アニメ 『千の豚』
その日の夜。俺はテーブルの前に座ってテレビを見ていた。
『七回の裏、ホームチームのラッキーセブンです。二番打者から始まる好打順、はたして生かしきることができるのか』
チャンネルはプロ野球だ。俺はスポーツの中では野球が好きでよくテレビで見ている。別に自分でプレーして上手いとかいうわけではない。ほとんど観戦専門だ。俺は野球を見るのが好きなんだ。俺はひいきのチームを応援して声を上げる。
「お、いいぞ。今の球をよく打ったな。うまいぞ!」
野球はいい。何がいいってほとんど毎日やってることだ。毎日同じようで少しずつ違うことを積み重ねていく。時には劇的な展開もあって手に汗握る。結果も毎日出るからチェックするのがとても楽しい。野球、これほど日常を感じさせるスポーツはほかにはないだろう。
「よし。今日は勝てそうだな。がんばれよ」
部屋で野球を見る俺、これは紛れもない俺の日常だ。
「だが、しかし……」
ただ一つだけ、この部屋にはいつもの俺の日常と違う部分があった。それは部屋の隅の方で一人の女の子が横になっている、ということだった。
「普通に考えればだ」
自分の部屋の中に女の子がいる。それも同年代で見た目もかわいい女の子だ。こんなに嬉しいことはないだろう。普通なら俺のテンションは上がりっぱなしで野球どころじゃないだろう。だが、今の俺はできるだけ野球に集中したい気分だった。できるだけ日常の雰囲気を味わいたい気分だった。
「なぜなら……」
この女の子は人間ではないからだ。ドラゴンだからだ。正確に言えばドラゴンの幽霊とからしくてさらに意味不明だ。見た目は完璧な人間の十代半ばぐらいの女の子で顔もいい。スタイルもよく見れば悪くない。背は低いがわりあい足は長くて、出るところも意外と出ている。ゆるいワンピースのような服を着ているので眼のやり場に困るくらいだ。しかし。
「それは偽りの姿だ」
彼女の本当の正体はでかくて恐ろしいドラゴンなのだ。現に俺はこいつに殺されそうにもなった。本人に悪気はなかったようだが俺は死にかけた。ちょっとしたことで命が危険にさらされる。こんなとんでもない生き物がそばにいるという現実から俺はなんとか眼を逸らしたかった。
「あと一回だ。頼む、持ちこたえてくれ!」
だから、俺はいつも以上に野球を見ることに集中しているのであった。
やがて、テレビのスピーカーからは実況アナウンサーのこんな声が聞こえてきた。
『時刻は九時になります。番組終了の時間ですがこのまま野球中継を延長してお送りいたします』
すると、壁際でごろんと寝ていたクファムがむくりを体を起こした。
「あ、彦馬さん……」
まだ眠たそうな眼で俺に聞く。
「九時になりましたか?」
俺は答える。
「ああ、九時になった」
こいつは言った。
「わたし、九時から見たいテレビ番組があるんです。チャンネルを変えてください」
「……は?」
見たいテレビ番組がある? なんだ、それは。俺はこいつのことなんて会ったばかりあまり知らないがかなり意外なセリフ、というか要求だな。こいつはドラゴンのくせにテレビを見るのか。わからないものだな。ほんと、中身も人間そっくりだ。
クファムは続ける。
「今日はアニメの映画があるんです。スタジオジドリの『千の豚』っていうのが。わたし、これをものすごく楽しみにしていたんです。絶対に見たいんです」
しかも見たいのはアニメ映画かよ。ますます意外だな。しかし、俺もいきなりそんなことを言われても困る。だって俺は今、野球を見ているんだ。野球に集中してるんだよ。
「…………」
俺が黙っているとクファムは怒ったように、
「もう。早くチャンネルを変えてくださいよ。始まっちゃうじゃないですか!」
ふざけるなよ。なんで突然俺の部屋に住みついたやつなんかに俺がテレビのチャンネル権を譲らないといけないんだ。当然俺は拒否する。
「いやだよ。チャンネルは変えない。俺はこのまま野球を見る」
「そんな! 野球なんてどうでもいいですよ。『千の豚』をわたしと一緒に見ましょうよ、彦馬さん」
今は野球の試合が勝つか負けるかの一番いいところなんだ。ほかの番組に変えるなんてもってのほかだ。俺はテレビから目を離さずに言う。
「いやだ。絶対に変えない」
だが、クファムの方も引かない。俺のそばまでやって来て、
「どうしてですか! どうして変えてくれないんですか。まさか彦馬さんはあの名作『千の豚』が面白くないなんて言うんじゃないでしょうね? それならわたし、あなたの人格や人間性を疑いますよ?」
……なんでたかがアニメ一つを見ないだけで俺はそこまで言われにゃならんのだ。それにいちおう言っておくが俺も『千の豚』は見たことがあるし好きな映画の一つではある。
「『千の豚』は面白いと思うし俺も好きだ。だけどな……」
俺は説明する。
「この映画ならしょっちゅう同じ枠で再放送をしてるじゃないか。一年に一回ぐらい。俺だってもう二、三回は見てる。ついついやってると見てしまうからな。だから、今回はもういいよ。今回は『千の豚』は見ない。さすがにもう飽きてきた。俺はこのまま野球を見たいんだ。今、いいところなんだ。邪魔をしないでくれよ」
まだ反論する彼女。
「何を言っているんですか、彦馬さん。『千の豚』は名作中の名作です。何回見ても素晴らしいものは素晴らしいじゃないですか。野球とは全然くらべものになりません。早くチャンネルを変えてくださいよ、もう!」
