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病は君から  作者: 鵜狩三善
風邪引きの朝
1/104

1.

 膨らんだ財布が悪いのではない。

 空の財布が悪いのだ。


               ──ユダヤのことわざ






 今年の風邪は(たち)が悪い。

 かかってから発症までがとにかく早くて、ひどく高い熱が出る。人によっては比喩抜きで、ガタガタ震えたり譫妄(せんもう)状態になったりまでするらしい。お年寄りだと命に関わるくらいになったりするらしい。

 感染力も強いので、うがい手洗いをしっかりしましょう。

 などと騒がれているのは承知していたのだが、それが我が身に及ぶとは、人間なかなか思わないものである。

 恥ずかしながらこの俺も、そんな迂闊(うかつ)な人種の一人だった。

 とはいえ朝、起き抜けは「ちょっぴりぼーっとしてるかな」程度で、体調は然程(さほど)悪くもなかったのだ。

 でも俺の顔を見るなり兄貴が、


「ハギ、顔色悪かないか?」


 などと言ってきたので、やっぱり自覚症状がなかっただけかもしれない。

 いや大丈夫と手を振って食卓についたら、後からやって来た杏子(きょうこ)が俺の額に手を伸ばした。もう片方を自分の額に当てて、熱測定の格好をする。


「んー、ちょっと熱っぽいみたいだけど。ハギ(にい)、ほんとに大丈夫?」

「大丈夫に決まってるじゃない。バカは風邪ひかないのよ」


 大丈夫大丈夫と答える前に割って入ったのはおふくろである。実の息子に対してなんたる言い草か。


「母さんそれ、風邪引いてても馬鹿は鈍いからそうと気づかないって意味だぞ」

「あらやだ知ってたわ」


 兄貴のツッコミをしれっと受け流す母。ちょっと言葉の意味が分かりません。


「あとハギ兄の事バカってゆーな」

「なによー、愛あればこその物言いじゃない」


 おふくろとやりあいながら、杏子も俺から手を離して席に着く。

 できるだけ家族揃って朝食夕食、それが新納(にいろ)家の家訓である。

 我が家の女性陣、つまりおふくろと杏子は揃って朝が弱い。よって朝食と弁当の支度は、週替わりで俺と兄貴の担当である。その代わり夜と食材自体の買い出しは、おふくろと杏子にお任せだ。

 そしてこんな話をすると勘違いされがちなのだが、俺はそんなに料理ができるわけじゃない。基本は夜の残りの再利用と冷凍食品である。男料理万歳。


「イナ兄、お醤油とってお醤油」

「あいよ。って、こら母さん、新聞やめなさい。向き合って。俺の作った朝飯と、もっと真摯(しんし)に向き合って」


 とまれまあそんな次第で、今週の炊事は兄貴の番。

 どうでもいいけれど、デカいマッチョにエプロンはどきりとするほど似合わない。心臓の弱い人には致死レベルである。先月はそれで三人死んだ。いや嘘だけど。



 ちなみに新納家三兄弟は上から順に稲葉(いなば)萩人(はぎと)、杏子という。

 でもっておふくろが凛子(りんこ)。学生時代のあだ名はリンゴちゃん。酒飲むとすぐ真っ赤になるからだそうだ。ちなみに顔が赤くなるだけで、全然全くこれっぽっちも弱くない。

 余談はともかく、おふくろのあだ名まで含めれば、漏れなく植物系の名前揃いである。

 実は兄貴を命名した時点で親しい友人に、「どうせ植物シリーズで行くつもりだろう」と先読みされたのだそうな。それが悔しかったので、俺には人、杏子には子の文字を入れて誤魔化したのだとか。ちょっと行為の意味が分かりません。


「お陰で予定が狂っちゃったわ。失敗失敗」


 これである。もうホントに何言ってるんだこの人。正直フィーリングで生きてるとしか思えない。


「狂ったといえば家族計画もなのよねぇ。本当は子供一人のつもりだったんだけど、お父さんの情熱に押し切られてたら、こう、ぽろ、ぽろ、ぽろと」


 ストップ。おふくろストーップ。


「バカ親は赤裸々を語らないように。杏子の教育に悪いだろうが」

「やーねぇ、あたしがバカだったらその血を引くあんたもバカよ。バカを言うのはやめなさい。ばーかばーか」


 その時の俺は即座にツッコんだのだが、口では絶対に敵わないと思い知らされただけだった。

 存分に俺を罵ったおふくろは、挙句どこかで聞いたリズムで「バカ産んじゃった、バカ産んじゃった、バカ産んじゃったら増えちゃった」と陽気に口ずさんでいる。いや本当になんて親だ。

 居合わせた杏子は深く深くため息をついて、


「私基本的に前向きなつもりだけど、お母さんと血が繋がってると思うと時々絶望的になる」


 ですよねー。



 さて、回想はさておき。

 その後も兄貴と杏子とあと一応おふくろは俺の体調を気遣ってくれたのだが、ただでさえ時間がない朝に、俺ひとりの事にいつまでもかかずりあわせてはいられない。

 大丈夫、心配ない、問題ないと説き伏せて、風邪薬を飲んでから着替えて俺も家を出た。

 俺の通う公立高までの通学時間は、徒歩、電車、徒歩を足し合わせて40分弱。多少具合が悪くても、何とかならない距離じゃない。

 加えて同校は、兄貴の母校でもある。そして兄貴は高校三年間無遅刻無欠席の記録を持っていて、つまるところ通学の強行は、言わば小さな意地だった。

 後にして思えばちっぽけなこの意地が、俺の運命をメビウスの輪めいてねじ曲げる事になったわけだ。

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