第80話 ただいま
――魔界首都ロイゼンハウエル。
瓦礫の街と化した故郷を、レヒトは重い足取りで進んでいた。
仲間との再会に胸を躍らせていたレヒトにとって、変わり果てた故郷の惨状は、覚悟はしていたとはいえ、やはり見るに堪えないものだった。
この街にも、かつては多くの人々が、ささやかながらも幸福に暮らしていたのだ。人々は記憶をなくしたレヒトにも優しく、レヒトはこの街を故郷と思い定めて生きてきたのに。
その痕跡は、もはやなにひとつ残ってはいなかった。
黙々と歩き続けていたレヒトが足を止める。ロイゼンハウエル北部、広大な敷地に散らばる瓦礫の数々。崩れた壁や柱の残骸。
「ここがロイゼンハウエルの城跡地……俺が住んでいたのもここなんだ」
そう声に出して、レヒトはそっと目を閉じた。
この街のどこかで、仲間はレヒトを待っているという。とりあえず街を回ってみたが、ほとんどの建物は原型すら残さず倒壊し、どこになにがあったのかさえわからなくなっていた。
廃墟と化したロイゼンハウエル――人の姿など見えないこの街で、仲間は一体どこにいるというのか。
「レヒトさん。……聞こえませんか?」
ミオが声を落とし、囁く。レヒトも耳を澄ますと、確かに、なにかが軋むような音が聞こえた。
「……建物が軋むような……」
周囲にある残った建物は、いつ倒壊してもおかしくない状態である。その音だとすれば、不思議はないのだが。レヒトは直感的に、そうではないと感じていた。
「……なにか変です。崩れ落ちるのではなく……押し上げているような……」
その言葉と重なって、倒壊した城の瓦礫が、内側から吹き飛んだ。
衝撃で二人の身体も跳ね飛ばされるが、空中で体勢を立て直し、少し離れた場所に着地する。
「魔物、か」
突如現れた魔物を見据え、レヒトはリーシェンより与えられた剣、ホーリィ・クロスを抜き放った。
現れたのは、三頭の四足獣だった。その身体のあちこちから、鞭のような長い触手が伸び、怪しく蠢いている。
二人を捉えたらしい、三頭の魔物が咆哮する。風を裂き、魔物の触手が二人を襲った。
わずかにタイミングをずらした連続攻撃を、レヒトは後ろに跳び、剣で打ち払ってなんとかかわす。触手の数本を切り落とすも、それは微かに震えるとあっさり再生した。
隙を見て、後ろに下がりつつあったレヒトは体勢を低くし、逆に魔物に向かって突っ込んでゆく。
執拗に迫る触手を数本切り落とし、魔物の本体を間合いに捉える。
剣が魔物を裂く寸前。
レヒトのほうを向いたひとつの頭が、口から炎の弾を吐き出した。
「!」
閃光と爆音。吹き飛ばされたレヒトは幾度か大地を転がるが、すぐに身を起こす。
追撃をかけてきた触手は、駆け付けたミオの振るう刃に切り落とされた。
「レヒトさん……!」
心配そうに声をあげるミオに、レヒトは大丈夫だと片手をあげて見せた。
「……触手を攻撃しても、無駄なようですね」
「あぁ。だが、あの様子では迂闊には近寄れない。……なにか手は……」
その時――レヒトの耳に、鎖が触れ合うような音が聞こえた。
「少し、下がっているんだ」
かけられた声に、二人が反応するよりも早く。
軽い破砕音とともに、魔物の頭が真横に吹き飛んだ。それも、すべての頭がほぼ同時に、だ。
一瞬、視界を掠めた銀の鎖に、レヒトは目を見開いた。
(鉄鎖鞭……!)
その名の通り、鉄製の鞭の先端に小さな刃を付けたもので、相手を打ち据えてダメージを与えるという武器である。単純なようだが扱いにはかなりの熟練を要する武器で、手練れた者が使えば、先程のように凶悪なまでの威力を発揮する。
――この武器を得意とする者を、レヒトは一人だけ知っていた。
「いつかは戻ってくると信じていたよ」
地響きを伴い、大地に沈んだ魔物の身体の向こうから聞こえる、懐かしい声。
右手に魔物を倒した鉄鎖鞭、左手には鉄球棍を携えて。
「やあ、レヒト。怪我はないかい?」
物騒な武器を両手に抱え、ラグネス=クリスティーヌはおっとりと微笑んだ。
「ラグネス様……! よくぞご無事で……!」
「君のほうこそ、無事でなによりだよ。天界から落ちたと聞かされたときは、もうだめかと思ったけれど。なんとなく、君が死んだとは思えなくてね」
いつも変わらない、優しい微笑み。レヒトは胸が熱くなるのを感じた。
「そちらのお嬢さんは?」
ラグネスがミオに視線を移すと、ミオは丁寧に頭をさげた。
「申し遅れまして、失礼致しました。私はミオと申します」
「ラグネス様、俺は彼女に救われたんです。名もなき小島で……」
「……なにか込み入った事情がありそうだね。こちらも、いろいろと話さなければならないこともあるし」
レヒトも頷く。聞きたいこと、話したいことはたくさんあった。
「まずは、私たちがいる隠れ家に案内しようか。ついておいで」
ラグネスに導かれて辿り着いたのは、街の中心部にある教会だった。ステンドグラスは砕け、壁にも亀裂が走っているが、辛うじて原型を留めている。
「ここは……?」
「そうか、名もなき小島にはなかったな。ここは教会、三闘神様を奉る場所だよ」
物珍しそうに視線を走らせていたミオに、レヒトはそう説明した。
「新たな命の誕生、死者との別れ、永久の愛の誓い――すべてこの場所で行うんだ」
生まれてくる新たな命に、神の加護があるように。
