4.
「ぶっちゃけ暇です」
そう、暇なんである。
姫様がお仕事中の俺は冗談抜きに暇なんである。
俺の事を怖がる人が館内にはいるので、昼は極力部屋から出ないようにしている。いくら広いとはいえ室内は走り回るのに当然向かない。
ストレッチと筋トレくらいはしているが、あまり閉じこもっているとそのうちに、運動不足で霜降りになる。
「やばいくらいに暇なんです」
「ふむ」
というわけでその日の朝、思いの丈を込めてリピートしてみた。
俺の熱弁に姫様は自らの形のいい頤を指で撫でる。
「ハギト、確かお前のそれは言葉を訳せても文字は無理なのだったな?」
「はい、駄目です」
思案顔で俺を、というか翻訳さんを見たので、腕輪を指で弾いて首肯する。
こっちにはテレビもラジオもゲームもない。すると残るメジャーな一人時間つぶしの筆頭は読書になるだろう。
しかし、である。
人の意思を感知して機能するらしい翻訳さんは、書き文字に対してはこれっぽっちも機能しないのだ。
文字にはその場で発生する指向性の思考がないから、まったく少しも訳されない。なんで俺の目にこっちの文字は、ミミズがのたくったような記号としか映らない。
「というわけで、子供向けの教科書とかもらえませんか。せめて単純な読み書きくらいは覚えときたいと思うんです」
実際死活問題である。
俺は翻訳さんなしでは一切の意思疎通が不可能だ。冗談抜きでカバーストーリーの設定以下なコミュニケーション能力になる。
そして翻訳さんもマジックアイテムだ。魔符に使い減りがあるように、これも電池切れみたいなのがあるかもしれない。故障だってありうるだろうけど、それをメンテナンスできるのかすらも分からない。
万一姫様とすら会話できなくなったなら、孤独感はやばい事になると想像に難くない。
できるうちにできる事を積み重ねておくべきだとは、こっちに喚ばれた時に身にしみた教訓である。
「ハギト、まずお前の誤解を正しておく」
「誤解ですか?」
「そうだ。お前は『読み書きくらい』と言ったが、アンデールの、いやこの世界の人間の多くは文盲だ。読めない書けないが普通の事なのだ」
活字離れとかそういうレベルじゃなかった。
あー、そういえばこの前、学校って概念がないって言ってたっけ。勉強するなら専属の家庭教師を雇って、が主流らしい。「行儀見習いとして仕込む事もあるが、基本的に庶民教育は普及していない」とか言ってた。誰でも書けるて誰でも読めるっての、実は教育の賜物で凄い事であったのだな。
そういや日本は寺子屋があったから一般市民でも識字率が高くて、宣教師だかペリー提督だかが驚いた、みたいな話を聞いたような記憶もある。
「よって指導要綱を考慮して編まれた教科書というものは存在しない。だからそうだな、文字を学ぼうというのなら、」
「いうのなら?」
姫様はそこで言葉を切って、気を持たせるように俺を見た。
最近分かってきたのだけれども、この人、結構茶目っ気があるというか悪戯っぽいというかなんである。
「その場合は、子供向けの絵本を用意する形になるな。どうもお前の欲しがるものは児童用が多くて、子供の面倒でも見ている気になる」
ぐぬぬ。
密かに気にしてたのに言われてしまった。
そりゃ慣れてる姫様からすりゃ、外の景色見たがるとかちゃちな魔符で喜ぶとか、お子様もいいところでしょうさ。
「そりゃ俺はこの世界来て一週間経たずってトコですからね。子供以下の赤ん坊みたいなもんですよ。姫様ってお父さんに頼るしかありません」
「む」
敢えて男性呼ばわりでやり返したら、姫様は口を尖らせた。
麗しい見た目と乖離したひどく男らしい口調は、やはり自覚のあるところのようだ。
「これには一応理由があるのだ」
「差し支えなければ、伺っても?」
「ああ。別に秘すほどの話ではない。昔……少し、私の周りがうるさかった頃があってな」
奥歯に物が挟まったような言い方で想像がついた。おそらくはお世継ぎ関連の事だろう。
優秀な姉と普通の弟。ただし跡取りは後者と決定している。
目は薄いが一発逆転に賭けて、前者に取り入ろうとする人間はいそうである。
「だから、意図してこんな物言いをするようにした。面倒な奴だと思われれば、担ぎにくい神輿と思えば余計な虫はまとわりつかなくなるものだ」
ああ、確かにこんな喋りの子供がいたら、クセがあって扱いにくいって印象は強いかもしれない。
しかし、と姫様の子供時代を想像してみる。えらく可愛い小さい子がこんな話し方をしていたら、逆に愛でられそうでもある。
「そうやっているうちに、習い性になった。……やはり、お前にも奇妙に聞こえるか?」
「まあ違和感があるって言ったらありますけど」
口を開かなければ、楚々として神秘的な雰囲気の美少女なのだ。
声だって鈴を鳴らすような美声なのだ。
にも関わらずでこれだから、インパクトは大変強い。
「いやでも、なんかカッコイイですよ。俺は姫様に似合ってると思います」
「そうか」
言うと、花が開くようにぱっと笑った。
ご機嫌はすっかり治った様子で、いやはやまったく、可愛いのだか格好いいのだか正体不明な人である。
「これも誤解のないよう言っておくが、今はきちんと社交術も身につけている。付き合いはどうしても生じるものだからな。そうした場で父と弟に恥をかかせるわけにはいかない。その気になればきちんと淑女を装える」
「いや『装う』とか言っちゃ駄目ですって」
「む」
そして得意げに社交術云々と語ってはいるが、姫様は自分の、他人を遠ざけるというか拒むというかな空気がそのままなのに気づいていない。
この人多分、敬して遠ざけられるというか、近づき難くて「あの子ひとりでなんでもできちゃうから、ひとりで平気だよね」と放って置かれちゃうタイプだと思う。
俺はインパクトのある上と下と、あとついでに母親に挟まれてるから順応早いけど、やっぱ姫様のこの雰囲気を無視してすぐに親しめる人間ってのは少数派のような気がする。
「あ、ひとつ質問」
「どうした?」
「姫様と俺が初めて会った時の事なんですけど。完璧な淑女ができるなら、なんでその仮面で俺をたらし込もうとかしなかったんですか? あっさり誑かせたかもしれませんよ?」
「この世界限りの礼節で取り繕うよりも、生のままの私を見せた方が、信頼を得るにはよいだろうと考えたからだ。後後で態度を豹変させるよりも、ずっと誠実だろう?」
またちょっとからかうつもりだったのだが、生真面目っぽい答えを返されてしまった。
でも口の端で不敵に笑う姫様を見るに、どうも面倒がっただけの可能性がなきにしもあらずである。思い返せば兵隊さんたちも、姫様の口調は先刻承知って感じだったし。
「なんだ? まだ何か疑問でもあるのか?」
「いいえ、いいえ」
「言っておくが」
「なんですか?」
「私のような物言いを淑女らしいとする地方が、この世界にはなくもない」
「いやどこにもないだろそんな地方」
と、そんなところでどすどすと乱暴なノックの音がした。本日はここまでである。
「ハギト」
「はい?」
見送ろうとした俺へ、思いついたように姫様が呼びかけた。
「読み書きの件だが、残念ながら私には時間が足りない。手ずから教えるのは無理だろう。代わりと言ってはなんだが、ひとり信頼できる教師を紹介しようと思う。近いうちに話をつけておくから、期待しておけ]