蒼銀の瞳
仄暗い水底に沈んでいた意識が浮上するように、暗闇で満ちた世界に微かな光が差し込んだ。
光の明度は徐々に強まっていき、輪郭が曖昧な世界を明瞭なものにしていく。
錆び付いた歯車のように思考が噛み合わない頭が鈍痛を訴えたが、それもすぐに消えた。
「ここは……?」
木材で補強された藁敷きの屋根を惜しげも無く晒した天井が俺を睥睨している。
外は既に夜らしい。辺りは薄暗く、光源は頼りなく揺らめく蝋燭の炎のみだった。
ここがどこなのか本気で思い出せず、周囲を見渡そうとしたところで、ようやくその存在に気付く。
俺が寝そべるベッドの横に据え置かれた椅子に腰掛けたまま、疲れ切ったような表情を見せる銀髪の少女。
彼女の小さな掌は俺の手を固く握り続けており、ちょっとやそっとでは外せそうにない。
「ユメ……」
こんこんと眠りこけるユメの寝顔を視界に入れたことで、ようやくここがどこなのか思い出せた。
そして、自分が何を仕出かしたのかも。
「そうか、俺、あの時――」
師匠に筋が良いと褒められて、魔術のなんか凄いらしい技をいきなり習得して、魔物を難なく斃して「今の俺なら何でもできるんじゃないか」と思い上がって、調子に乗った大馬鹿野郎の顛末がこれか。
練り上げた魔力の暴発。己の魔力で己の身を焼くという失笑すら得られそうもない愚劣の極み。
脳裏で、恐慌に歪んだユメの絶叫が再生される。
あれだけ洒落にならない魔力の渦に巻き込まれて、どうしてまだ生きているのか。
目の下に僅かな隈を作ったユメの顔を見れば、一目瞭然だ。
過去の自分を思い切りぶん殴ってやりたい。
罪悪感に焼き焦がされる胸の内が苦しくて、小さく身動ぎしてしまう。
「んぅ……?」
ほんの些細な動作すら見逃さないように気を張っていたのか。ユメの瞼が薄らと開かれ、俺と目が合うや否や、飛び起きた。
それを見て、俺も上半身を起こす。どうやら身体に異常はないらしく、少しだけ怠いものの、思いの外すんなりと起き上がれた。
「……ゆきと?」
「おはよう、ユメ」
限界まで見開かれた彼女の瞳にどんどん涙が溜まっていく。
気が付けば、ユメは俺の胸に飛び込むようにして抱き付いていた。続いて、小さな頭を押し当てられた胸元から嗚咽が漏れ始める。
「うぅぅ……ううぅぅぅ……! ゆきとぉ……ゆきとぉっ……!! 私が目を離したばかりに……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
余程、精神的に追い詰められていたのだろう。口調どころか一人称すら変わっていることに気付く素振りすら見せず、ただ泣き崩れるユメを思わず掻き抱く。
謝るべきはどう考えても俺の方なのだ。それなのに、ユメは俺を叱ることすらせず、ひたすら嗚咽交じりに謝罪を繰り返している。
罪の意識で頭が可笑しくなりそうだった。
「ユメ、謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。ゴメンな、本当にゴメン。図に乗って馬鹿やらかした。俺はどうしようもない馬鹿弟子だ」
「うぅぅぅ……ゆきとぉ……! 生きててくれてっ良かったよぉ!」
肩を震わせてしゃくりあげるユメの頭を優しく撫でながら、自分の認識の甘さを呪う。
忘れていた。何故、ユメが俺をここに置いてくれているのか。何故、俺に魔術を教えてくれているのか。
元の世界に帰れることを約束され、現状において何の問題も何の不自由もなく暮らせているからこそ。
まさに至れり尽くせりの環境の中で、この世界に召喚された理由も忘れて、この先どうするかも保留にしたまま、ただ異世界での生活を気ままに謳歌する毎日に溺れてしまっていた。
――ユメは件の物事の全てを差し置いて、ただ俺を「無事に元の世界に帰す」為だけに面倒を見てくれていたというのに。
思慮が浅かったなんていう言葉では全く足りない。
魔術という"生き物を殺す術"を学んでいるにも関わらず、俺はその事について何も考えていなかった。
何が「理想の非殺傷魔術を目指す」だよ。その癖、やらかした事は言ってる事と真逆という。
結局、俺は魔術を暇を潰す玩具代わりとしか見ていなかった。彼女との修行も遊び半分だったのだ。
何様なんだよ、俺は。
ユメの真摯な想いに唾を吐きかけて、自分勝手に振る舞ったクソガキの末路が盛大な自爆ときたもんだ。救いようのないバカじゃねぇか。
滑稽すぎて泣けてくる。
結果として、俺はユメの心を傷付けて泣かせてしまったのだから。
「どうしようもないクソだな、俺は……」
ユメはぽろぽろと零れる大粒の涙を拭いもせず、ただ俺が生きていたことを喜ぶように、俺の胸に額を押し当てて泣き続ける。
ユメの泣く姿なんて見たくなかった。
……ケジメを付ける必要がある。
俺は出来る限り柔らかい声を心掛けて、ユメの耳元で囁いた。
「ユメ、少しいいか?」
「……?」
ユメが恐る恐るといった感じでゆっくりと顔を上げた。
絶え間なく流し続けた涙でぐしゃぐしゃにした顔を袖で拭ってやり、そっと触れるように頬を撫でる。