ついに俺は怒鳴った。
「なんだよ、おまえ! テレビならどっかよその家に行って見ればいいだろ。おまえはどこの家にでも入れるんだろうが!」
言われて彼女は一度は納得しかけた様子だったが、
「そ、それはそうですけど……」
また、俺の顔を強く見て言う。
「やっぱりいやです。わたしはここで、彦馬さんの部屋で見たいんです。ほかの家なんかには行きたくないですねっ」
なんだよ、それ。勝手なやつだな。
「うるさい。妙なわがままを言うな。テレビならよそで見ろよ!」
もう一度、怒鳴る俺。するとクファムは、
「うう、だって……だって……」
大きな両目に涙の球を浮かべ始めて、
「わたし、彦馬さんと……うう、一緒に……彦馬さんと、うう……」
まずい! 俺はクファムの様子をみて悟った。
「おいおい。もしかして……」
こいつ、また泣くつもりだ! こいつが泣くとどうなってしまうかは俺はすでに体験している。文字通り体を張って体験している。あの恐怖が俺の脳裏にありありとよみがえってくる。
「おい、クファム! 泣くな。頼むから泣かないでくれっ!」
俺は慌てて言った。
「わかった。わかったから泣くな、クファム。テレビのチャンネルは変えてやる。おまえの好きなところに変えてやる。『千の豚』だったな。よし」
俺はすぐさまテレビのリモコンを手に取り、
「ほら、チャンネルを合わせてやったぞ。ちょうど今始まったばかりのところだ」
すると、
「え? あ、ほんとだ」
視線をテレビに移すクファム。
「わあ! 始まった、始まった!」
今まで泣きそうだったのが嘘のように一瞬でぱっと顔が晴れるクファム。
「わたし、本当に楽しみにしてたんですよね~、この番組。無事に見ることができてすごくうれしいです!」
パチパチパチとテレビの前で拍手をする。
「あっ。主人公のピルコが出てきました。かっこいい!」
それからは食い入るようにこのアニメ映画を見始めたのだった。
「……なんなんだよ、こいつ」
俺はあきれてクファムの後ろ姿を見る。本当に無邪気というか単細胞というか。ドラゴンというのは思ってたよりも精神年齢が低い生き物なんだな。始めて知ったぜ、そんなこと。まあ、俺としてはこいつがまた泣き出してドラゴンの姿に戻らなかっただけ良かったと思うべきか。
「…………」
いや、決して良くはないか。俺はこうして楽しんでいた野球中継を突然変えられて、見たくもないアニメ映画にテレビ画面を占領されているわけだからな。いきなり俺の部屋に住みついたやつがいきなり俺のチャンネル権を強奪しやがった。クファムのやつ、ふてぶてしいにもほどがあるぜ。
「はあ~。やってらんねぇよ、まったく。まあいい。こうなったら俺も『千の豚』を見るとするか」
俺はしょうがないので仏頂面でテレビに目を移したのだった。
『小僧、おまえは今なんと言った!』
テレビの中では豚の顔をした人間の主人公が怒りをあらわにしゃべっている。
『いいか小僧、豚肉はポークだ。チキンでもビーフでもねぇ。ポークだ。小僧、二度と間違えるな!』
それを見てクファムは、
「出ました、名ゼリフ! 『豚肉はポークだ。チキンでもビーフでもねぇ。ポークだ』。最高です。何度聞いてもこのセリフにはしびれますね!」
しびれねぇよ、そんなもん! それのどこが名ゼリフなんだよ。わけわかんねぇな、こいつのセンスは。それともこのアニメのファンというのは概してこういうもんなのだろうか。いまいち俺には判然としないな。
相変わらずクファムは、
「また出ました、名ゼリフ。『みんな、だまされるなっ。これはトリュフではなく爆弾だ!』。最高です。最高すぎます。作者の豆崎うまお先生はほんとに天才ですよね」
そんなことを言いながらはしゃいでいる。
「……もう勝手にしてくれ」
俺は一人テンションの高いクファムを横目にうんざりしながらこのアニメを見るのだった。
二時間後。
『千の豚』はとうとうクライマックスのシーンを迎えていた。
『ピルコ! あなた、顔が元に戻ったのね!』
呪いの料理かなんかの影響で顔が豚になってしまっていた主人公のピルコ。彼はようやく人間の顔を取り戻すことができたのだった。
『ああ。やっとこれで豚の顔ともおさらばだ。長かったぜ。しかし、まさか呪いを解く方法が千の豚肉料理を作ってお客様を満足させることだったとは……』
『何はともあれよかったわ。あなた大好き!』
抱きあうピルコとその恋人かなんか。そして、スタッフロール。名作アニメ映画『千の豚』はこうして幕を閉じたのだった。
「すごい! めちゃくちゃ面白かったです!」
テレビの前でいっそう大きく拍手をするクファム。
「このアニメは何度見ても何度見ても感動ですね。ピルコは人間に戻れてほんとによかったです。恋人のピーナとは末永く幸せに暮らせることでしょう。ほんとよかったです!」
それからクファムは、
「うう、わたし……また感動して……感動して……」
顔をゆがめて、
「うう、涙が……涙が……」
いきなり眼から大粒の涙をこぼして、
「おいっ。おまえっ?」
俺が止める間もなく大声で泣き始めたのだった。
「うわーん!」
「結局、泣くのかよ!」
俺は体が変化し始めたクファムを必死になって落ち着かせなければいけないのだった。




