とある男装令嬢の朝
カーテンの隙間から差し込む朝日が無防備な寝顔を晒す少女の双眸に差し込んだ時、彼女の一日は始まる。
「んんーっ……」
ベッドから上半身を起こし、凝り固まった背筋を伸ばして意識の覚醒を促す。眠気が覚めないのか、ふらふらと頼りなく頭を揺らす姿は愛らしく、見る者に穏やかな感情を齎すだろう。
彼女の名前はティアリーズ・ド・ベクター。
キルフェルニア帝国、ベクター領を治めるドルク・レ・ベクター辺境伯の養子として迎えられたベクター家の長女であり、一応は末の子として扱われている。
「ふわぁぁ……っ」
彼女は猫のような大きな欠伸を漏らし、焦点の合ってない寝惚け眼のままベッドから抜け出すと、覚束無い足取りで室内の水瓶が置かれた場所まで歩いた。
ネグリジェから覗くすらりと伸びた艶やかな足が、床に敷かれた上等な絨毯を踏み締める。
侍従が予め用意しておいた水瓶の中身は清潔な水で満たされており、すぐ傍にはタオルが用意されていた。
ティアリーズはタオルを水に浸し、冷たい水で顔を洗って眠気を吹き飛ばすと、次いで、寝間着であるネグリジェをベッドに脱ぎ捨てた。
少女の白く繊細な裸体が冷たい空気に曝されるが、それを見咎める者はいない。
出る所は出て、引っ込む所は引っ込んでいる。女性として理想的なプロポーション誇る彼女は、そんな自らの身体を濡らしたタオルで拭いていく。
水を弾く珠のような肌が湿り気を帯び、周囲の冷気を引き立てるが、それが少女にとっては何よりも心地良い。
身体を清めたティアリーズは衣装ダンスから今日着る衣服を選ぶと、そそくさと着替え始めた。
白いワイシャツに袖を通し、黒いパンツを穿くとベルトを締める。その後、室内用のサンダルから茶色い皮のブーツに履き替えた。勿論、靴下を忘れてはいない。
ワイシャツの上からワインレッドのベストを着用し、人前に出れる恰好になったところで、仕上げに、流れ落ちる砂金のような美しさを誇示する長い金髪をリボンで一纏めにして、朝の支度を終わらせる。
それを見計らったようなタイミングで、小さく腹の虫が鳴った。
「……お腹減った」
ぽやっとした表情でそう呟く。
眠気は覚めても、頭の回転はまだ鈍いようだ。
ティアリーズは栄養を求めてきゅうきゅう泣き喚く胃を宥める為に、朝食を求めて早々に自室を出た。
扉を開ければ、見慣れた広く長い廊下が広がっている。
廊下の各所には一目見ただけで高価であると理解できる様々な絵画や彫刻が下品にならない絶妙なバランスで飾られており、この屋敷を訪れた客の目を楽しませるように配慮されているが、それらを見慣れているティアリーズにとっては何の意味も成さない。
擦れ違う侍従達に朝の挨拶を交わしつつ、足早に廊下を抜けて食堂に辿り着いた彼女は逸る気持ちを抑えて大きく重い両開きの扉を開けた。
そして、目に飛び込んできた光景に軽く目を見開く。
そこにはがっしりと筋肉質な体格をした、顎鬚を蓄えた厳めしい顔付きの男が朝食を摂っていた。
どう見ても武人らしい威圧感と気迫を滾らせるその人物こそ、ベクター家当主であり、ティアリーズの養父であるドルク・レ・ベクターその人である。
大貴族の当主に相応しい貫禄と威厳を兼ね備えた人物であり、同時に貴族としての優雅さと懐の深さを感じさせる初老の偉丈夫だ。
停戦中とはいえ、きな臭い動きを見せる王国と国境線を挟んで睨み合う辺境伯の仕事は多忙を極める。そんな彼が食堂で朝食を摂るというのは、ここ最近では非常に珍しい事だといえた。
「――! おはようございます、お養父様」
「ティアリーズか。おはよう」
上座に座るドルクに柔らかい笑みで迎えられたティアリーズは、長大なテーブルの隅の席に座ると用意されていたナプキンを首に巻いた。
