、お前さん?」
何となく、田舎のお爺さんがお婆さんに語り掛ける口調を真似てみると、ティアも付き合ってくれた。
彼女のノリの良さに軽く笑みを返しつつ、俺はその目を真っ直ぐに見つめ直して尋ねる。
「ティアの目にはさ、この世界ってどんな色に見えてる?」
「おや、随分と詩的な質問をしてくるね? どうしたんだい藪から棒に」
質問の意図するところが読めないからだろう。ティアは不思議そうに首を傾げるが、俺の顔を見てふざけているわけではないと悟ってくれたらしい。
柔らかい表情はそのままに、俺の瞳を正面から見据えるようにして言った。
「そうだね……。少し前の私だったら、冬の寒空のような灰色とか、そんな感じで答えていたかもしれないね」
「灰色……か……」
お世辞にもあまり良い色とはいえない気がするが、彼女は"少し前の私"と言った。
なら、今はどのように映っているのか。そう尋ねようとしたところで、
「でも今は、透き通った青空のような青色に見えてるかな」
ティアは言葉通りの透き通った青空のような晴れやかな笑顔を浮かべて断言した。
そんな彼女に眩しさを覚えてしまうのは――羨望にも似た感情を抱いてしまうのは、何故だろう。
「……理由を聞いても?」
「え? 理由? んー……」
ティアは悩むように眉を八の字にして唸ると、しばらくしてから小悪魔っぽい笑みを浮かべた。
「面と向かって言うのは恥ずかしいから、内緒にしておくよ」
「そっか。それは残念だ」
男装の令嬢らしからぬ魅力を纏うティアに肩を竦めて、俺は空を見上げた。
青色、か。
この世界の青空は綺麗だから、それを色として捉えているティアの世界はさぞや輝いているのだろう。
だが、ユメは……。
彼女の冷め切った表情を思い出し、胸に鋭い痛みが奔る。
「――とは言っても、私も人間だから、どうしても色が濁ってしまう時もあるんだけどね」
困ったような声色を伴って付け加えられた言葉にハッとして振り返ると、ティアが苦笑を湛えて俺を見つめていた。
「まぁでも、それは生きていくうえで避けられないっていうか――ある意味、人としての宿命みたいなものかもしれないね」
「……」
常に世界が良く見えるわけではない。それもまた人の宿命、か。
そうか、そりゃそうだよな。
人生山あり谷ありって格言があるくらいだし。生きてりゃ辛い事がたくさんあれば、逆に良い事もたくさんある。
それら全てが混ぜ合わさって、己が生きる世界に色を見出すのだとしたら。
「なぁティアさんや」
「うん? なんだい、お前さん? ……って、このやり取り今やったばかりじゃないか」
ティアのツッコミは無視して、俺は胸の内で燻っていた疑問を彼女にぶつけてみた。
「色の無い世界って、どんな感じだと思う?」
「――。それは……」
ここにきて初めてティアの表情が陰りを見せる。
少し言い淀むように言葉を詰まる仕草を見せたあと、静かに首を振った。
「悪いけど、私ではその疑問に答えを出せそうにないね。だって――」
僅かに躊躇うような素振りの後に、意を決した顔で言葉を続ける。
「世界から色が無くなるなんて尋常じゃないよ。どんな人生を送ればそうなるのか想像もつかない」
「……」
想像もつかない、か。確かにその通りだ。
他人如きが簡単に想像して同情できる程度の過去なら、ユメが"あんな瞳"を覗かせることもなかっただろう。
俺がうだうだ考えたところで意味もないか……。
「変な事聞いて悪かったな。忘れてくれ」
「私の方こそ、大して役に立てなくてゴメン」
「そんなことねぇよ。ありがとう、参考になった」
しゅんと項垂れるティアに苦笑しつつ、感謝の意を伝える。
ユメがこれまでどんな人生を送ってきたのか、わからない。
どのような過程を経て、世界に対して興味を失ってしまったのか、わからない。
彼女の眸が世界をどのように映しているのか、わからない。
ユメの事に関して何一つ知らない俺が、彼女の事で気を回すのは烏滸がましいというものだろう。
俺は内心で溜め息を吐くと、全てを忘れるように頭を振った。
「さて、俺は薪割りの続きでもするから、ティアは家に入って適当に寛いでいてくれ――」
「でもさ、色が無いってことは無色透明ってことだよね?」
俺の科白を被せるように、ティアが唐突に言葉を重ねてきた。
彼女が何を言いたいのか分からず、曖昧に頷く。
「……まぁそうなるのか?」
「ならさ」
放つ言葉にぐっと力を込めるように、ティアは強かな笑みを浮かべた。
「その人の世界は、これからどんな色にでも染め放題ってわけだね?」
「――!」
頭を金槌で殴られたような衝撃を覚えた。
手斧を放り出して、ティアの言葉を咀嚼し、吟味する。