それから、ユメを抱き上げてベッドの上に座らせると、俺はベッドから離れて地べたに膝を付いた。
そのまま、正座する形で両手を前に添えると、地べたに頭を擦り付ける。
「この度の件、弟子の身分であるにも関わらず、お師匠様には大変なご心配とご迷惑をお掛け致しましたこと、ここに深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした」
「え? えっ!? ユキト!?」
俺の頭の中身を得ているユメの知識には、当然ながら"土下座"も含まれている。
俺の行動の意味を理解したらしく、焦ったように狼狽するユメに対し、俺は誠心誠意心を込めて頭を下げ続けた。
「私はお師匠様の真摯な想いを見縊っておりました。結果として、貴女のお心を深く傷付けてしまったこと、後悔と慙愧の念に堪えません」
「……」
押し黙ってしまったユメの顔色を窺いたいところだが、この状況でそんな恥知らずな真似はできない。
俺は額を地面にくっ付けたまま、謝罪の言葉を積み重ねる。
「尽きましては、如何様な罰でも甘んじて受ける覚悟にございます。どうぞ何なりとお申し付けくださいませ。それでも鬱憤が冷め止まぬようでしたら、私は弟子の立場を返上し、この家から即刻出ていくことをお約束致します」
「……」
しばらくしてベッドから飛び降りる音が聞こえた後、すぐ傍まで足音が近づいてきた。
ユメが何をするつもりなのかは分からない。もしかしたら、頭を靴底で踏み潰されるかもしれないな。
俺としてはそれでも一向に構わない。それだけのことを仕出かした自覚は十二分にある。
それで少しでもユメの気が晴れるなら、寧ろ望むところだ。
だが、俺の予想とは裏腹に、ユメは俺の手をそっと握ってきただけだった。
吃驚して思わず頭を上げてしまった俺に対し、ユメは泣きそうな顔でただ一言。
「――どこにも行かないで」
それだけを口にして、再度俺の胸の中に顔を埋めてきた。
想定外の言葉に絶句する俺の態度には構わず、ユメは震える声で言葉を吐き出す。
「許す。許します。全部許しますから、だから、どこにも行かないで。私を一人にしないで。こんな形でお別れなんてヤダ。もう、独りぼっちは嫌だよぉ……!」
再び、胸元がユメの涙で濡れていく。
たった三ヶ月と少し一緒に過ごしただけの男をこうまで手放そうとしないとは。
俺に出会う前までのユメはいったいどんな生活を送ってきたのだろう。
やはり、彼女程の逸材がこんな辺鄙な森の中に一人で暮らしていたのには、相応の理由があったのか。
いや、今更そんな事を気にしたところで意味がない。
今はただ。
ユメが一緒にいたいと願うのならば――
「貴女がそれを望むのなら。寛大なご配慮を賜り、伏して感謝を申し上げます」
俺は彼女の小さな身体を抱き締めると、万感の想いを言葉に乗せて言った。
◆◆◆――――――――――――――――――◆◆◆
「本当に危ないところだったのじゃぞ? 深く反省するよーに!」
「面目ない」
泣き続けるユメを抱えてベッドに移動し、泣き止むまで抱き締め続けること幾星霜。
というのは流石に大袈裟だが、ようやく落ち着いたユメの第一声がこれだった。口調も元に戻っているようで、少し安心した。
俺の膝の上から降りようとしないユメを強引に引き剥がすのも忍びないので、仕方なく彼女を抱きかかえたまま説教を受ける。
当然といえば当然だが、ティアはとっくに帰宅したそうだ。最後まで渋っていたようだが、ユメが無理矢理家に帰したのだと。
明日必ずまた来ると言い残して、今日のところは大人しく引き下がったらしい。
話を聞く限り、ティアにも相当心配を掛けたようだ。ちゃんと謝らないとな。
「右半身は完全に炭化して崩壊しおったし、他の部位も見るに堪えない酷い火傷を負っていたのじゃ。ユキトが即死しなかったのは、漏れ出た魔力の制御が不完全だったのが幸いして、大分拡散していたからじゃな。あとは魔流甲冑を纏っていたのも大きいのぅ」
聞くだけで鳥肌物の酷い状態になってた割には、火傷の跡が見当たらない。そもそも炭化とか、それって再生不可能レベルの超重傷だと思うのだが、見た限りでは俺の四肢は健在している。
「目を背けたくなるような有り様じゃった……。事実、既存の魔術では手の施しようがなかったのじゃ」
俺が倒れた時の光景を思い出したらしい。俺の腰に回したユメの腕に力が入る。それに応え、俺もユメを少しだけ強く抱き締めた。
「じゃから、わしの"魔法"でユキトの時間を巻き戻したのじゃ。……おぬしを助けるには、それしか方法がなかったでの」
「時間を巻き戻すって……お前そんなことまで出来たのか?」
「わしは『クロノスマニッジ』と呼んでおる。条件にもよるが、その気になれば死者ですら甦らせることができる、とてつもない魔法なのじゃ」
死者蘇生すら叶う魔法。
そんなもの使えるなんて周囲に知れたら、それこそユメを巡って戦争が起こっても可笑しくないんじゃないか?
