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病は君から  作者: 鵜狩三善
風邪引きの朝
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2.

 しかし意地といっても所詮気力であり、気力でしかない。つまり体力ゲージには関与しない。

 通学路を踏破した俺は、教室に着くなり荒い息で机に突っ伏していた。

 いや駅から学校までこんなに遠かったっけ? 教室までの階段って、こんなに険しいものだったっけ?

 どうも電車に揺られている間にわっと熱が上がってきたものらしい。全体がぼけーっとして体の感覚が遠い。関節が痛い。普通に歩くだけで息が切れる。おまけに座ったら座ったで椅子の冷たさがヤバイ。凄い勢いで体温が奪われてる気がする。

 

「ちょっと新納、どうしたのさ?」


 口では心配そうに、しかし実際は容赦なく俺の脇腹を小突いたのは隣の席の鍋島だ。


「どうもしてない。大丈夫、大丈夫」


 へばりつつも顔を上げたら、「うわ」と露骨に眉をしかめられた。


「全然大丈夫じゃないじゃない。馬鹿なの?」


 まったく、朝から実によくバカ呼ばわりされる日である。

 言い返してやろうと思ったが、どうにも頭が回らない。上手い返しが出てこない。内心切歯扼腕(せっしやくわん)していたら、聞きつけて他の級友もやってきた。


「おいおい、冗談抜きで顔色悪いぞ? 大丈夫か?」

「おー」

「授業受けられそうか?」

「おー」

「アルファベットの15番目の文字は?」

「おー」

「駄目だこりゃ」


 うーむ。

 会話を成立させようとは思うのだが、どうも言語中枢がサボタージュしているらしい。矢継(やつ)(ばや)に畳み掛けられると、頭の中で文章が成立しない。

 唸っていたら鍋島が、しっしっと冷たく手を払った。


「そんな状態でここにいるの自体が迷惑なの。周りに伝染(うつ)ったらどうするのよ」

「……おー」


 ぐうの音も出ないほどの正論である。確かにそれは迷惑だ。


「先生には言っとくしノートは後で貸してたげるから、さっさと帰って寝てなさいよ」

   

 口と態度の悪さは相変わらずだが、鍋島は根のいい女である。君が風邪引いた時は覚えてろ。お返しに俺もノートを貸出してやる。ただしちょっと字が汚いのは大目に見て欲しい。


「甲斐ー」

「おう、なんだ」

「先輩に今日は休むって言っといてくれ」

「おうよ」


 同じ部の友人にどうにかひねり出した言葉を託し、俺は鞄を肩がけして立ち上がる。 


「保健室行って帰る」

「ついてったげようか?」

「いや、いい」

「そ」


 横目で俺を見上げつつ鍋島が提案してきたが、それについてはお断りしておく。もう数分でチャイムだし、そしたら担任来るし出欠だし。自分の事で人様に迷惑かけるのは好きじゃない。  


「お大事に」

「気ぃつけて帰れよ」


 クラスメイトの言葉に見栄張って平気そうに手を振ったが、いや実際キツいキツい。

 教室の扉を閉めてから、俺は深々息をつく。いやあしまった、素直に家で寝てればよかった。

 咳はまだ出てないが、被害を拡散させない為にもどっかでマスク入手してから電車に乗るべきであろう。家には誰もいないが、幸い鞄には手つかずの弁当と風邪薬が入っている。そいつで皆の帰宅まで凌げるはずだ。

 兄貴に助けを求めるのはちょっと悔しいので、後は杏子にメールして、栄養ドリンクかなんかを買ってきてもらって。

 ぼおっとした頭で今後の行動を考えていて、次にはっと気づいたら、「保健室、保健室」と呟きながら下駄箱で靴を履き替えているところだった。

 いや冗談抜きで記憶が飛んだぞ。なんだこれ。

 その体勢のまま、数秒考えた。

 実を言えば人生初早退につき、通すべき正式なルールがよく分からない。イレギュラー行為である以上、一応保健室とかで許可を貰ってきた方がいいような気がする。

 しかし、である。

 下駄箱から保健室はわりと遠い。地味に遠い。

 結局、まあ言伝(ことづて)はしてあるわけだし大丈夫だろうと結論をした。今日はこのまま帰ってしまおう。  


 スニーカーに踵を押し込み、歩き出しかけたその時だ。

 不意に、強く引かれる感触がした。予期せぬ突然の力に、俺はぐらりバランスを崩す。 

 いかん、転ぶ。

 慌てて立て直そうとしたが、意識とは裏腹に体の反応は鈍い。思うように足が動かない。つんのめった体勢で数歩、力に引かれるがままに体が泳ぐ。

 幸いと言うべきか、完全に転倒する前に昇降口の壁が目の前に来た。支えにしようと、俺はそこへ手をついて──。


 ──え?


 ずぶり。

 ついたその手は、勢いもあって肩まで壁の中に沈んだ。

 一瞬遅れて、沈んだ方の腕に刺すような痛みが走る。

 冷たい。まるで冬場の、薄氷を張った水にでも突っ込んでいるみたいだった。指先から順に感覚が、あっという間に消えていく。

 ぞっと肌が粟立った。

 本来の昇降口の壁の前に、まったく同じ風景を映した水面(すいめん)があるかのようだった。

 俺の腕は空間の水面(みなも)に呑み込まれ、向こう側に消えて見えない。そして見えないその向こうで、何かが俺の腕を掴んでいる。(とら)えて俺を引き込もうとしている。


「……っ!?」


 人間、本気で焦ると咄嗟(とっさ)に声が出なくなるものらしい。

 ただ必死で呑まれた腕を引き抜こうとしたが、びくともしない。消えた肩を中心に、空中に波紋が中空に生じるばかりだ。

 踏ん張る為の手がかりを求め逆側の腕をばたつかせ。しかしこちらも無駄だった。その拍子でずり落ちた鞄が床に転がるだけ終わって、結局何もつかめない。

 そうこうするうちに、またぐいと強く引かれた。首元、鎖骨の辺りまでもが引きずり込まれる。沈んだ先の感覚は、もう冷たさすらない。

 がっちりと俺に食らいついて離れない、まるで肉食獣の(あぎと)みたいだった。

 

 なんだこれ。

 なんなんだこれ。


 混乱した頭の中を、ぐるぐるとそればかりが回る。

 耳には遠くから、生徒たちと教師の声が聞こえる。ほんのわずかの先にはいつもの日常がある。なのに俺はこんなわけの分からないものに引かれて呑まれて。

 胃の奥から苦く嫌な予感がせり上がってくる。


 ──俺、死ぬのか?

 

 そう思った時、もう一度強い力が加わった。それで、首まで呑まれた。

 反射的に目を閉じ息を詰める。鳩尾(みぞおち)の辺りまで一辺に冷却される。あまりに急な温度変化を、俺は強い衝撃として知覚する。上半身が沈んだ後は、もう一気呵成(いっきかせい)だった。

 あっという間もなく足が地面を離れ、全身があちら側へと引き込まれ。


 そうして、俺の意識は暗転した。

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