混乱の出会い
「――あなたは――」
どこかから声が聞こえてきたような気がした。
なんだ? 幻聴か? それとも俺はもう死んでしまったとか。
俺は相変わらず眼を閉じて体をこわばらせている。またそこへ。
「――あなたは――」
同じ声だ。今度はよりはっきりと俺の耳に聞こえてきた。
どういうことだ? 俺はまだ生きている? 誰の声だ?
「――あなたは――もしかして――」
声。女性の声だ。しかも若い女性の声だ。
俺はうっすらと眼を開けてみた。眼前にはやはりドラゴンの顔があった。
「ひいっ、食われるっ!」
俺はとっさに両腕で顔を覆う。
「…………」
だが、何も起きなかった。しばらく俺はそうしていたが何も起きなかった。数十秒、一分と時間が過ぎていく。俺は無事なままだ。手も足も頭も付いたままだ。俺はそっと腕の間からドラゴンを見てみる。ドラゴンに動きはない。なぜかドラゴンは俺に対して何もしてはこないようだった。
こいつ、俺を食おうとしてたんじゃないのか? 俺をどうするつもりだ? それにあの女性の声はなんだったんだ?
引き続き俺はドラゴンの様子を見てみる。ドラゴンはほとんど動かずに俺の前に立っていた。俺に襲いかかってきそうな気配は不思議とないようだった。ただただドラゴンは赤い両眼で俺のことをじっと見ていた。そしてまた、例の声が聞こえてきた。
「あなたはもしかして……わたしの、ドラゴンであるわたしの姿が見えるのですか?」
「……え?」
俺は再び混乱する。
「……ドラゴンであるわたし?」
俺はドラゴンの顔を見る。人間とは似ても似つかないハ虫類と鳥類の間のような顔。とても人間の言葉を話すことができるとは思えない。
そんな馬鹿な。いやでも、ここには女性の姿なんてどこにもないし。それに不思議とこのドラゴンからは知性のようなものは感じ取ることができる。ファンタジー世界のドラゴンも高い知性を持っているという設定が多い。ちょうどそんな感じだ。あのワニのような口で人語を発せられるとは到底思えないが、もともとドラゴンなんて俺の理解を超えた存在なんだ。これ以上何が起こってもおかしくはないかもしれない。
そんなことを考えながらちらちらとドラゴンの顔に眼をやる。するとドラゴンの口が少し動いたようだった。それから声。
「そう。あなたの前にいるドラゴン、それがわたしです」
俺の心を読んだかのような言葉。
「わたしがあなたに話しかけているのです」
「……やはりそうなのか」
どうやら俺の考えは間違っていなかったようだ。俺はやっと理解した。というよりドラゴンの今の発言をぎりぎりで受け入れることができた。この声は目の前のドラゴンのものだ。ここにはドラゴンのほかは誰もいない。このドラゴンが俺に話しかけてきていたのだ。
「……でも、そんな」
ただ簡単に、へぇーそうなんだ、と納得できることではない。この凶暴そうな生き物が言葉を話すことができるなんて。まして若い女性のような声が発せられているなんて。
「…………」
俺にはしばらく呆然とする以外なかった。やがて。
「もう一度、聞きます」
ドラゴンはそんな俺を見ながら言った。
「あなたにはわたしの姿が見えているのですね?」
穏やかな口調で問いかけるドラゴン。声だけで判断するなら威圧的でも恐怖心をかき立てるようなものではない。むしろ丁寧なくらいだった。もしかしたら本当にこのドラゴンは俺を食うつもりはないのかもしれない。俺はなんとか混乱した頭を働かせようとする。
このドラゴンは何か俺に質問をしてきたようだったな。えーと、なんだって? 自分の姿が見えるか、だったかな?
