第79話 記憶をなくした天使-2-
飽くことなく降り続いた豪雨もすでにやみ、ゆっくりと水平線の彼方から顔を出した太陽が、大地に残る水たまりと、葉についた滴とに、強くも優しい輝きを与えていた。
レヒトが目を覚ましたのは、まだ夜も明けきらぬ早朝のこと。昨日は真夜中過ぎまで、ミロスラーフと他愛ない話をしていたような気がするので、あまり長く寝ていたわけではないようだが、不思議と目が冴えてしまっている。これではもう一度眠ることはできないだろう。
希望と不安、その双方を胸に抱き、レヒトは寝台から飛び起きた。
「……どうするかな」
魔界へはミロスラーフが送ってくれることになっているが、出発までは、まだかなりの時間があった。
とりあえず簡単に身支度を整え、レヒトは澄んだ朝の空気と日差しを求めて部屋を出る。その途中、居間を通りかかると、そこには。
「よぉ、ぼーず」
椅子に腰かけて煙管を燻らせていたリーシェンが、レヒトのほうを振り返る。
「早いな」
普段と変わらぬ気だるげな口調、覇気のない眼差し。だが、昨日までその瞳の奥にあった、悲しみの色は、今はない。
「リーシェンさんこそ、お早いですね」
彼がこれほど早く起きてくるのは珍しい。少なくとも、レヒトが居候するようになってからは、初めてのことだ。
「昨日、寝てねぇんだ。ぼーずも、似たようなもんか?」
「ええ、まぁ……どうにも、気持ちが昂ってしまって」
そう返すと、リーシェンは唇の端を持ち上げた。
「気が急くのも無理はねぇさ。……俺は寝られなかったっていうか、寝かせてもらえなかったっていうか……」
なにかあったんですか、とレヒトが問うと、じーさんに大喝一声された、とうんざりしたような口調でリーシェンが返す。
「じーさんの説教、無駄に長いんだよなぁ……」
リーシェンはそう言って苦笑した。彼が信愛の念を抱く人は、生きているという。リーシェンも、それを聞いたのだろう。
「今日、出るんだってな。……とはいえ、そのままの格好で行かせるわけにはいかねぇよな……」
なにかを探すように部屋を見渡し、部屋の隅を指差す。
「あのあたりか。ぼーず、そこに鎧があるだろ。……そう、それだ」
リーシェンが指し示したのは、部屋の隅に置かれていたひとつの鎧だった。といっても、実際には、彼の指し示す方向には大量の鎧が置かれているわけだが、指示に従ってレヒトが探し当てたのは、今までレヒトが身に纏っていたのと同じような銀色の鎧だ。もしかすると、レヒトが天界城を出る際にトゥールから受け取ったあの鎧、リーシェンが製作したものだったのだろうか。
「ぼーずが着てたやつは、血まみれの傷だらけだったからな。そいつをやる。それと……この剣も持っていけ」
リーシェンが一振りの剣を机の上に置いた。レヒトが振るっていたセイクリッド・ティアよりも幾分小振りな剣で、細部に至るまで美しく繊細な装飾が施されている。
「綺麗な剣ですね」
「まぁな。本来は儀礼用にって献上したんだが、実戦で使えることも確認済みだ。そこいらのなまくら剣よか、よっぽど使える。そいつで斬られると痛てぇぞ」
レヒトは剣を鞘から抜き放った。セイクリッド・ティアほどでないにしろ、そこそこの大きさがある剣だが、非常に軽く、扱いやすい。
「なかなかにいい剣だろ。銘はホーリィ・クロス――俺が打った中で、最高の逸品だ。持って行きな」
「ありがとうございます」
レヒトはリーシェンの好意に甘えることにした。セイクリッド・ティアは刀身が罅割れ、鞘から抜くこともできない状態だ。魔法の使えないレヒトは、武器がなければなにもできない。
