4.
姫様の細い指が、くしゃくしゃとやわらかく俺の髪をかき回す。
言葉はないまま、けれどどこかでくっきりと繋がったまま、俺たちは互いの温度が混じり合って同じになるまでくっついていた。
やがて昂った感情が沈静化してくるにつれ、俺に恥の心が蘇ってくる。
そうなってから数分前の自分の言いを思い返すともうやばい。いやなんだよ「姫様に甘えててもいいかな?」って。アホか。ほんとにアホか。お前はアホのプリンスか。
正直指さされて盛大に笑われてもおかしくないような台詞である。
なのに姫様はそんなのさえも受け入れてくれるみたいで。
それどころかこうやって抱き締めてくれて。でもって鼻先を姫様の、女の子のどこか甘い肌の匂いがくすぐったりして。
「姫様」
「もう、いいのか?」
「はい。その……ありがとう」
体を離して顔を上げて、そして目が合って、また伏せる。
うわ、どうしよう。気まずい。凄く気まずい。
それは姫様の方も同じらしくて、ふたり腰掛けたままそろそろと、お互いとは逆の向きに上体を逸らす。するとおかしな事に、ひどく心細い気持ちになった。
さっきまで触れていたぬくもりが失われて、なんだかまるで姫様とくっついていないのの方が不慣れみたいに胸が苦しい。
「この先の話をしようと思ったが、どうやら無理のようだ。今夜は頭が働かない」
見えないところで姫様が言って、それからとんと背中に触れてくるものがある。
心地よいその重みの正体は、横目で確認するまでもない。俺にもたれる姫様の背だ。
「よって一先ずそれは置く。タルマとスクナナも交えて協議すべき事だろうからな」
うん、それがいいと思います。正直俺の頭は全然冷えてないままで、もうオーバーヒート気味です。
理性ぶって、余裕めかしてそんな事を考える。
けれど、俺の手は思考に相反して動いていた。ソファーの上、こちらへ体重をかけすぎないように突いているのだろう姫様のその手の甲に、おずおずと重ねる。
すると姫様の手は俺に包まれたままくるりと裏返り、あちらから指を絡めてきてきゅっと握った。
「だから、こんな状況であればこそ言える事を言いい、訊ける事を訊こうと思う。この機会を逃せば、またお前は見栄を張って、真情を吐露しなくなりそうだからな。構わないか?」
「ええ、勿論」
少し上ずった言葉に、裏返りかけた声で応える。
時間を考えたら、本当ならお暇するべきなんだろうけど。でもどうしても、姫様ともっと一緒に居たかった。
「では、そうだな。先に、少し恨み言を言おうか」
「お手柔らかにお願いします」
怯えてみせた俺に姫様は小さく笑い、その長い髪が俺の背中でさらさらと衣擦れを立てる。
「先ほどやっと、お前が誰の好意にも目を瞑って、見ないふりをしてきた理由は分かった。だがな、だがそれが知れないうちは、本当はお前に嫌われているのじゃないかと、不安になりもしたんだぞ?」
「ご、ごめんなさい」
「勿論私だって、結婚だのなんだのと少し性急が過ぎたとは思う。悪戯めいても見えただろう。けれどあれも、私の精一杯の意思表示だったんだ。お前が思うほど、私にだって余裕があるわけではない。なのにお前はつれなくて、見えるのに決して直接には触れられない、嵌め殺しの窓向こうの景色のようだった」
「いや、そんな事は……」
口では言いながら、「ない」とは強く否定できなかった。
いつでも人の気持ちを、関心を欲しがりながら、俺はどこかで諦めてた。
どうせ最後は俺じゃないんだと、斜に構えて期待を抱かないようにしていた。
だって望んでしまったら、好きになってしまったら、届かなかったその時に、その分だけ深く傷つくから。
だから自分に向けられる好意を、やわらかく拒み続けていたかもしれない。
「お前は罪の意識を覚えずにはいられないのだろう。けれど自分が完璧でなければ人と関わってはならないという法も、またない。己の一過を責めて身を軽んじるな。独力で足りないのなら、耐え切れないのなら、自分以外の誰かを頼ればいい。誰かと手をつなげばいい。不完全だからこそ、私たちは補い合って、支え合って、頼り合う。それでいいんだと、そうしていいんだと。これは、お前が私に教えてくれた事だよ」
お前もそうしろ、と告げるように。
そこで姫様は俺へ寄りかかる度合いを増やした。
「ごめん。俺、なんかそういうの、上手くできないみたいで。ごめんなさい」
「知っている。お前が不器用なのも。不器用にしか見えないくらい、誠実で懸命なのも。だからこそ私は思う。お前という人間の価値を、お前自身に思い知らせてやりたいと。それにはどうすればいいのかな。どうしたら、ちゃんとお前の心に届くのかな」
「……」
砕けたような調子だったけれど、声音にはひどく切ない響きがあった。
だから俺は何も言えずに、ただ口をつぐむしかできない。
やがて姫様は嘆息をして、気持ちを切り替えるように話を転じた。
「次いで、これは訊いておきたい事だ。まだお前は、元の世界に帰りたいか? 以前不可能だと告げて、現状でもそれは変わらない。だが仮にもし、将来的にそうした術式が構築されたとして。その時お前は、元の世界に帰ってしまうのか?」
咄嗟には答えられない問いだった。
未練がない、といえば嘘になる。