にわかには意味のわからない質問だった。
こんな巨大で恐ろしい姿をしたものが見えないわけないじゃないか。で、でも、とりあえず質問には答えないとな。怒らせては大変だ。その瞬間に俺の人生はジ・エンドだ。牙でも爪でも使って一秒もかからずに俺の体を引き裂いてしまうだろう。えっと、質問、質問は自分の姿が見えるか、だな。
「あ、ああ。も、もちろん。俺にはドラゴンの姿がはっきりと見える」
俺はコクンコクンと何度もうなずいた。
「……そうですか。本当にそうなんですね」
ドラゴンは俺のしぐさを見て言った。
「信じられません。まさかわたしのことが見える人間が存在するなんて。今までの人類の歴史の中でそんな者は一人もいなかった」
信じられない。もう一度、つぶやくようにそう言うドラゴン。相変わらず俺には何のことかさっぱりわからない。
信じられないだって? それはこっちのセリフだ。何から何まで信じられないことばかりだ。俺は夢でも見ているんじゃないのか。いいや、いっそこれが全部夢ならどれだけ幸せなことか。恐ろしいこともすべて目が覚めておしまいだ。本当に命の危険にさらされることなんてない。しかし、現実はいきなり現れた怪物に凄まれて俺の命は風前の灯火だ。どういうことなんだ、これは。誰か説明してくれよ、頼むから。
思わず頭を抱える俺。そんな様子の俺を見てかドラゴンが口を開いた。
「あのー、大丈夫ですか? あ、そっか。そうかそうか。あなたには今起こっていることがすべて何が何だかわからないんですよね。これはごめんなさい。わたしが悪かったですね。わたしからちゃんと説明しなきゃいけないですよね」
「へ?」
思わず顔を上げる俺。なぜならドラゴンがとても慇懃で、しかもどことなくフランクな口調で俺に話しかけてきたからだ。何というか、まるで久しぶりに会って近況を報告する知り合いのような口調だ。
「えーと、ですね。まず何から話そうかな……」
しかも、その声音はと言うとまるっきりの十代の女の子。見た目とのギャップが激しすぎる。 なんだよこれ? いろいろとわけがわからなすぎて、もう頭がおかしくなりそうだ……。
いや、たぶんもう俺の頭はおかしくっていたんだろうな。延々と続くこの奇妙な状況に際して。なんと俺の方も目の前にいる化け物にむかって普通に話しかけた。
「あの……その……」
「あ、はい。なんでしょうか?」
「おまえは、いったいなんなんだ? いったい何者なんだ?」
「ああ、そうですよね。じゃあまず、わたしのことから話しましょうか」
普通に会話する俺とドラゴン。今になって冷静に考えれば俺はドラゴンのことを「おまえ」なんて呼んでいる。この瞬間に俺は食い殺されていてもおかしくはなかったが、このときの俺は本当にどうかしていた。ドラゴンの声や口調の感じからついこっちも普通の人間と話をするような感覚になってしまった。
「わたしの名前は……えーと、日本語だとどういうんだっけ? そうだ!」
だが、ドラゴンはそんなことは微塵も気にした様子はなく、どこからともなく発せられるかわいい声で答えた。
「わたし、クファムっていいます」
「ク、クファム?」
「はい、そうです。わたし、ゴーストドラゴンです」
「ゴ、ゴ~ストドラゴン?」
「はい、そうです!」
バイトの面接をしているかのように元気に答えるそのクファムとやら。俺の顔の前に置かれた巨大な口がぐわっと開きずらりとならんだ凶悪な牙が姿を見せる。
「ひえーっ」
俺は反射的に後ろへとへたり込む。それを見てクファムは、
「あれ? どうしたんですか、そんなに驚いて?」
さらに俺に近寄ってくる。
「ひえええーっ! 寄るなっ、いや寄らないでくれ! た、頼むっ」
「え? はい、それはいいですけど」
必死に後ずさる俺にクファムは歩を止める。それから言った。
「でもあなた、なんでそんなにわたしのことを怖がっているんですか?」
「な、なんでって、決まってるじゃないかっ」
こんな異常な生物を前にして怖がらない人間は絶対にいないだろう。失神とかしていないだけ俺はまだ頑張っているほうだろう。しかし、それが理解できないのか、
「いや、わたしにはわかりませんけど……」
人間のように首を傾げるドラゴン。それから明るい声でまた言った。
「あっ。そうですよね。それは怖いですよね、わたしの姿。なんたってドラゴンですもんね。人間より大きいし羽とか牙とかあるし。これはうっかりしてました。いけない、いけない。てへっ」
ごまかすように舌を出すドラゴン。
「…………」
よくわからないが、このドラゴンは自分の姿に自覚がなかったようだ。クファムは弁明するように言う。
「あなたを怖がらせたのは悪いと思いますけど、わたしだって驚いているんですから。この状況に。あなたみたいな人に会ったことに」
「……はあ」
「わたし、自分の姿に人がどんな反応をするかなんて今まで考えたこともなかったんですよ。だって今までにわたしの姿が見える人間、いや地球の生物なんてまったく存在しなかったわけですから」
「……え?」
このドラゴン、今何か妙なことを言い出したようだが。俺はなんとか立ち上がりながら聞く。
「姿が……見えない?」
そういえばさっきもこのドラゴンはそんなことを言っていたな。自分の姿が見えるかとか見えないかとか。クファムはさも当然といった口調で答えた。
「はい、そうですよ。人間はおろか、どんな生き物もわたしの姿を見ることはできません。わたしのことがわかる生き物がいたとしても、かろうじて存在を感じることができるというぐらいのものでしょう。あなたのようにわたしの姿が見える、それにわたしの声が聞こえるなんて生き物はほかにはいませんでした。今までの地球に。少なくともわたしが生まれた一億年前からは」
