3.
「一晩だ」
食事の片付けを終え互いに座り直した後、姫様は顔の前に、指一本を立てて見せた。
「?」
「先の『ここへ何をしに来たか』というお前の問への回答だ。私はお前と一夜を共にしに来た。今晩はこのままここに泊まるぞ」
「……へっ!?」
言い回しに死ぬほど驚いたが、おそらく絶対そういう意味ではない。
翻訳さんが狙ってやったのだとしたら後で説教が必要である。
「ああ、余人を近づけないという言葉を違えるつもりはない。安心して欲しい。ここで過ごすのは私とお前の二人だけだ。余計な警戒は必要ない」
いや必要だよ警戒しようよ。誰がって姫様がだよ。
俺と二人だけって、それマズいですから。それはマズいですから。
今ひとつ屋根の下にいる男は、住所不定どころか住所不明の自称異世界人。紛う事なく不逞の輩だ不審者だ。そんな奴と二人きりで一泊しようだなんて、俺ならこれっぽっちも望まない。
「あのですね。ほら、俺も一応男なわけですよ。でもって姫様は女の子で、尚且つすっごい美人なわけですよ?」
遠回しに忠告したら、ふふんと鼻で笑われた。
「問題ない。私にもそれなりの心得はある」
椅子に腰掛けたまま、姫様は斜めに足を伸ばした。
引きずるか引きずらないかぎりぎりのロングスカートから、にゅっと突き出たのはレザーブーツだった。それもお洒落な革ブーツとかそういうんじゃなくて、がっつり頑丈そうな、要するに蹴られたら物凄く痛そうなブツだった。
こういうのも能ある鷹は爪を隠すと言うのだろうか。
しかし見た目にそぐわず、どうにも男前な姫君である。
「いやでも仮にアヤマチが起きなかったとしてもですね。やっぱ人の口とかそういうのが……」
「それも問題ない」
嫁入り前の若い娘が云々と説教臭く言うつもりはないけれど、でもいいとこのお嬢さんなんだから外聞があるだろう。そんな事を伝えたかったのだが、またしてもばっさり斬って捨てられた。
「言ったろう? 私は子を成せない体だ。嫁ぐつもりも当てもない」
しかもなんか言わせちゃいけない事を重ねて言わせてしまった。
二の句が継げなくなった俺に対して、今度は姫様が口を開いた。
「ハギト、お前は何くれと私を案じてくれるようだが、あまり気遣う必要はない。私とて自殺願望があるわけではないのだ。無為無策ではなく、ある程度の手はずを整えてここに来ている」
そこで言葉を切って台所の窓から外を見た。
「端的に言うと、私を殺せばお前も死ぬ」
おい今なんつったこの人。
「もし私がお前に害されたり、或いは病を発症したりしたら、この館に火をかけて一切合財を焼き払って清めるように命じてある。心がけ次第では、お互いがお互いの、今生最後の話し相手になるというわけだな」
どや顔だった。
いやいやいやいや、何やらかしてんですかこの人。やっとまともに会話できる相手が来たと思ったら、ある意味一番の危険人物じゃないですか。この世界には尖りきった人間しかおらんのですか。
というかあの兵隊さんたちは現地解散してたわけじゃなく、その下準備に取り掛かっていたのだな。
「まあそう怯えるな。明朝私が無事であれば、お前に危害を及ばぬようにきちんと取り計らう」
俺の世界だとそれ、マッチポンプって言うんです。
「……あ」
そしてこの辺りで姫様、ようやく俺のじと目に気付いた。はっと我に返ったか、取り繕うような咳払いをひとつ。
うん分かった。この人あれだ、考えだけ先行させて時々空回るタイプだ。
「違うんだ。気が緩んで言わずもがなを言った。お前を威圧するつもりはなかった。私もそれなりに考えてこの場に赴いているのだから遠慮も会釈も無用だと、そう伝えたかったのだ」
予想以上にわたわたとする姫様と、「気が緩んで」の言葉に免じて、全部流しておく事にした。
当たり前だけれども、俺だけじゃなく、姫様だって緊張していたのだ。でもってそれを緩めたという事は、俺を信用してくれたって事である。その辺り素直に嬉しい。
「きちんと追って話す。聞いてもらえるか」
「どうぞ」
促すと、姫様はありがとうと会釈する。
