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病は君から  作者: 鵜狩三善
病は君から
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2.

 そんな具合に、近いってよりも至近距離な生活を三日ほど経て、そこにおっちゃんらが合流した。要するに俺とナナちゃんが大丈夫っぽいので、更なる念押し確認として追加されたリトマス試験紙だ。

 いやナナちゃんに、「後からおじさまたちが来てくれるよ」と言われた時は本気で誰か来るのかと思った。どうしたってそんな呼称が似合うような上等な代物じゃあない。


「大丈夫大丈夫、お邪魔なんかしねぇって」

「オレらはテントは別だからよ、気にせずでいいぜ」

「勿論ちゃーんと聞こえねぇように離して建てる。遠慮も要らんぜ」


 ほら見ろ。

 その証拠に到着するなりの物言いがこれである。というか「おじさま」なんて呼ばせて、一体全体純真なナナちゃんに何を吹き込んでやがった。

 ただまあ、その眼力ばかりは大したものだと思わざるを得ない。

 出迎えた俺の足取りからすぐに怪我に気がついて、そちらの問診とナナちゃんの見立ての確認をしてもした。だけどその後がいけない。まったくいけない。


「その体じゃあ激しい運動はちと無理か。惜しい事したな」

「大将は肝心要で好機を逃すなあ」

「いやいや、戻ってからは三人まとめてのお相手だ。今のうちに養生しとかねぇとな」


 本気でぶっ飛ばすぞこのエロ親父ども。


「うん、ナナちゃんこれ人選ミスだ。今から別の人に変えてもらおう。この人たちには帰ってもらおう。あと以後この連中を『おじさま』とか呼ばなくていいから。二度と呼ばなくていいから」

「で、でも悪く言ったら駄目だよ? ハギの事、とっても心配してくれてて、それでこうして駆けつけてくれたんだし」


 ……うん、実はそれは分かってる。

 シンシアとタマちゃんがあっちを離れられないのを把握して、感染してないかどうかナーバスになってる俺の心情にも配慮して、それで近しい人間として後続の共同生活者に名乗りを上げてくれたってのも理解できてる。

 ただこの件についてはさ、ナナちゃん。素直に感謝を述べさせない向こうが全面的に悪いと思うんだ。



 とまれ以後も法王府の方からも人数が加わったり、あと「亜龍にも感染したのだから」と何頭か馬を連れてきてたりで経過を見ていたのだけれども、そこに誰一人の罹患者(りかんしゃ)も出なかった。

 俺にとってはこの上ない幸いだ。

 もし誰かが発症してたら、そして命を落としたりしたら、今度はちょっと立ち直れなかったと思う。

 そうして俺の安全が保証され、アンデールへの期間許可が降りて、やがて迎えの馬車が来た。

 ただ 驚いたのはその車体に見覚えがあった事だ。

 緩衝機能抜群かつ防音機能完備のそれは、シンシアがお仕事に出る時に使う、王家の紋章入りの馬車である。そして当然の事ながら、御者さんが開けたドアからふわりと姿を見せたのは、シンシア・アンデールその人だった。

 淡い黄金のような、あるいは輝く白銀のような絹糸めいた長い髪。意志を湛えて静かに神秘的な、薄紫の瞳。新雪の肌は眩しく白く、薄桃の唇はふっくらとやわらかく、それでいて背筋は凛と伸びて、伸びやかな肢体の隅々までもに美しい緊張感がしんと張り詰めている。