下手をすれば人間から逸脱した存在として、この人間社会から排除される可能性も考えられる。
そんな危険な魔法を、馬鹿をやらかした俺なんかの為に……。
「使った方も使われた方も肉体的な負荷が厳しいから、実を言うとあまり行使したくなかったのじゃがな。でも、ユキトはわしにとって特別な人間じゃから、大サービスなのじゃ。今日の事はわしらだけの秘密じゃぞ? この魔法を知っている者は、わしを除くとユキトとティアしかおらぬでの」
「……ユメ」
お茶目な仕草でウィンクしようとして叶わず、無理矢理片目を閉じようとして変顔になるユメ。
そんな彼女の優しさが俺の心を掻き毟った。
無意識にユメの身体を強く抱き寄せてしまう。
「ユ、ユキト? そんなに強く抱き締められると苦しいのじゃが……」
「おっと、悪い」
「う、うむ! くるしゅうない。わしのようなプリチー少女を膝の上に乗せているのじゃ。愛おしさが爆発しても仕方ないでの」
「……ホントによく回る舌だな」
どこまでも俺を気遣ってくれる少女に我知らず苦笑が漏れる。
本当に敵わない。
他人にこんな感情を抱いたのは、もしかしたら初めてかもしれないな。
「さてと。先も言ったが、この魔法は負荷がキツイ。ユキトも身体の怠さを覚えておるじゃろ? 夜も遅いし、今は大人しく寝ておれ」
「そうだな、正直今すぐにでもベッドに倒れ込みたいぐらいだ」
「うむうむ。わしも自分のベッドに戻るでの。ゆっくり休むといいのじゃ」
「ああ、そうするよ」
抱いていたユメを解放する。
少し名残惜しそうな表情を残すが、ユメは大人しくベッドから離れた――次の瞬間だった。
「ぁ……」
「――ユメッ!?」
小さく呻いたユメの身体がぐらりと危険な角度で傾く。
脊髄反射もかくやという反応速度で咄嗟に伸びた腕が、床に倒れかけたユメの身体を支えた。
「おい! どうした!?」
「だ、大丈夫。少し疲れただけなのじゃ……」
室内が暗いせいで肉眼では判別が付きにくいものの、よくよく見ればユメは青白い顔色をしていた。
彼女をずっと腕の中に抱いておきながら、今の今まで気付けなかったなんて。俺は本当に救いようのない底なしの間抜けらしい。
「疲れただけでこんな真っ青な顔になるか! 何があったんだ!!」
「……」
口を噤み、頑なに喋ろうとしないユメをとりあえず俺のベッドに寝かせる。
ユメは抵抗する体力すらないのか、されるがままに横になった。
こんな態度を取られれば、如何に救いようのない底なしの間抜けでも気付く。
「俺にクロノスマニッジとやらを使ったせいだな。もしかして、何かとんでもない副作用があるんじゃないのか?」
「……クロノスマニッジ自体は、せいぜい身体が怠くなる程度の反動しかないのじゃ。ただ――」
「ただ、なんだ?」
「……」
口籠るユメは顔を背けて視線を逸らす。
俺はそんなユメの態度を許さず、彼女の頬に手を添えてこっちを向かせる。
一切の嘘も誤魔化しも無用。
俺の不退の意志を悟ったのか、ユメは諦めたようにか細い声で呟いた。
「クロノスマニッジは本来、魔力を溜めこんだ石、通称『魔石』を補助に用いてやっと行使できる大魔法なのじゃ。しかし、生憎と手元には魔石の持ち合わせが無くての。一刻を争うが故、魔力不足を承知で魔法を行使したのじゃ。巻き戻す時間が長くなればなるほど、魔力の消費量は飛躍的に高まっていき、リスクが増していくでな」
「……そのリスクってなんだ」
「魔力が足りない場合、代償として魂を削られるのじゃ。魂を削られるのは、命を削られるのと同義。つまり、削った分だけ寿命を失うということじゃ。命を削られるのは肉体的にも精神的にも苦痛を伴うでな。わしがみっともなくふらついたのも、それが原因よ。けど、苦痛はあくまで一時的なもので、寝れば治るのじゃ」
命を削る。その言葉が胸に深く突き刺さった。