「まず我々は、お前の事をよく知らない。それを認識して聞いてもらいたい。現在、アンデールの王都は混乱の只中にある。町外れにあるザカーリ・ミニオンの私邸に病魔が現れ、それが死病を振り撒いたからだ。その恐ろしさはたちまち噂になって、今やこの館に近づく者は皆無だ。どうすれば病の流行は終わるのか、どうすれば病魔はいなくなるのか。そればかりが巷では取り沙汰されている」
ぐふ。
自分でも悪役ポジションだなと思ってはいたけれど、想像以上に世間の風は冷たかった。ほんの二三日の間ながら、俺の持ち込んだ風邪は随分辣腕を振るったと見える。
姫様はオブラートに包んでくれたわけだけども、一般市民が俺に対して、「早くあいつ退治されればいいのに」と考えているのは明白だった。嫌だなあ。
でも俺もいきなりわけわかんない奴が来て疫病が流行したら、「アイツ早くいなくならないかな」って思う。絶対思う。
「だから私はお前を、飾り物として手に入れたい。飾りと言っても実用するそれだ。私はお前の虚名を利用したい。領家の長女たる私が、異界の病魔を抑え、配下として従えた。そういう構図を仕立てあげて、民心を慰撫したい」
何か今、気になる文言が聞こえた気がした。
でも口を挟むのも何なので、ひとまずスルー。
「死病の主が跪いて臣下の礼をとったと喧伝すれば、病に対する不透明な恐れのおおよそは払拭できるだろう。一番良くないのは得体の知れないものへの不安だ。まずは落ち着かせ、それから実際の対処に移るのがよいだろうと考えている」
姫様は視線を戻して、真っ直ぐに俺を見た。
「だが私はお前をよく知らない。本当に信頼できるのか、本当に無害なのか。その他にも諸々とあるお前の事を、私はまるで知らない。つまりこの一晩は、お前を見定める時間という事になる。喫緊の事ゆえ短いが、な」
あー、この物言いって、やっぱりそうだよな。
立て続けの疑念だったので、「はい先生」と俺は挙手。
「ふたつ、質問いいですか」
「ああ、構わない」
「じゃあひとつめなんですけど。姫様、俺の事誰ぞから聞いてたりします?」
気になったのはそこだった。
家族から引き離したと詫びてきたり、まるで俺が無能力な一般人と既知のように「虚名」と言ったり、飾り物扱いしたり。他にも思い返してみると各所で、姫様は俺がこっちに来た経緯を知っているような口ぶりをしてるんである。
問うた途端、姫様は満足そうに口の端で笑んだ。あ、これ気づくかどうか測られてたのか?
「そうだ。俄かには信じられない話だったが、お前がこちらに引き込まれた理由と為人について、私は聞き及んでいた。ミニオン卿からお前について記された書状を頂戴したのだ」
あーあーミニオンさん、ミニオンさんね。
ミニオンさんから報告が行ってたのか。じゃあしょうがないな参ったな。ミニオンさんじゃあなあ。
「いや誰ですかそれ」
重ねて訊いたら、姫様は「あれ?」という顔をした。
「親しいわけではなかったのか?」
「はい、まったく」
「ザカーリ・ミニオンはこの館の主だ。白い髪に、こう、長く顎鬚を蓄えた」
姫様の手真似で分かった。ピンと来た。
「ああ、あのエロ爺ちゃん!」
「えろ……」
姫様、絶句。
しまった。爺ちゃん実は偉い人っぽかったし、ちょっと無礼が過ぎただろうか。
「まあそうだ、多分その老人だ」
ちょっと背中に冷や汗をかいたが、こほんと咳払いをしただけで、姫様は何事もなかったかのように話を進めた。
「ミニオン卿は書状の中で自らの行いを告白し、お前の助命を要請していた。彼は長く法王府代行の席にあった男だが、悪く言えば権勢欲の強い俗物だ。利にならず他人を庇う真似はしまい。それが己の命を脅かした相手ともなれば尚更だろう。地位と名誉と財産を備えた人物だが、そうした善性の持ち合わせはなかったはずだ。であるのに彼は自身の非を認め、わざわざお前の事を嘆願している。どうも不可思議な事態で、私がお前に興味を抱いたのはそこからだ。ハギト。お前は一体、彼に何をした?」
と、言われましても。
うーん、本当に俺には何をした記憶もない。長くまともに話したのは風邪の対処の話をした時だけだし。
むしろなんでそこまでしてくれたのか俺が知りたい。
「まあいい。それは置こう。とまれミニオン卿はお前を理性的で友好的な紳士だと賞賛していたぞ。お前が教授したという感染拡大を防ぐ手はずも、そのまま私に伝えてきた。館と関わりがあった者たちの殆どは身柄を確保し、隔離してある」