やっぱり日本が懐かしく思い出される日はあるし、何より家族の事はひどく気になってる。まあおふくろはあの通りだし、あの兄貴だっているから、きっと元気でやってはいるだろうとは思う。でも。
そんな一瞬の逡巡で、きっと姫様には十分だったんだろう。
「そうだな。お前が望郷の念を抱くのも当然だ。それにお前の家族の事もある。きっと昼も夜もなくお前を案じているだろう。お前の帰還を待ち望んでいるだろう。我が事として思えば、その胸中は想像して余りあるものだ」
言いながら、ふっと姫様が背中を離した。
体ごとこちらへと向き直り、すがるように俺の腕を抱いた。
「けれどハギト。私はお前の家族と同じ痛みと苦しみに、到底耐えられない気がするんだ。お前を欠いたこの先は、少しも頭に浮かばない。だからもしその方法が見つかったとしても。ハギト、私はお前に帰らないで欲しいと思う。我が儘なのは承知で、ずっと、ここに居て欲しい思う。私では、お前の帰る場所に──ああ、いや。また迂遠だな、私は。こちらを向け、ハギト」
姫様が、ゆっくり頭を振る気配がした。
言われるがままに振り向いた俺の頬を、彼女の両手のひらのが包むように捉える。
「ハギト」
自らを鼓舞するように、姫様は繰り返して俺の名を呼ぶ。
驚くほど近い距離で、薄紫の瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
口元を、いつもの不敵めいた微笑がかすめた。
「すきだ」
姫様の唇の動きと、音の響きが一致していた。
たどたどしくも懐かしい、日本語の響きだった。
それをあっと思う間もなく、姫様の顔が近づく。
たっぷり、ふた呼吸分。
きつく目を閉じた姫様の顔が目の前にあった。ひどくやわらかな感触が、俺の唇に重なっていた。
俺の思考が現実に追いつくその前に、ふっと姫様は身を離す。
俺たちはそのまま至近距離で見つめ合い、
「……好きだ」
もう一度、姫様が囁いた。
桜色に上気した頬にこぼれた髪を手で流し、くすぐったそうに瞳を細める。
そして固まったままの俺を見て首を傾げて、
「うん? 私のニホンゴは、何かおかしかったか? 赤心を告げたつもりだったのだが……」
「あ、いや、ちゃんと伝わってます。大丈夫、大丈夫です」
でも伝わったその所為で、俺はまったく大丈夫じゃないです。
だってほら、今のっていわゆるその、キスってヤツで。それは普通恋人同士でする行為で。でも俺と姫様は、え、いやお嫁さんになるんだからいいのか?
というか姫様ってば、ちょっとばかり勢いが良すぎだ。唇越しに歯と歯ががつんぶつかって、危うくファーストキスは血液の味みたいな結果になるとこだった。いや「初めては痛い」ってそういう意味じゃないだろう。
でも姫様の唇はやっぱりやわらかくて、馬鹿みたいに鼓動が早くて、まだ顔が近くて。
タマちゃんの指摘だってあったし、そりゃ俺にもなんとなく、「姫様には好かれてるんじゃないかな」みたいな感覚はあったけど、いやでもこんな。
狼狽え果てる俺を尻目に、姫様は「うむ」と頷いて、
「やはり直接的な物言いと行為とでなら、お前の朴念仁にも牙が立つのだな」
なんて嘯いている。
いつもみたいに悪戯めかした目をしているけれど、違う。
これは装っているだけだ。
心細げに体を強張らせて、不安そうにそわついて、多分何かを待っている。
「……あ」
一体何を、と考えて、ようやく思い至った。
そんなの決まってる。
返事だ、返事。俺、姫様に何の返答もしてないじゃないか!
「ひ、姫様っ」
「うん」
「俺も好きだ」
つい日本語で口にしてから気がついて、こちらの言葉で言い直す。
「俺も、姫様が好きだ」
姫様はぱちくりと目を瞬かせ、それからその白皙に、ますますの朱が差した。
「……」
「……」
「……」
「……」
いや、なんか反応してくださいよ。
そう思った途端、
「……ハギト」
「はい」
ぽーっとしたままだった姫様に、かすかに呼ばれた。
「すまないが、もう一度言ってもらえるか」
うぇっ!?
それはその、もしかしなくてももっかい告白を繰り返せって事ですよね?
さっきのだって勢いに任せてどうにか口に出したようなものなのに、なんてハードルの高い。
でも他ならぬ姫様の頼みだし、かなり大事な事だしと、唇を舌で湿して深呼吸。
そうしていつも彼女自身がするみたいに、真っ直ぐ逸らさず姫様を見た。
「俺も、シンシアが好きだ」
陶酔したような、酩酊したような、とろんと潤んだ瞳で姫様はこくんと頷く。
それからしばしの沈黙の後、
「その、もう一度。もう一度だけ」
「君が好きだ。大好きだ」
多分要求されるだろうと覚悟していたので、今度は躊躇しなかった。
言い切ると、姫様はようやくほっと全身の力を抜いてふわりと笑う。
「うん。うん、そうか」
泣き出しそうな微笑のまま、彼女はぎゅーっと抱きついてきて、俺の胸に顔を埋めた。
「人に好かれるというのは嬉しい事だな。それが好いた相手になら、況してやだ」
さっきまでとは逆に、今度は俺が彼女を抱き締める格好になる。
こちらからも腕に力を込めると、姫様は俺の胸に頬ずりをする。
幸福そうなその所作に、またもちくりと罪悪感が胸を刺した。
けれど。
俺は居直りよろしく首を振る。
世界中から憎まれようと嫌われようと構うものか。俺の気持ちに嘘はない。
そんなふうに思った。
そんなふうに思えた。