衝撃の余り、目の前が真っ暗になっていく錯覚を覚えた。
つまり、ユメは自分の命を消費して、俺を助けてくれたということだ。
なるほど、ユメの顔に薄らと隈が浮かんでいる理由がようやく分かったぞ。
「ふざけるなよ、クソが……」
ユメに向けた言葉ではない。どうしようもないクズである俺自身に向けた罵倒だ。
言葉にできない様々な感情が入り混じり、吐き気と眩暈を催す。
だが、ここでそれをぶちまけるわけにもいかない。
どうすればいい? どうすれば、俺は――
唐突に、ユメの頬に添えた俺の左手に彼女の掌が重ねられた。
たったそれだけで、狂乱一歩手前まで陥っていた思考がギシリと動きを止める。
彼女の小さな手は冷え切っていたが、同時に命の温かさを感じた。
ユメは微笑を湛えて、柔らかな声音で諭すように言葉を紡ぐ。
「ユキトや、そんな顔をしないでおくれ。わしが目を離さなければ、おぬしが死の危機に瀕することもなかったのじゃ。これはわしの監督不行き届きが原因。自業自得の結果じゃよ」
「……俺は……どうすればお前に償える?」
「これこれ。そんなに思い詰める必要はないのじゃ。確かに寿命は減ったが、わしはそもそも生きていくうえで寿命を消費せぬでな。使わない分がほんのちょっぴり無くなったところで、何の問題もないであろ?」
「問題ないわけあるかっ!!」
そんな言葉で納得できるわけがなかった。
自分の愚かな行いのせいで、他人の命を削ってしまったのだ。
代償を支払うべきは俺なのに。
それなのに、何も悪くないユメがとばっちりを受けてしまったという現実が俺の心を容赦無く苛む。
決して許されることではない。
「俺に何かしてほしいことはあるか? 今ならどんな無茶な命令でも聞くぜ」
「ユキト……」
発した言葉が安っぽ過ぎて自分で自分をぶん殴りたくなるが、今の俺ではこんな事ぐらいしか彼女に償う術が思い付かない。
ユメは俺の気持ちをどう捉えたのだろうか。
彼女は顔を俯かせて沈黙していたが、やがて顔を上げると、はっきりとした口調で言った。
「――なら、ずっと傍にいて欲しい」
それは飾り気のない一言だった。
静かな水面に水滴が落ちて、波紋を作るように心へ響く、そんな切ない言葉だった。
「ユキトが無事に元の世界に帰還するその瞬間まで、ずっと私の傍にいてほしい」
蒼銀の瞳が、真っ直ぐに俺の瞳を射貫く。
どんな無茶な命令でも聞くって言ったのに。
それでも俺を元の世界に帰すことを優先してくれるユメの優しさに、自分ではどうしようもないくらい涙腺が緩む。
「も、もっと我が儘言ってもいいんだぞ? ほら、例えば、魔導書に記されてたじゃないか。皇帝が死ぬとか、文明が崩壊するとかなんとか。それを防ぐ為に戦えとかでも、俺は――」
この世界の為に戦え。
それこそが、俺がこの世界に呼ばれた理由だ。
正直に本心を暴露してしまえば、命懸けで戦うなんて嫌だ。
だけど、それがユメに対する償いになるのなら、俺は甘んじて彼女の命令に従おうと思う。
それだけの覚悟を決めていた。
しかし、そんな俺の覚悟を踏み躙るような一言が、他ならぬユメの口から零れる。
「そんなの知らない。魔導書の予言とかどうでもいい」
「――え?」
芯まで凍り付いて、氷柱のような鋭さすら帯びた科白が俺の意識を揺さぶった。
おいおい……。
どうでもいいって、どういう意味だよ。
だって、お前が俺を呼んだんじゃないか。
世界を救いたいって。
「私はユキトと一緒にいられるなら、それだけでいい」
感情が消え、どこか冷酷にも映る無表情を覗かせたユメは、淡々と言葉を吐いた。
「こんな色の無い世界なんて、端から興味ないもの」
淡々と、そう吐き捨てた。
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