旅立っていった親愛なる者に、神の慈悲があるように。
そして、愛しあう二人に、神の祝福があるように。
――人々はこの場所で神に祈り、願う。
「ラグネス様。ここが、その隠れ家ですか?」
レヒトが問うと、先を進んでいたラグネスが振り返る。
「そうだよ。もう少し先へ進めばわかる」
おっとりとした笑みを見せ、ラグネスは再び歩き出す。
礼拝堂を抜け、様々なものが散乱する小さな部屋をいくつか抜けると、教会の裏手に出た。
「ここ、お墓なんですね……」
白い墓標が並ぶ、ロイゼンハウエル共同墓地。普段であれば芝などもきちんと手入れをされ、逝ってしまった魂を慰めに来た人々の姿が、ぽつりぽつりと見える――そんな光景が広がっているはずだ。
しかし、今では手入れをされない芝は好き放題に伸び、墓標は倒れ、地に落ちて砕けてしまっている。
廃墟となった街の墓地。吹き抜ける風は、悲嘆と慟哭。
「ここだよ」
ラグネスがそう言って足をとめたのは、墓地の最奥。そこには、三闘神を模した神像が建てられている。
「……これは、なんですか?」
人の背丈を軽く凌駕する巨大な三体の象を見上げて、ミオが首を傾げる。この像、ヘヴンに生きる者であれば、おそらく知らぬ者はいないだろうものなのだが、記憶喪失のミオにはなにもかもが珍しいのだろう。
「三闘神様を模して造られた神像だよ。これだけ大きいのはあまり見ないけど、どこの教会にもあると思うよ」
「これが隠者……三闘神様の像ですか。……あまり似ていませんね」
呟いたミオが可愛くて、レヒトは思わず笑ってしまった。
「実際に三闘神様にお会いした者は少ないからね。想像で造られたものなんだろう」
「……この神像に、なにか秘密があるんですか?」
「そうだよ。見ていてごらん」
ラグネスが神像に手をかけると、それはゆっくりと動き、その下から、地下への入口がぽっかりと顔を見せた。
「これは……地下遺跡!?」
驚きの声をあげるレヒト。この街で生活していた頃は、この教会にも幾度か足を運んだが、こんなものがあるとは気付きもしなかった。
「さあ、レヒト。先に降りてくれるかい?」
ラグネスに言われ、レヒトは内部へと身を滑り込ませる。入口は狭いが、内部はそこそこの広さがあり、大人が二人ほど並んでも十分に歩けそうだ。続いてミオが、最後にラグネスが降りてくる。最後尾のラグネスは、二人が降りたことを確認すると、下から蓋になっている神像を動かし、入口を隠した。
三人は壁に灯された松明の明かりを頼りに、薄暗い階段を下りてゆく。
「……地下に、こんな場所が……」
興味津々といった様子で周囲を見渡すミオに、ラグネスは足もとに気を付けて、と微笑む。
「ここはね、四百年前の天魔大戦の時、天界の圧政に苦しんだ魔界の民が反乱軍の本部として造り上げたものなんだよ」
「そうなんですか……凄いですね……」
「ロイゼンハウエルの南西に、大きな湖があるのを知っているかい? その湖の側には、いくつもの洞窟があってね。中にはここのように、ロイゼンハウエルの下にまで続いているものもあるんだ。ここは、その中でも最も大きかった洞窟を利用して造られているんだよ」
ラグネスの説明を聞きながら歩くうち、一行はひとつの部屋に辿り着く。扉の両脇には見張りだろう、二人の兵士が立っていた。
「ご苦労様」
敬礼する二人の兵士に労いの言葉をかけ、ラグネスは扉を開けて部屋の中へと足を踏み入れる。レヒトとミオもそれに続いた。
部屋の中はかなり広い。大きな机が中央に置かれ、数人の兵士と、見知った顔が何人か。
「やあ、戻ったよ」
「あ、お疲れ様です。外の様子……」
そこまで言いかけ、彼は硬直した。ラグネスのほうを向き――正確には、彼の隣に立つレヒトを見て。
「なっ、なん……そっ……」
なにやら意味不明な言葉を呟く。
「遅れて悪かったな、シャウト。……快は?」
挨拶もそこそこにレヒトがそう問いかけると、硬直から脱したシャウトが苦笑を見せる。
「あんた……二言目にはそれかよ。まあ、とにかく座んな」
「そうだね。レヒトの傷の手当てをしなければならないし」
シャウトとラグネスに言われ、レヒトはおとなしく椅子に腰かけた。先程の魔物との戦いで、手に軽い火傷を負っている。
直撃を受ければ、ただではすまなかったかもしれない。あの一瞬、レヒトは炎の弾を剣で叩き潰し、爆風に乗る形で大きく後ろと飛び、破壊力を殺いだのだ。
「姫はいないぜ。外回りに行ってる。とはいっても、もうすぐ戻ってくるとは思うけどな」
手に包帯を巻かれるレヒトを眺めながら、シャウトが言った。
「……どうやら、レヒトは相当、運に恵まれているようだよ」
苦笑混じりのラグネスの言葉が終わると同時に、再び扉が開く。
「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった。お客さんが来てるって聞いたけど……」
そこで、彼女は言葉をとめた。思わず立ち上がったレヒトを見つめた瞳が、数度、瞬きを繰り返して――。
ふわっと、微笑む。
「……遅かったじゃない」
「あぁ……」
立ち上がったレヒトは、ゆっくりと扉の前に立つ彼女に近付く。
「……おかえり、レヒト」
「ただいま……快……」
そう、小さく言葉をかわして。レヒトは快を抱き締めた。