1.
どうにもこうにもまだ眠い。
起きなければという気があるから目は覚ましているのだが、頭の芯がまだぼーっとしている感じ。
いかんいかんと俺はまぶたをぐしぐし擦る。
俺は台所の丸テーブルに腰掛けて、窓から外をと眺めていた。
「迎えが来る前に身支度をしておけ」と姫様に起こされたので、言われるがままに顔を洗って制服羽織って、ここでいい子にしてるんである。
その姫様はというと、外の皆さん方のところでお話中だ。俺が顔を出すと弊害を生じるかもと言われてしまったので、対外交渉はすっかりお任せなのだ。
つまるところ窓越しに、姫様のしゃんと伸びた背中を応援するくらいしか俺にはやる事がない。ヒモっていうのはこういう心持ちなのであろうか。
ちなみに姫様は俺より早く起きて身支度を整えていた。それでいて殆ど眠そうな気配もなくて、変わらず凛然としているのは見事なものだ。
でもちょっと油断したのか、さっきこっそり欠伸してたのを俺は見た。しっかり見た。
姫様のが伝染ったわけではないけれど、俺も大きく欠伸をして、ついでにぐうっと手足を伸ばす。
このまま座ってると眠気に負けてしまいそうだ。
立ち上がって台所の流しに立ち、キーワードを詠唱して魔符に触れた。ぶん、と振動めいた感触が指先に生じて水が湧く。程よく冷たい水流で顔を洗い直してから、俺は符を停止させた。
ふふふ。
昨日の特訓の甲斐あって、水呼び火熾し点灯消灯、基本的な生活関連魔法用品の使い方はもうばっちりなのだ。
しかしやっぱり魔法っていいなあ。無意味に起動したくなるくらい楽しい。でもマジックアイテムにも使い減りみたいなのはあるらしくて、明かりを点けたり消したりして遊んでいたら姫様に、「無駄遣いをするな」と怒られた。わりとお母さんみたいな人である。
そうそう。
魔法といえばだがそのうち姫様に頼んで、俺にも見透かしってのをしてもらえないだろうかと考えている。
能力限界とかはあんまり知りたくないけれど、魔法の資質辺りはとてもチェックされたい気がする。便利な才能があったなら、修行してみるのも悪くない。
それにひょっとしたら俺の中には特殊で凄い魔術素養が眠っていて……などと妄想しかけ、ないないと首を振った。流石に夢見過ぎである。
余計な願望を眠気ごともう一度洗い流し、頭をしゃっきりさせたところで姫様へと視線を戻すと、丁度お偉いさんっぽい人々と談話しているとこだった。
カバーストーリー的に姫様は、「一夜で死病を撒き散らす病魔を従えた王都を救った英雄」という事になるわけで。その辺りに関する手柄とか功績とかの配慮的事後処理が必要になってくるのだそうだ。
「面倒な事だ。アンリに──弟に丸投げしたいところだが、あいつが来ないのでは仕方ない」
とかなんとか愚痴りつつて出て行ったのだが、姫様、おっちゃん達の前ではやわらかかつ満面の笑顔を浮かべている。「やだもー」「そんなんじゃないですよー」とか言ってそうな感じだった。
いや誰だあれ。完全に俺の知らない人だぞ。
そう思っていたら談笑のちょっとした隙間で、姫様は素早く俺に片目を瞑って見せた。つまり完全に意識して使い分けてるんである。
「装いは女の武器の一つ」みたいに語ってたけども、あれはこういう意味であったのか。
うーむ。
分かっていながら目配せを可愛いと思ってしまった。駄目な自分がちょっと憎い。いやいや、でもこれは騙される奴がいるのも仕方ない。女の子ってマジ怖い。
ところで姫様の営業スマイルにだまくらかされて懐柔されているのは、お偉いさんたちばかりのようである。後ろの兵士諸君はどこか笑いをこらえているようで、やっぱりあの男口調と不敵な態度こそが素の姫様なのだろう。
しかしそうと知られていながらこの雰囲気という事は、姫様、兵隊さんたちの人気者のようである。
まああの声で指揮されたら、大抵の局面はなんとかなるような気がしそうだしな。下知されたい気持ちは分からなくもない。
ちなみに今外に来てる兵隊さんたちは、これからこの屋敷の捜索を行う為の人員なのだそうな。よく考えれば当然だった。そりゃ姫様の送り迎えだけに、こんな大人数裂いてられない。
さて。
談話を終えた姫様は、昨日とは別のバスケットを抱えて帰ってきた。でも昨日と一番違うのはバスケットではなく、姫様が単身ではなかったところである。
一人、騎士が付き従っていた。
外の兵隊さんたちと違って、金属ではなく黒く煮込まれた革鎧を着込んでいる。「かわのよろい」っていうと序盤でそこそこの防具って感じがするけど、実際間近で見てみるとかなり硬くて丈夫そう。