 そして何よりも、周囲の目を吸い付けてやまない、磁力のような存在感。

 相変わらず彼女は、ただその場に立つだけで空気を変えてしまう。

 指揮下にあるわけでもない法王府の人たちが、すっと姿勢を正したのもむべなるかな、である。

 ()く言う俺も、一瞬見蕩(みと)れて飲まれてしまう。

 デュマが彼女を「月」と形容したのも、ああまでしなければ手に入らないと信じたのも、どちらも分かるような気がした。 

 それはまるで天上で遠く冷たく輝いて、こちらを顧みもしないもののようだった。

 でもそうじゃないと俺は知っている。彼女は決して特別なんかじゃあなくて。


「ハギト、スクナナ」


 真っ直ぐに、早足にならないぎりぎりの速度でシンシアはこちらへやって来る。

 そうして口元に笑みを乗せれば、ほら。近づきがたい雰囲気は(たちま)ちに霧散して、そこにはどこか不敵で悪戯っぽい女の子がいるばかりだ。


「無事のお前たちに(まみ)えられて、私はとても嬉しく思う」

「ご心配をおかけしました」

御自(おんみずか)らのお運び、恐縮です」

「二人が果たしてくれた働きに比せば、まるで何ほどの事もない」


 俺とナナちゃんに首を振り、それからシンシアは「ふむ」と顎に手を当て、じーっとこちらへ視線を注ぐ。


「ところでハギト、スクナナ。お前たちの距離が随分と近いように見える。何か、特別でもあったか?」


 最短距離を突っ走る、真っ向大上段からの切り込みだった。

 単刀直入この上ないそれに俺が何を言うより早く、ナナちゃんが両手で唇を抑えて真っ赤になった。次いで俺を見て飛び退(すさ)って距離を取る。

 ……いやあの君ね。そういう過剰で分かりやすい反応をするとね。


「なるほど。ハギト」

「はい!」


 思わず気をつけをして、背筋を伸ばしてしまった。


「後で、詳しく聞かせてもらおうか」

「……はい」

  


 さて。

 そんな悶着もあったけれども、俺たちは無事各種の引き継ぎを終え、後の撤収作業は法王府の人たちに任せてアンデールへ帰還する運びになった。

 ちなみにシンシアと俺が馬車で、ナナちゃんとおっちゃんたちは騎馬。「あれ、俺が乗ってきたぶももが置き去りになるんじゃ」とか思ったけれど、草食のは肉食のに比べて足が遅いからって事で、先に連れて帰られていたらしい。手回しのいい話である。

 でもって馬車に乗り込んでドアを締めて、そこから困った。

 さっきの事の後だから、会話がとても切り出しにくい。告白した相手を放ったらかしで他の女の子にとか、怒られて当たり前だよな。当然謝るべきだよな。

 

「えっと、あ、いやナナちゃんの事はですね、手を出しちゃった俺が悪いわけで」

「別に、その件で立腹してはいない。場合によっては(とぎ)くらいさせているだろうと覚悟していた。(そそのか)しておいたからな」


 やれやれと髪をかき上げ、シンシアは不機嫌めいた半眼をする。


「あれは、お前に好かれていないと決め込んでいた。おまけに私やタルマに対して劣等感を抱いている。その辺りを汲んでやるのは、本来お前の仕事なのだぞ?」


 それはナナちゃんの言葉とそっくり合致していて、身が(すく)む思いだった。

 そういえばお守りを届けに来てくれた時のタマちゃんにも、似たような事を言われたっけか。示してくれる好意に、ふらふらと流されるままになってちゃ駄目だよな。


「そしてそれはとは別にだな、ハギト。お前は少々人の心の機微に──いや、女心に(うと)い面がある。お前にとってスクナナは、大層可愛い相手なのだろう。だが考えてもみろ。しばらく振りだというのに真っ先に他の女の話をされて、私が面白いと思うか? 使嗾(しそう)した側が言うのもおかしなものだが、これでは悋気(りんき)の虫が抑えられない」


 そう言うとシンシアは座席に手をつき腰を浮かせて、ついと俺に寄り添ってくる。

 ふわり、鼻先に女の子の匂いがした。


「……私だって、寂しかったのだぞ?」


 ちらりと拗ねた瞳で、上目遣いに俺を()む。

 その様はひどく愛くるしくて、責められてる最中だってのに、俺の鼓動は早鐘になる。


「決してお前を信じなかったわけではない。でも、それでも不安で怖かったんだ」


 そうして大切なものにするように、俺の腕をぎゅっと胸に抱え込んだ。

 その体は今も小さく震えていて、波紋も見せずに押し殺していた内心を、俺にすっかり伝えてきて。


「ごめん。ごめんな、シンシア。いっつも駄目だな、俺は。心配かけてるのは分かってるつもりだったのに、やっぱり分かってなかった。今後はもっとよく考えて、もっとちゃんと君を見て、こういう事のないように気をつける」