いやそれは結構な事なんですけども。
どうも俺、いつの間にか滅茶苦茶評価されていたらしい。でもなんというか身の丈に合わない褒められ方で、凄く座りが悪い。
「それはそうとしてですね。もうひとつもいいですか」
「遠慮は不要だ」
「それじゃあですけど。自分で訊いといてなんなんですが、『俺を見定めに来た』っていう目的の、俺にバラしちゃってよかったんですか? そうと知って猫被って、本性隠そうとするかもしれませんよ?」
「問題ない」
答えて姫様は、いい姿勢のまま胸を聳やかした。ああもう、目のやり場に困る。
「もしお前に、我々を歯牙にもかけない圧倒的な力があるならば、ここに長く籠もる必要はない。蟻でも潰すように周囲を一蹴して、好きなように振る舞えばよいのだから。それをしないという事は、お前が力による威圧を好まないか、力はあるが圧倒的ではない。或いはそもそも力が弱いのだと考えられる。いずれの場合でもこの状況から、お前は交渉の余地がある相手だとは類推できていた。そこにミニオン卿の書状と今の会食までを重ねれば、見定めとしては充分過ぎるほどだ。確かにミニオン卿の言う通りだと、私も結論したところだよ」
むむむ。
そんなに信頼してもらえるような言動を、俺はとっていただろうか。
我が事ながら疑問である。むしろみっともないとこ見られ通しで、恥ばっかかいてたような気がするのだけども。
「すみません、聞いてるうちに引っかかったんで、もうひとつだけ質問させてください」
俺的には、今度のはかなり真面目な質問。
なのでじっと強気に姫様の顔を見た。
「仮に『もう病気は大丈夫です』って演出する為に俺が居たら便利だとしても、それでも状況の類推とか爺ちゃんの手紙とか俺の事情とか、そういうの全部無視して俺を退治しちゃうのが色々と楽ですよね? 自分が危い橋を渡る必要も、俺を信用できるかどうか見極める手間もないですし。『悪い奴と平和条約を結びました』より『悪い奴はやっつけました!』の方が盛り上がると思いますし」
「ああ。確かにその方が楽だ。安全で簡単で確実だな。親しい者を病で亡くした者たちも溜飲を下げるだろう」
「なら、」
「私がしたくなかったからだ」
なんでそうしなかったんですか、と言う前に、姫様の回答が滑り込んだ。
「言ったろう? 私はお前の経緯を聞き及んでいる。迷惑をかけたのはこちらで、被ったのはハギト、お前であると私は知っている。であれば、手をついて手を伸べて手を尽くすのは、当然の事だよ」
言い終えてから、少し微笑んだ。いつもの不敵な笑みではなく、どこか含羞むようだった。
交渉術とか話術とか、その手の心得なんて一切ない俺だけど、今の姫様を見ればはっきりと分かった。
ああ、これ本気だ。
社交辞令とか巧言令色とかじゃなく、これ以上ないくらい単純かつ明快に、俺が困ってるからという理由で、それだけで助けようとしてくれている。
参ったなあ、と思った。
確か俺が小学校の中程くらいの頃だったろうか。兄貴が唐突に戯言を語った事がある。
曰く、ヒーローの条件とはただふたつきりである。
ひとつは「その時そこに居る事」。もうひとつは「何かしようと思える事」。
「どんなに凄くたって、間に合わなければ意味がない。どれだけ強くたって、気持ちがなければ価値がない。だから肝心なのはそのふたつだ。そのふたつだけで、後は全部、あれば便利なただのおまけだ」
言葉だけは印象深く記憶に残っているけれど、何故だかその時の兄貴の顔を、俺はまるで覚えていない。
見返りだとかを考えてじゃなく、ただ純粋に俺を助けてくれようとしてくれる姫様は、まったくもってそれだった。無償の善意の象徴、正義の味方としてのヒーローに見えた。
いや、本当に参った。白旗揚げて降参だ。
本気でこんなふうに言えて、そして後悔なく笑えるのは、ひどく格好いい事だ。
「これで、答えになったか?」
「はい。この上なく」
よく分からない場所にいきなり喚ばれて、よく分からない状況に振り回されて、よく分からない悪名が立って。
分からない尽くしのこの世界だけれど、この姫様が信用できるって事だけはしっかりと分かった。それだけは確かだと、心から思えた。