7.
「英雄に?」
あまりに自分から縁遠い単語だったんで、思わずで鸚鵡返しになった。けれどシンシアはこっくりと頷いて、
「そうだ。龍殺しの英雄だ。構わないな、ハギト」
「つまりそれって俺が」
「ああ。毒龍アペーモシュを、お前に退治てもらう」
望むところではあるのだけれど、いや昨日俺をがっつり引き止めたその人が、今日になってどういう心変わりであろうか。
「人の命は戻らない。お前のした事は取り返しがつかない。それは覆しようもない」
疑問げな俺の目線に、シンシアは笑みを消して応える。
歯に衣着せぬ言葉に刺されて、俺はきつく拳を握る。
「取り戻せない負債ならば、他の誰にもできない仕業で埋め合わればいい。そういう責任の取り方をすればいい。ハギト、お前になら毒龍と対峙する事ができるのだろう? 消極的な自殺ではなく、戦って勝つ事ができるのだろう?」
そしてテーブルの上に、一通の書状を滑らせた。
「これは本日、法王府から届いた極秘の報せだ。これによると毒龍は、我がアンデールを目指して移動しているものらしい。この霧の森の悪龍は世の全てを食い荒らしかねない病毒を備えている。もし接近を許せば、お前の時とは比べ物にならない数が死ぬだろう。だからニーロ・ハギト、お前にはこの毒龍を平らげて欲しい。この国を救い、この世界の未来を守ってもらいたい。来訪者のお前に随分な押し付けだが、どうだ? 頼めるか?」
無理難題を押し付けたかのようにシンシアは言うけれど、これは紛う事なき親切だ。
俺の抱える罪悪感を少しでも軽くする為に、彼女が整えてくれたものに他ならないだろう。
「それが、本当に埋め合わせになるのかな?」
「なるさ。人一人を幸福にするのさえ途方もない難事なのだぞ。この先幾千幾万をそうする一助が、そうでないはずがない」
「分かった」
首肯したその途端、三方から視線が集中した。
気遣わしげなそれぞれの顔をしっかりと見返して、軽く笑む。
「俺は──俺は、どこのかの誰かの為には死ねない。だけど」
一瞬だけ目を閉じて思い浮かべる。
この世界で出会った、たくさんの人たち。俺の所為で失われてしまった、たくさんの人たち。
そうして見開けば、三人の顔があった。
もし未来が誰かと繋がっていく機会だというのなら、俺はそれを守る努力をしたい。
「だけど大事な人の為になら、いくらだって命を張るよ」
命懸けと言ったって、命を粗末にする気持ちは毛頭ない。生きて勝って帰ってくるつもりだった。
だから俺は不安の色を垣間見せたシンシアに、「大丈夫だよ」と小さく告げる。気取られたと悟った彼女は少し居心地悪げに姿勢を正し、
「……と、本人の諒解は得たが、お前たちはどうだ? タルマ、スクナナ、答申せよ」
「反対です。断固反対です。危険すぎます」
問いかけたその途端、それまで口を挟まずにいてくれたナナちゃんが即応した。
「亜龍が人ひとりで簡単に打倒できる存在なら、あの森はとっくにアンデールかイーブスの勢力圏になっています。ただでさえ兵士として未熟なハギがたった、一人で勝てる相手とは思えません」
「わたしも、現状では反対です」
ちょっと考える仕草を見せたタマちゃんも、ナナちゃんに添う回答だった。
口を挟もうとしたら、「ちょっと黙ってろ」みたいな目でシンシアに見られた。いやあの、俺の事なんですけども。
「スクナナ」
「はっ」
「私情が混ざっているのは認めるな?」
「……はい。でも決してそれだけではありません。やはり経験と練度は問題です。勝算は非常に低いと判断します」
「だがハギト以外は、戦う事すらできないのが現状だ」
「それは、でも!」
「そこなんですよね」
理論でなく感情に転じかけたナナちゃんを、落ち着かせるようにふんわり割って入ったのはタマちゃんだ。この辺の呼吸は流石のお姉さんである。