「う、うーん……」
今までの地球とか一億年とか言われても全然ピンとこないわけだが、クファムの言うことが本当だとしたら普通の人間にはこのドラゴンの姿は見えないということか。
「確かに……」
言われてみればこんなのが平然と辺りをうろついていて問題にならないはずはないだろうし。テレビとか雑誌とかでも大騒ぎにならないはずはないだろうな。俺は少しずつ状況を整理しようと考える。
「……そうか。みんなには見えないのか」
俺のつぶやきにうなずくクファム。
「そうです。それに触れることもできません。生物だけでなくほとんどの物質をわたしの体は通り抜けてしまいますから。この地球上のほとんどのものからすればわたしは存在しないも同然なんですよね」
その話を聞いて俺はうなりながら考える。
「……うーむ、なるほど」
いまさら言うまでもないことだが、どう考えてみてもこのクファムとやらの存在は異常だ。常人にはとても理解することはできない存在だろう。しかし俺にとってはそこまでではないかもしれない。常人には見ることができない、触れることができない、このような存在には俺は慣れてしまっている。そう、幽霊だ。幽霊も似たような特徴をもっている。このクファムとやらももしかしたら幽霊のようなものなのかもしれない。
そう言えばさっき自分のことをゴーストドラゴンとかなんとか言っていたな。ゴーストと言うからにはやはり幽霊なのだろう。よく見るとこのドラゴン、足やしっぽの方はぼんやりと半透明になっている感じだ。これも幽霊の特徴だ。
これらことがわかると俺は不思議とこのクファムに対する恐怖や驚きは薄らいでいった。
「おまえは……幽霊みたいなものなのか? 例えば動物霊みたいな」
いちおうそう尋ねてみると、
「し、失礼ですね、あなた! わたしを動物霊みたいな低俗なモノと一緒にしないでください! わたしはこれでも非常に高度な技術で保たれている幽霊なんですから!」
大きく口を開けて声を荒げるクファム。
「ひいいいっ、す、すみませんでしたっ!」
慌てて謝る俺。理由はよくわからないがどうやら気を悪くさせてしまったようだ。
「許してくださいっ、許してくださいっ!」
ドラゴンの迫力に俺は反射的に体を縮み込ませる。
「あっ、いえいえ。こちらこそごめんなさい」
するとクファムはまたすぐに穏やかな声で言った。
「またあなたを怖がらせてしまいましたね。わたし、そんなつまりはまったくなかったんですけど……」
クファムは自分の体に眼を落としながら、
「困りましたね、このわたしの姿。これではまともにあなたと会話を続けるのは難しいみたいですね」
「……はあ、そうですか」
また頭を上げてクファムを見上げる俺。俺としてはなんかもう会話とかどうでもよくなってきたんだが。早くこの恐ろしい状況から抜け出したい。その一心だ。
「何かいい方法、ないですかねぇ」
そんなことよりできれば早くどこかに行ってもらいたいよ。俺の気も知らずに何かずっと考え事をしている様子のクファム。
「あっ、そうだ!」
やがて、突然声を上げた。
「わたし、いいことを思いつきました!」
大声に体をびくっと震わせる俺にクファムは続ける。
「あなたが今のわたしの姿が怖いっていうのなら、わたし、この姿を変えようと思います」
「姿を……変える?」
「はい。わたしは元の肉体が死んでしまったあとに魂とエネルギーを人工的に抜き取って作られた幽霊なんです。そして、この幽霊の体は精神的なイメージでできているんです。だから見た目は変えようと思えばある程度は変えることができるんですよ。いわゆる変身です。どうでしょうか、このアイディア。素晴らしいと思いませんか?」
なにやら嬉しそうな声音で言うクファム。俺には何が何だかさっぱりわからないし、かなりどうでもいいことなので適当に相づちを打つ。
「ま、まあ、そうしてもらえるなら、ありがたくないこともないんだけど……」
「はい、わかりました!」
俺の返事を聞いてなにか翼をバタバタさせたりと意気込んだ姿勢を見せるクファム。話から察するにどうも見た目を変えるらしい。いきなりドラゴンが現れたかと思ったら今度は変身するとか言いだし始めた。もう何でもありだな。いわゆるバーリ・トゥードだな。こいつは超常現象の総合格闘技かよ。
「少し待っててくださいね。今がんばって精神集中とかしてますので」
「……なんだかなぁ」
いや、本当に見た目とかどうでもいいんだけど。それより俺のことはもう放っておいてくれよ。そんなことを思いながら仕方なく俺はもしもの場合に備えるつもりで身を固くして成り行きを見守る。
「では、いきます。えいっ!」
すると、ドラゴンの巨大な体がすべて光に包まれ始めた。俺の目の前で大きな光の塊が生まれて、俺はとっさに顔を腕で覆う。
「うおっ。な、なんだっ?」
だが、すぐに光は収まったようだ。そして、クファムの声が聞こえてきた。
「あ、もういいですよ。変身、完了しました」
腕を下げる俺。とりあえず前を見ると、
「へあっ?」
俺は思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。なぜなら俺の目の前からは巨大なドラゴンの姿が消え去って、
「どうです? かわいいでしょ、この姿」
代わりに一人のにっこりと微笑む少女の姿があったからだった。