 俺の謝意に「ん」と小さく顎を引き、彼女は得心を示してくれた。それからふっと(ほころ)ぶように微笑んで、俺の腕を抱え直す。

 ……あのそれ、大変やわらかな感触が直撃なんですけども。

 けれど俺の当惑を他所にシンシアはご満悦の表情で、「やはり、お前のくっつき心地が一番いい」なんて(うそぶ)いている。

 いやでも一番って、一体どこの誰との比較なんだろう。

 思った瞬間、


「ああ、案ずるな。試したのはタルマとスクナナにだけだ」


 どうやら反射的におかしな想像をしてしまったのを悟られたらしい。

 どこか満足気にシンシアは告げ、その面持ちに、ちょっぴり悔しいような気持ちになる。


「一応褒めてもらえてるみたいだからお礼は言っておくけど、でもとりあえず腕、離してもらってもいい?」

「あ……すまない。嫌だったか?」

「いやそうじゃなくて。そういう事じゃ全然なくて。そうやって捕まえられたままだと、俺の方から抱きつけないだろ」


 ならばと反撃の布石に告げた途端、彼女は露骨に悲しく瞳を曇らせてしまった。驚かせるだけのつもりだったから、慌てて俺は言葉を継ぎ足す。


「だからその、寂しかったり会いたかったりは、俺も一緒だったって話」


 気恥ずかしさのあまり途中で視線を逸らしかけたけど、でもさっき謝罪したばっかりだしな。

 その気持ちを梃子(てこ)に、真っ直ぐ彼女を見つめたままで言い切った。


「……まったく、お前の舌はどうなっている」


 ぱちくりと目を瞬かせてから、シンシアはわっと笑顔になった。

 先ほどのを(つぼみ)と例えるなら、今度は満開で大輪の花だった。


「どうしてそうも簡単に、私を幸福にしてのける?」


 いつもよりちょっぴり高くやわらかなその声は、きっと()のままの彼女のものだ。

 これがナナちゃんの言っていた、「ちょうどいいところから出ている」って声音(こわね)なんだろう。それは俺の中の愛おしさを、百発百中で射抜くみたいだった。

 少しだけ躊躇(ためら)うようにしたその後、シンシアは抱っこをせがむ子供のように、両手を広げて抱擁を強請(ねだ)る。

 向き直ってかき抱くと、子猫みたいに身をすり寄せてきた。


「シンシアって、やっぱりくっつき魔だよな」

「余裕ぶっても駄目だ。顔が真っ赤だぞ」


 桜色の唇が耳元で囁く。俺の照れはすっかりお見通しのようだった。

 いやでもだってさ。

 こんな子に好意を寄せてもらってくらっとこない男も、こんなに懐かれて嬉しくならない男も、どっちもこの世にいるもんか。

 まあ開き直りもいいとこだけど、見抜かれてるなら誤魔化す必要もないだろう。

 恋情に溺れがまま、彼女の存在を確かめる。

 俺が奏でる鼓動。彼女から伝わる鼓動。

 二人分のそれは高鳴って早い。なのに世界で一番安心な場所にいるかのように、気持ちはひどく穏やかに凪いでいた。

 少しずつ、互いの温度が入り混じる。

 長い髪を()くように撫でると、彼女は快さげに声にならない声を漏らした。俺の背に回した腕に、ぐっと力がこもる。そうして一層に強く隙間なく、まるでひとつの生き物めいて、俺たちはぴったり体を重ねる。