「確かにハギトさんじゃないと、病気の所為で近づく前に伏せってしまうと思います。それに性格からしてハギトさんは、いくら引き止めても突撃しちゃうと思うんです。最悪、昨夜みたいにこっそりで。ならできる限りの準備を整えて送り出した方が、よっぽど安全で、安心できるんじゃないでしょうか?」
「タルマ様は、反対ではなかったんですか」
恨みがましいナナちゃんに、タマちゃんは、にふ、と笑った。
「『現状では』反対ですよー。でもまだわたしたちは、姫さまのお話を最後まで伺ってませんから。当然、伏せ札がおありなんですよね?」
「無論だ。既に法王府へは連絡を飛ばしている。その中で最上級の術式兵装の使用許諾と、捕捉信号感知用の魔符の借用を打診済みだ」
いや捕捉信号ってなんだよと尋ねたら、先発した法王府の部隊が毒龍に追跡魔法を打ち込んでいたのだそうな。以前ちらっと聞いた、「施した最低限の処置」ってのがそれだったらしい。
この魔術式は一定期間ごとに特殊な信号を発し、さながらラジオのように、該当周波数にチューニングした魔符で探知できる。先ほどの「アンデールに毒龍が接近しつつある」って情報も、これで判明したってわけだ。
つまりGPSみたいなものだなと納得をして、それからふと「カッコイイっすね」と腕の翻訳さんを指で弾いてみたりする。
「待ってください。位置が特定できるなら、尚更僕が切り込んだ方が確実です。僕なら確実に相討ち以上が取れると判断します」
聞いて、ナナちゃんが再び食い下がる。だがシンシアは「残念だが」と首を振った。
「法王府所有の限定術式ではあるが、そこまでの精密な位置特定は不可能だ。持続時間を優先しているので発信間隔が長く、高速で感知地点に至っても空振りに終わる可能性が高い。お前が感染する懼れが大きいばかりで、到底良案とは言えないな」
言われてしゅんと下を向く彼女を「ちょっと過保護だぞ」と突っつきかけ、思いとどまった。俺を案じてくれての事なのだから、茶化すような真似はとてもよくない。
「心配してくれるのは嬉しいけどさ。これは、俺がやりたい事なんだ」
ナナちゃんに抱えられた右腕を引っこ抜き、言いながら彼女の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「あと君が俺を案じてくれるのと同じかそれ以上に、俺も君を案じてるんだ。怪我したり病気したりはして欲しくない」
するとナナちゃんは泣き出しそうな目をして、珍しい事に自分から俺の手のひらに頭を擦り付けるようにした。
うーむ、つんけんしてた昔から思うと、びっくりするくらい懐かれたな。
などと感慨に耽っていたら、すぐさま左手の甲を抓られた。無論タマちゃんの仕業である。
「ただし、だ。こうして戦支度を準備を整えた上でも、勝率は『高い』程度でしかない。必ず勝てるとは言い切れない。私とても、ハギトを死の危険に臨ませたくはない。だから、代案もある」
「代案って、どんな?」
「逃げてしまおう」
卓の上に身を乗り出し、真っ直ぐ俺に視線を据えて。
シンシアは、力強く言い切った。
「ハギト、お前は被害者だ。それが許される立場だ。ならば、全部放り出して忘れてしまえ。目を塞いで、全て見なかった事にしてしまえ。当然私も一緒に逃げてやる。お前と二人、食べていくのに不自由はないはずだ。事によっては、タルマもスクナナもついてきてくれるだろう。そうなれば渡世はもっと楽になる。先も言ったように、死んだ者はもう二度と戻らない。ならばそれらは諦めて、前を、前だけを見て、自分の為に安閑と生きればいい。それでいい。毒龍など知った事かと居直れば、命を危うくする必要もない。どうだ?」
「……ひどいな、シンシアは」
俺にこんな仕業をさせたくない、というのは本心からの言いだろう。
けれど彼女は多分、訊く前から俺の答えを知っている。
「そんなふうに言われたら駄目だ。そんな事言われたら一層駄目だ。却って投げ出せない」