そうか、無色の世界っていうのは、言い換えれば真っ白いキャンパスと同じだ。
それはつまり、これから様々な色に"染めていける"可能性があるということ。
でも、本人にその意思がないのなら――
「ユキトが誰の事を思い浮かべて質問をしてきたのかは、敢えて聞かないけれど――」
強かな笑みを魅惑的なものに変えて、ティアはその端整な顔を俺に近付けてくる。
まるで、俺の眸を通して内心を見透かそうとするかの如く。
「当人が色を定められないのなら、その人に近しい誰かさんが無理矢理明るい色のペンキをぶちまけて、指針を与えてやるのも一つの手じゃないかな」
すとん、と腑に落ちた。
そうだ、何も難しく考える必要はない。
今のユメは世界を見限るという形で停滞してしまっている。なら、俺が手を差し伸べて、歩かせてやればいいだけの話なのだ。
本人に一歩でも前に進もうと足掻く気概があったのなら、静観するという選択肢もあった。しかし、今のあいつは意識を完全に内側へ向けてしまっている。
自分の殻に閉じこもって、自分の気に入った物だけを手元に引き寄せて、外界への興味を閉ざしてしまっているのだ。
世界を、自分の身の周りのみという極々狭い範囲で完結させてしまっている。
誰かが無理矢理にでもその殻をこじ開けて、彼女の手を引っ張って、自分の足で前に進ませてやらなくてはならない。
「……そっか、そうだな。その手もありか」
「少なくとも、私はありだと思うよ」
彼女の抱える闇を知りもしない俺が、こうして色々と悩むのはお門違いなのかもしれない。
けど、ユメは俺の存在に執着してくれた。
俺がいれば、それだけでいいと言ってくれた。
なら、俺はユメに答えなければならない。
――ユメの世界に俺だけしかいないとか、そんなの絶対つまんねぇだろ。と。
見せてやろう、あの駄々っ子に。
お前が生きるこの世界は、綺麗な色も、汚い色も含めて、こんなにも色鮮やかなのだと。
教えてやろう、あの寂しがりやに。
殻に閉じこもっているだけじゃ、外の景色は何も分からないんだと。そんなの勿体無いにも程がある。
まだまだ、世界はこの程度じゃないはずなんだ。俺達の知らない景色が、人々の営みが、美しい光景がたくさん広がってるに違いないのに。
とはいえ、俺もまだこの世界の事をよく知っているわけじゃないから、偉そうなことは何も言えないんだよな。
だからこそ、ユメと一緒に世界を見て回り、より深く知る形で、彼女の頑なな心を解してやれればと思う。
うん、そうだな。
この世界に呼ばれた意味を探るよりも、俺がユメと一緒にいる理由を求めよう。
そっちの方が個人的にも気楽だ。
あいつは笑ってたじゃないか。
初めて都市に出向いたとき、遥か空の高みから世界を見下ろして、
『おぬしと一緒にこの景色を観られて、わしも嬉しいのじゃ』
そう言って、心底楽しそうに笑ってたじゃないか。
ああ、そうだ、どうして今の今まで思い出せなかったんだ。
あんな眩いばかりの笑顔を零した人間に「世界に興味はない」なんて言われたところで、納得できるわけがないだろ。
あいつは世界を見限ったわけじゃない。ただ不貞腐れてるだけなんだ。よくわかんないけど、きっとそう。そうであると俺が決めた。
理由は追々知っていけばいいよな、うん。
何よりもまずはユメの頬っぺた抓って、殻から引き摺り出さなきゃならねぇ。
せっかくの異世界なんだ。
森の中のボロ家に引き籠ってるだけなんてつまらない。もっともっと、ユメと一緒に色んな所を見て回りたい。思い出を作りたい。
ふむ。どうせなら、隣にティアもいてくれると尚良いな。
脳みそに雪解け水が染み込んでいくように、頭の中がさっぱりと冷めていく。
自分の中でひとつ、本当の意味で覚悟が決まった。
俺がこの世界でやるべき事が、やっと見えてきた気がする。
「なぁティアさんや」
「うん? なんだい、お前さん?」
「一人称が私に戻ってるぜ」
「――あっ」
ティアがしまったという顔をする。そんな顔もやはり可愛い。美少女ってのは得だな。
「ありがとな、ティア」
「……どういたしまして。ふふっ」
「いつまでも外にいるのも何だし、家に入るべ」
「そうだね」
俺は地面に落としたままだった手斧を切り株に突き立てると、ティアを伴って家の中に入った。
腹減ったし、まずは飯だよ飯。薪割りはまた後でいいや。
つーか、そういえば昨日の夕飯食いそびれてたっけ。そりゃ腹ペコなのも当たり前か。
ユメは大分消耗していたからな、まだ寝かせておいてやるとして。
となると、今日の朝飯は俺が作ることになるな……まぁいいか。
「――まずは腹ごしらえといきますか!」