 他に何も要らないと思った。俺とシンシアの二人だけで、何もかもが不足なく完結してるみたいだった。

 時間の概念も不確かになって、どれくらい、この不思議な一体感に揺蕩(たゆた)っていただろうか。


「不覚だ」


 ふとシンシアが呟いて、俺の胸に手を突いて顔を上げた。

 生じたのはただそれだけの距離なのに、まるで世界の半分が欠落したみたいな心地になる。


「またしてもすっかり、お前に酔わされてしまった」


 ぽーっと上気した頬のまま、とろんと(とろ)けた瞳のまま、彼女は名残り惜しげに体を離す。

 それからふるふると(かぶり)を振って、


「だがハギト。お前と離れている間に、私は自分のこれまでを省みたのだ。結論として、私はどうもお前に甘え過ぎていたように思う」

「いや別にそんな事ないんじゃないかな。むしろシンシアが甘えてくれるなら嬉しいくらいだけど」


 つい本音を漏らしたら、「ばか」と弱く甘く罵られた。


「お前がそんなだからいけない。私はお前に際限なく寄りかかって、どんどん駄目にされてしまう。幸せとは()れてはならないものなのだ。なので」


 ひとつ咳払いしてから、シンシアは一度他所を向き、それから横目だけで俺を見た。


「私は決心をした。ハギト、お前が無事戻ったら、今度は私がお前を甘やかしてみせる、と」


 いや物凄くいい顔で、一体何を言い出してるのこの子。

 というか普通に考えたら、俺の方が断然甘やかされてる側だと思うんだけど。


「ええと」

「うん。何をして欲しい? 所望を言え」


 言いたい事は色々とあったけども、でも俺に求められるのを期待して、薄紫の瞳がわくわくとこちらを注視している。

 そしてどうにも俺は、この手の押しにとても弱いらしかった。 


「……それじゃあ膝を」

「分かった。随意にするといい」


 抗しきれずに応えたら、彼女は一旦座り直し、膝を払ってぴんと背筋を伸ばした。「いつでもどうぞ」って具合の体勢である。


 ──ここから、「やっぱなしで」は通らないよなあ。


 まだ少し痛む腹筋を総動員。できるだけゆっくりと、俺は彼女の足に後頭部を預ける。うむ、とシンシアは頷いて、よしよしと俺の頭を撫でた。


「寝心地はどうだ?」

「た、大変に結構です」


 当然ながらお世辞じゃあない。

 さっき抱き締めた時にも堪能させてもらったけど、どうして女の子ってどこもかしこも、こうもふわふわやわらかいのだろう。

 またしても俺の心を読んだみたいに、悪戯っぽく不敵めく、いつもの笑みをシンシアが浮かべた。俺が完敗の雰囲気だ。

 しかも、である。

 そんな彼女を見上げて、そこで初めて気づいたのだけども。

 膝枕のこの態勢って、シンシアの双丘越しにその顔を仰ぐ格好になるのだな。

 お姫様はとてもスタイルがよろしくていらっしゃるので、非常に眼福というか、その、大変に後ろめたいアングルだった。目のやり場に困ってしまう。

 そういう次第で視線を逸したのだけれど、まるでそっぽを向くような挙措がお気に召さなかったのだろう。下側の頬に手を添えられて、ぐいと強引に振り向かされた。うう。


「アンデールはまだ先だ。着く前に聞かせてはもらえないか。森での事を」

「ああ、うん」


 切り替えての言葉に首肯してから俺は少しだけ考える。

 そしてデュマについては、やはり誰にも告げない事にした。

 別に(おもんぱか)ってやる義理なんてないけど、あいつにしたら俺の口からあれやこれやを語られたくはないだろう。特に相手がシンシアなら尚更だ。

 こういうのも、同病相憐れむの範疇(はんちゅう)なのだろうか。

 思いながら、俺の体に零れたシンシアの髪を手のひらですくった。


「俺が凄く格好いい感じに、話を盛ってもいい?」

「困ったな。それでは惚れ直してしまうかもしれない」


 くすりと笑ってシンシアは、俺の顎の下を細くて白い指先でくすぐる。

 瞬間、ぞくぞくっと震えにも似た感覚が背骨を走り抜けた。「うわっ」と思わず声が出た。

 俺の過敏な反応が気に入ったのか、シンシアは目を輝かせて笑みを深める。なんかもう悪い予感しかしない。いや君ってば今、絶対よくない事を企んだろう。


「ちょ、ちょっと待った! ストップ、シンシアそれストップ! やめてやめてやめて」


 じたばたしたって、無駄な足掻(あが)きというものである。

 そのまま思う存分膝の上で(もてあそ)ばれて、結局俺は機嫌のいい猫みたく、ごろごろ喉を鳴らす羽目になった。

 ……冗談抜きで癖になりそうな気がして怖い。




「──ハギト。ハギト」


 体をゆるく揺すられて、俺ははっと我に返った。

 目を開くと、くっつかんばかりの距離にシンシアの微笑がある。それで一気に頭が冴えた。

 森での事を語り終え、その後そのまま雑談になってじゃれているうちに、どうも気が緩んで眠り込んでしまったものらしい。


「私でくつろいでくれるのは嬉しいが、(じき)アンデールに入る。少し、起きていてもらいたい」

「了解。それからごめん。重かったろ?」


 俺は慌てて膝を離れて居住まいを正し、シンシアに目礼をした。

 人間の頭って、実のところかなり重い。それをずっと乗せられたままとか、負担この上なかっただろう。

 けれどシンシアは「謝る必要などない」と首を振り、


「とても可愛らしい寝顔だったぞ」


 耳までが、かあっと熱くなるのが分かった。

 いやなんだってこの子、こんな女ったらしみたいな台詞を俺に向けてぽんぽん吐くの?