他の人たちが重厚な盾なら、こちらは俊敏な弾丸って印象だった。どちらが優れている、劣っているじゃなくて、そもそも役割と性質が違う。
でもって驚いた事に、その革鎧が包む体のやわらかなラインは女性のものだ。しかも若い。俺や姫様とそう変わらないような雰囲気である。
どっかで見たような、とちょっと首をひねったら思い当たった。
あーこの人、多分昨日姫様を押し止めようとした人だ。鎧の群れから飛び出してきたスピードと、一人だけ金属鎧姿じゃなかったってのが記憶に残っている。夜目遠目で普通の服のように見えたけど、あれはこの革鎧だったのだな。
しかし俺の既視感の原因は、他のところにこそあった。
それは彼女の髪だ。その色は俺と同じく黒色で日本人っぽい。おまけにそのショートボブ、隣の席の鍋島とそっくり同じなんである。
いや顔立ちは全然違うからすぐには気付かなかったけれど、そりゃほぼ毎日すぐ横にあったヘアースタイルなんだから見覚えがあって当然だ。
ところで俺が観察する脇で、姫様と彼女は押し問答中である。内容は革鎧の彼女を館に入れるかどうかについて。
おそらく革鎧さんは、姫様の護衛とか警護とか、そういう感じの人なのだな。だから職分的に、俺と姫様を二人にしたくない。気持ちは分かる。
でも姫様は結構頑固で杓子定規なところがある。昨日の「私ひとりだ。他には誰も近づけない」という言葉を違えたくないのだろう。
俺が口を挟むのもおかしい気がして居心地悪く帰趨を見守っていたら、
「スクナナ、これ以上は言わせるな」
「……差し出口を申しました」
やがて姫様がびしゃりと言い切って、革鎧さんが一礼。そして少し肩を落とした。
むう、なんか申し訳ない。職務を全うしようとしただけなのに、俺の所為で怒られるとか不憫以外の何者でもない。
すまない気持ち革鎧さんを見ていたら、目があった瞬間、じろり。
ひどく冷たい目で睨まれた。
姫様に危害を加えそうな危険分子とか、取り入ろうとしてる不穏分子とか、彼女の中で俺はそういう扱いなのであろうなあ。
多分姫様の友好的応対が特別かつ特有で、普通の人の態度としては、まあこれが普通なのだと思う。
胸中感じるところがないではなかったけれど、とりあえずその後は朝食。
ちなみに本日の献立は、葉物のサラダに豆腐っぽいチーズ、それからミカンみたいな酸味のある味わいの、見た目バナナっぽい果物だった。なんというか最後のは予想外の味な分、インパクトが強烈だった。いや決して不味いわけじゃないんだけど、むしろ美味しかったんだけど、すごく裏切られた気分になった。
そして食べながらで、今後の予定とカバーストーリーの細かい部分を打ち合わせ。
結果としては、俺はこちらの言葉を喋れないし理解できない、ただし契約相手である姫様の言葉だけは分かるという線でいく事になった。ボロを出すのが心配だったが、これならなんとかなりそうだ。
「お前はどうやら口を滑らせる気質のようだ。気をつけるように」
思った途端、とお達しが入った。そういえば姫様の前だけで、既に二回はやらかしている。
よって訂正。
これならおそらくなんとかなると思う。ま、ちょっと覚悟はしておけ。
食事と後片付けを終えたら、次にすべきは姫様んちへの移動である。
自分のもの以外はこのままでいいとの事なので、食器類は洗うだけで鍋やバスケットは放置。自前の荷物だけ持って外に出る。
俺としてはこの館から出るのは初めてだ。というかこの世界の土を踏むの自体が初めてなわけなのだが、しかし開放感なんて欠片もなかった。
だって表に出た途端、ざっと視線が集まってきたくるんだもん。
刺すようなそれは、待機中の兵隊さんたちの目である。さっきの革鎧さんほど露骨でないが、敵意と反感に満ち満ちていた。言語化するならば、「姫様のお手を煩わせてんじゃねぇよ」とか「姫様に何かしたらぶち殺す」とか、多分大体そんな感じ。やっぱり姫様、随分と好かれていてるようだ。
しかし当の俺にとっては針のむしろで視線の槍衾だ。肩身が狭い胃が痛い。
だが姫様は、そんな俺のアウェイムードを完全黙殺。
「ハギト、こっちだ」
無人の野を行くが如く先に立って歩き出す。ここに一人置き去られてはたまらない。俺は慌ててついていく。気分はモーゼに付き従う民衆である。
館の前まで馬車が迎えに来ている、という話だったのだが、ここでひとつ驚くべき事態が勃発した。
おいこら翻訳。
お前「馬車」っつったよな? 確かにそう訳したよな?