控えていた侍従によってすぐさま用意された多数の料理を前に、神への祈りと感謝を捧げて、食事に取り掛かる。祈り終わった後に、極々小さな声で「……いただきます」と付け加えることも忘れない。
しばらくの間、双方共に無言で食事を進めていると、機を見計らっていたのか、ティアの食事が一段落したところでドルクが口を開いた。
「最近、よく森へ狩りに出ているそうだな」
「はい。気晴らしには丁度いい環境ですので」
ドルクの言葉に内心で身を固くしつつ、ティアリーズは表面上は平静を装って言い繕った。
別に疚しい事があるわけではないが、何となくユメリアとユキトの元へ遊びに行っている事実は伏せる。
「そうか。魔物が出るから、あまり森の奥へは行き過ぎないようにな」
「はい。承知しております」
ドルクの声に険はなく、純粋にティアリーズの身を心配する穏やかな温かさだけがあった。
自分に向けられた言葉の温もりを抱きつつ、ティアリーズは含む所のない健やかな笑みをドルクへ向ける。
「ならば良い」
そう言って立ち上がったドルクは、ゆっくりとした足取りで室外へ向かう。
そして、扉を開ける直前で、さも今思い出したように言った。
「そうだ。お前が土産に持っていく燻製物だが、いつも似たような物ばかりではネレイス様と友人も飽きるだろう。今日は私が用意した別の土産を持っていくといい」
ビクッとティアリーズの肩が跳ね上がり、慌てたように己の養父へ振り向いた。
「――ッ!? ご存じだったのですか?」
「くくくっ……当たり前だ。アクィナス大森林を含め、ここは私の領地だぞ? そこに住む領民を把握していないわけがないだろう」
いたずらに成功したような子供っぽい笑い声を口の中で噛み殺し、ドルクは横目でティアリーズを見やる。この男、見た目とは裏腹に、中々お茶目な性格をしているようである。
個人的な秘密がバレて、ばつが悪そうな顔をするティアリーズに対し、ドルクは柔和に目を細めた。
「以前と比べ、お前の表情は見違えたように明るくなった。育ての親として、気付かないはずがない」
養父にそう言われてしまっては、ぐうの音も出ない。観念したティアリーズは素直に頭を下げた。
「……黙っていて、申し訳ありません」
「よい。ベクター家に籍を置く者、これくらいのやんちゃをする気概が無ければ話にならん」
楽しそうに、そしてどこか嬉しそうに笑う養父を見て、ティアリーズの心の中がぽかぽかと温かくなっていく。
目の前の"父親"は、ティアリーズに対してどんな時でも真っ直ぐに向き合ってくれる、理想の男性だった。
「楽しいか?」
「はい、とても」
「そうか……」
愛娘に慈愛の眼差しを向けるドルクは感慨深そうに一言呟くと、ティアリーズの双眸を眩しそうに見つめる。
「本当に大切な縁というのは決して金では買えん。特に、お前が手に入れた縁はその中でもとびきりだ。大事にな」
「はい! お養父様!」
森に出掛けている真の理由を周囲に黙っていたティアリーズは、父から公式に許しを得て花のような笑顔を咲かせた。これで女性らしいドレスを着ていれば、さぞや多くの男を虜にしたことだろう。
いや、もしこの場に居合わせていれば、今の姿のままでも虜にされた男は多いかもしれない。
「世話になってばかりでは申し訳ないからな。機を見て、屋敷に連れてくるといい」
「――ありがとうございます」
心の底から嬉しそうな顔を覗かせるティアリーズにひとつ頷いたドルクは、今度こそ食堂を後にした。
残されたティアリーズは食後のハーブティーで喉を潤しつつ、抑えきれない喜色を誤魔化したのであった。
――これはアクィナス大森林の魔物駆除に赴く、ほんの少し前の話である。