自分が受けたと信じた傷は、自分で癒す他にない。逃げてしまえば、後は逃げ続けて腐るだけだ。ただ呼吸をしている事を、きっと生きているとは言わない。この事は、俺に欠かせない荒療治だ。
それに。
シンシアは最初に、「英雄になれ」と告げた。
それは信じてくれたって事だ。
──私の大切なものは、愛おしいものは、いつだってこの手をすり抜けて、どうにもならない場所へ行ってしまう。
そう言って怯えていた彼女が、怖がりのお姫様が、それでも俺が戻ってくると信じてくれてるって事だ。
だから俺は笑った。多分親父みたいに、悔いも陰りもなく。
「だって俺、見栄っ張りだからさ。好きな子の前では格好をつけたいんだ」
ふっと沈黙が落ちて、「あれ、俺なんか変な事言った?」と焦りかけたその時、ナナちゃんとタマちゃんの声が重なった。
「あーもー!」
「ああもうっ」
何故だか二人ともますます俺にくっついて両側から、
「ハギトさんてば、またそんな笑い方してずるいです。やっぱり、反対できなくなっちゃったじゃないでですか」
「ほんっっとにしょーがないな、ハギは。ほっとけないよ、そんなの」
えーと、これはとりあえず反対意見を取り下げてもらえたって事でいいのだろうか。
助けを求めてシンシアを見ると、彼女は微苦笑で応じてから表情を改めた。
「お前は自分を特別なんかじゃないと、矮小なものだと決め込んでいる節がある。けれど違う。それは違う。世界中がお前を責めようと、私はお前を庇ってやる。世界の全てがお前を憎もうと、私がお前を守ってやる。私にとって、お前はかけがえのない特別だ」
「姫さま姫さま、間違えないでくださいな。『私にとって』じゃなくて、『わたしたちにとって』です」
割って入ったタマちゃんに呼応するように、ナナちゃんがまた俺の腕を拿捕するなりくいくい引いた。「僕も僕も」って事だろうか。
話の腰を折られたシンシアは少し気まずげに咳払いをして、
「とにかく、そういう次第だ。ハギト、お前はもう、自分を軽んじたりはしないな? 自分の命を投げ出そうとはしないな?」
自然、口元が緩んだ。
ちょっとだけ深く息をして、それから強く頷く。
「うん。もう絶対、二度としない。ごめんなさい」
「ならば改めて申し付ける。ニーロ・ハギト。私の騎士」
「はい」
「アンデールを脅かす毒龍がいる。これの退治を頼みたい。お前以外には決して成し得ぬ難事だ。私を、助けてくれるか?」
「お任せください」
芝居がかった調子のシンシアに、同じようにして俺も応える。
それにしてもこの人、本当にずるいよな。
「貴方だけが頼りです」なんてお姫様に大事を託されるとか、「私を助けて」なんて恋人に頼られるとか、どっちも男の子としては夢に見るようなシチュエーションじゃないか。
これじゃあ奮起するしかないじゃないですか。
意気を高める俺をしばし見守り、それからシンシアはいつもの悪戯めいた瞳になって「ハギト」と呼んだ。
「『その時そこに居る事』。『何かしようと思える事』。条件は、そのたったふたつだったな」
「え?」
「私たちは今、ここに居て。お前の力になりたいと思っている」
両脇でタマちゃんとナナちゃんが、それぞれに頷く気配がした。
「だから、一人で背負うな。私を頼れ。私たちを頼れ。仮令お前が一人きりで戦わなければならないとしても、独りきりで死地に送りなどするものか」
「……」
守りたいだのなんだのなんて、独りよがりの烏滸がましい話だった。
迷惑をかけない事は信頼の証なんかじゃない。こうして、時に弱さを見せて頼り合うのが、時に弱さを許して支い合うのこそが。
感極まるって、こういうのを言うのだろう。胸が一杯で言葉が出ない。
そんな俺に優しく笑んで、それからシンシアはてきぱきと指図を始めた。
「ではタルマ、スクナナ。惚れた男の為だ、仕方ない。舞台を整えてやるとしよう」
「はい」
「はっ!」
「まずタルマ、お前からは平時一切の任を解く。亜龍種に効能を及ぼすと思われる護符を作れ。資金は惜しまず、至急でだ。いつまでに仕上がる?」