「それに、いい夢を見ていたのだろう? ならば詫びるのは私の方だ。無粋をしたな」

「んー……まあ、悪い夢じゃなかったのは確かだけど……」


 ……って、いやいやちょっと待て。

 なんだってシンシアが、俺の夢見を知ってんだ。


「お前が、家族の名を呼んでいたからな」


 俺が思った途端、相変わらず魔法みたいに俺の思考を読み取って、シンシアがそう答える。

 そっか。寝言しちゃってたか。

 ちゃんと今生の別れを告げる夢だったのだけれども、そこだけ聞かれたらひどく未練がましいヤツみたいだ。さて、なんと言い抜けたものか。


「覚悟しておけ」


 一瞬黙った俺の頬を、彼女の両手が(くる)んだ。そのまま間近から真っ直ぐに覗き込み、


「そのうちきっと同じように、私の名前も呼ばせてみせる」


 ふふんと不敵な笑みで宣言をして、俺をすっかり絶句させる。

 そしてすいと手を離し、馬車の外を一目確かめると、少しだけ余所(よそ)行きの顔をした。 


「大分、話が逸れてしまったな。お陰でもう街に入るところだ」


 シンシアが告げた、その直後だった。

 まるでタイミングを計ったかのように、馬車の防音を抜けて波のような声が聞こえた。一人や二人のものなんかでは決してないその響きによく似たものに、俺は聞き覚えがある。それは、亜龍討伐に出る朝に受けた歓声だった。

 なんか初めてこの馬車に乗った時の事を思い出すなあ、なんて回想しつつ、小窓に額を押し当て外を見る。

 するとアンデールの街のそこかしこに、沢山の人の姿が見えた。

 いや訂正。

 町並みは人波に殆ど隠し切られていた。馬車の進む道筋を囲んでその脇に。詰めかけるように路地ごとに。建物の入口に、窓に、屋上に。そこかしこに手を振る人が、花を投げる人が、竹とんぼを飛ばす人なんかまでもが居て、誰もが笑顔のようだった。

 あの朝に見た、微かな不安や怯えはどこにもなくて、ただ陽性の空気だけがそこにはあった。


「お前を起こしたのは、これを見てもらいたかったからだ。これを聞いて欲しかったからだ。これはお前を讃える歓呼であり、お前という英雄への歓声だ。お前が守った景色で、お前の受け取る報酬だ」


 馬車が徐行し始める。

 ナナちゃんやおっちゃんらも騎馬の速度を落として、車周りを警護する隊列になるのが見えた。


「この声に正対するのは、明後日の式典の折だ。今は姿を見せなくていい。気構えはそれまでに支度すればいい。だからただ受けておけ。そして覚えておけ。これだけの者たちに、お前は慕われているのだと」


 静かな、けれどわずかに震えるシンシアの声を聞いて。

 その時不意に、許されたような気がした。決して取り返しのつかないものを、ほんの少しだけ取り戻して。そうしてこっちの人たちに、この世界に、許してもらえたような気がした。


 行動の価値ってのは、他人の評価に依存するものじゃない。

 本来はそうだし、その通りだと思う。

 けれどこうして、俺した事が無駄なんかじゃなかったんだって目の当たりにすると。ただ兄妹に憧れて見上げるばっかりだった俺からすると、さ。


 多分。

 これは、多分さ

 誇ってもいいんだよな、兄貴。


 形にならない何かを、やっと掴み取れたように思う。

 熱く胸にこみ上げてくるものがあってまぶたを閉じたら、シンシアの指がそっと目元を拭った。


「馬鹿め。英雄がそれでは、体裁が悪いだろう?」

「……ごめん、そうだよな。でもほら、今はちょっと、駄目みたいでさ。少しだけ、もう少しだけ、見ないふりしてもらえるかな。あとしばらくは、俺、凄く格好悪いままだと思うから」

「まったく、しょうのない見栄坊だ」


 愛おしく囁いて、シンシアは俺を胸に抱き締める。


「いつも懸命にできる事を積み重ねて。そうして折れずに歩みを続けて。なあハギト。お前の不格好な姿など、私は一度も見た事がない」

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