でもどう見ても車体に繋がれてるのは馬じゃない。
ステゴとかブロントとか、そういうのを小型にしたようなサウルス系である。「自分、爬虫類顔なんで」で済む範疇を越えている。
こんな意訳というか超訳というか来るとは思わなかった。油断していた。
思わず「うわ」と漏らしたら、
「馬を見るのは初めてか」
先行していた姫様が肩ごしに振り返った。その目は悪戯っぽく笑っている。
いやだからこれ馬じゃないし。俺の知ってる馬じゃないし。
四つ足の先こそ蹄みたいな形をしているけども、でも体にはびっしりウロコが生えてるし。爬虫類特有の何を考えてるのか分からない目をしてるし。あとなんか角とか背びれとかあるし。
「安心しろ、これは草食だ」
相変わらず臆さない足取りで姫様はサウルスに寄り、その鼻面を撫でた。爬虫類は首をもたげ、心地よさげに瞬きをする。
……えっと、可愛い、のか?
姫様の解説によるとこの四足歩行のは草食タイプ。大人しめの性格で、車なんかを引くのに向いた力持ちなんだそうな。
「だかあちらは肉食だ。馬銜は噛ませてあるが、引っかかれないよう気をつけろ」
姫様が指し示した先、そこにいたのが二足歩行の肉食タイプ。
小さな前足と長い尾、そして鋭い鉤爪が特徴的である。
草食タイプに比べて力は劣るが、俊敏で悪路を走るのに向いているのだという。こっちには背びれがなくて、背中に鞍を置いて騎乗するようだった。それにしても「肉食の馬」って、なかなかにひどい字面じゃあるまいか。
だがしかし、最初の驚きから立ち直ってみると、こいつら恐竜好きだった男の子的にはありだった。うん、ありだ。
ちなみに草食のの鳴き声はちょっと牛っぽかった。肉食のは鳥のように甲高くて、猿かなんかの笑い声っぽくも聞こえる。
引いているのはそんな具合にアレだったけども、馬車の残り半分、つまり車体の方はごくごく普通。御者台があって、その後ろに観覧車のゴンドラみたいな閉じた座席がくっついている。
そのゴンドラのドアを開けてくれた御者さんに軽く頷くと姫様はふわりと乗り込み、中から俺に手を差し伸べた。
馬に過剰に反応したから、おそらく馬車が俺にとって不慣れな乗り物と判断して気遣いなのだろう。
だろうけれども。
首元とか背中とかが、物凄くちくちくするんである。視線って結構物理的なのだなあ。
ちらっと振り向くと、肉食馬に騎乗した革鎧さんがたまたま目に入った。あちらも俺を見ていた。というか睨んでいた。
この手を取ったら、手を取ったら厚遇を妬まれて夜道で刺されるエンド、取らなかったら「姫様のご御厚意を無視する不埒者め」と斬り捨てられるエンドな気がしてきた。
「どうした?」
「いえ、なんでも」
姫様が不思議そうな面持ちをするので、結局手はお借りしました。
俺、無事に今夜を越せるのだろうか。