「でしたら両日中には、必ず」
「結構だ。スクナナは文献を当たれ。軍務資料が残っているはずだ。最優先閲覧許可を与える。何人使っても構わない。亜龍の動きを徹底して研究し、応戦法をハギトに叩き込め」
「承りました」
ああ、不思議だな。まだ何一つも解決していないってのに、ひどく気持ちが楽になっていた。
俺は三人に向けて深く頭を下げる。
「畏まっている場合ではないぞ、ハギト。お前には明日、厄介事に付き合ってもらう」
「了解。何をすればいい?」
「実はな」
そこで少し言葉を切って、シンシアはふふんと楽しげな顔をした。
あ、これ絶対また悪さを企んでるぞ。
「実は法王府よりのものと一緒に、隣国イーブスからの書状も届いた。我がアンデールに詰問使を派遣したのだそうだ。おそらくは亜龍が感染させた熱病を、アンデールが病魔を利用して行った侵略行為だとして糾弾、賠償を求める腹だろう」
ですよねー。
世間に喧伝されてる俺の能力を考慮すれば、そういう結論だって出ますよねー。
「こうした会議には法王府の人間が立ち会うのが決まり事なのだが、我が国にはミニオン卿の次の代行が不在だ。よって新たに法王府の人間を招請してある。両者とも早馬で飛んでくる手筈だから、明日には到着する事だろう。この会談の席で、私はイーブスを軽くやり込めて、その上で法王府に恩を売るつもりだ。お前にはその協力をしてもらう」
いや待て。またなんか凄い事言い出したぞこの人。
ツッコミを求めてナナちゃんを見たけども、俺と同じく呆然とした表情である。じゃあタマちゃんは、と視線を送ったら、
「いらっしゃるのは、リー様ですか?」
「そうだ」
「ではお部屋を用意しておかないとですね。以前と同じの方がよろしいですよね?」
「それで構わないが、お前が受け持つ必要はないぞ。支度は他の者に任せろ」
「あ、はい。うっかりするところでした」
……なんか適応していらっしゃる。
というか誰だよリー様。
まあかくして、館は新しい客人を迎える次第になったわけだけれども。
ここでひとつ、どうしてもツッコまずにはいられない事態が発生した。
翌朝早く、運動場にて訓練中の娘子軍の皆さんを押しのけて着地したのは、えーと一羽? 一頭? とにかくそんな感じの翼竜だった。所謂プテラノドン系である。
つまり比喩抜きで飛んできやがった。
ああ言ってたよ。確かに言ってたよ。「早馬で飛んでくる」って。馬イコール爬虫類系交通機関なんだから、想像して然るべきだったかもだけど、いやでもそういう意味かよ。そのまんまの意味かよ。
時折こう、ごりごりにファンタジーをねじ込んでくるよなあ、なんて思いもしたけど、でもこの感慨はすっかり魔法文明に見慣れた今だからこそ出てくるものだろう。だってこの国、電気も水道もライフラインはほぼ全部、魔法で稼動しちゃってるし。日常生活からしてファンタジーだし。
などと俺が心中で一人相撲を繰り広げるうちに、翼竜の背からひとつの影が飛び降りた。
膝だけで衝撃を殺したその人物は、驚くべきか俺やシンシアと年の頃の変わらないような女性──というより女の子であった。
騎乗には適さないような真紅のローブ。どぎついその色合いが下品に感じられないのは、羽織るその子の翡翠の瞳が、ひどく上品に煌くからだろうか。
赤がかった栗色の髪はよく手入れされて、あー、なんていうんだっけ、これ。毛先が鎖骨の辺りに向かって尖る、クワガタの顎みたいな髪型に整えられていた。
背丈は少しシンシアよりもわりに低い。
その所為で胸を張るようにして彼女は俺たちを見上げていて、それが勝気な印象を一層に強めている。
「よく来てくれた、ラウィーニア・リー」
「貴方が一枚噛んでなかったら来なかったわよ、シンシア・アンデールっ!」
一礼の後、表情を緩めてシンシアが言うと、ラウィーニアさんは苦虫を噛み潰した顔でそう応えた。