「そういえば……リーシェンさんやミオちゃんが使っている剣は、東方のものですよね」
「あぁ、俺の故郷の剣だ。扱いは難しいが、威力のほどはかなりのもんさ」
リーシェンが、腰に差した二振りの剣を外す。黒塗りの鞘から抜き放たれた片刃の剣は、なんとも言えず美しい。
「大陸の剣は重い。斬ることより、重みで叩き潰すことに重点を置いて造られてるからだ。威力は高いが、どうしても一撃が大振りになる。それに比べ、これは軽い。刀身は薄く、切れ味は群を抜く。ただし、かなり扱い辛い。力任せな一撃じゃ、あっさり折れちまう」
剣を鞘に戻し、リーシェンは再び煙管に手を伸ばす。
「南方にも珍しい剣がある。獣王の尾って名前なんだがな。刀身がこう、反り返った剣だ。それから、西より伝わったのがレイピアだ。あれは分厚い鎧の繋ぎ目から刃を突き刺すために、ああいう形状をしてる。まぁ、一括りに剣って言っても、実際には様々ってことだ。だが、変わらねーもんもある」
「変わらないもの……?」
リーシェンは頷く。
「肉を裂き、骨を断つその感触――それを快感と捉えるか、それとも嫌悪と捉えるかで、剣士って職業への適性が決まる。ぼーずはどうよ」
「……俺は、正直に言えば、好きではありません。昔――剣をとったばかりの頃は、奪った命の重みに耐えられなくなり、吐いたことも何度か」
今でも、決して慣れてはいない。剣に付いた血を拭うとき、指先が震えることもある。
「それでも……俺は剣を捨てようとは思いません。俺は自分で、剣となり、盾となる道を選んだのですから」
守るべき人のために。大切な人のために。そのためならば、この身が血で濡れようが構わない。
「情けないと、思われますか?」
「いや。いいと思うぜ、そういうの。すごく、いい」
手にした煙管から立ち上る煙を見つめ、リーシェンは何度もそう繰り返した。
「なんの疑問も持たず、なんの痛みも感じず、ただ人形のように人を殺す奴より、ぼーずは強い。いいぜ、やっぱりな」
彼の言葉の意味することがわからずに眉を顰めると、リーシェンがふっと遠い目をした。
「ぼーずに昔話をしてやろう。遠い遠い昔の話――天魔大戦と呼ばれる、四百年前の戦の話だ」
瞳を細め、リーシェンが静かに語り始める。
「天魔大戦が始まる少し前、ロライザ=クリスティーヌは天界人って新たな人種を造った。それが、ただ単純に己の手駒とするためだったのか、それとも他に目的があったのかは――今となっちゃあ、闇の中だがな」
今では悪魔のように語られているロライザ=クリスティーヌという男は、本来、少々気弱なところもあるが、優しく穏やかな性格だったという。彼が狂う原因となったもの、そして彼が抱いていた野望――それがなんであったのか、知る術はすでにない。
「天界人の製造――その実験体として選ばれたのは一人の男だった。囚われた精霊人の悲鳴と苦悶の呻きとが響き渡る部屋で、悪魔の実験が行われた」
レヒトは胸を押さえた。囚われた精霊人がどんな目にあったのか、その末路を知らぬほど、彼は無知ではない。
「ロライザはそいつに、生身の身体で耐えうる極限の力を注入した。そん時のこと、俺は詳しく知ってるわけじゃねぇが……凄かったらしいぜ。まさに拷問よ。まぁ、奴にとっちゃあ、そいつが死のうが生きようが別に構わなかったんだろうからな。代わりはいくらだっているんだ」
そう話すリーシェンの瞳は、怖いほどに穏やかで。
「実験は成功だった。そいつは大きな純白の翼と、強大すぎる力とを手に入れた。だがその代償に……」
しばし、彼は押し黙る。それは、ともすれば溢れそうになるなにかを、必死に押しとどめているようにも見えた。
「その代償に……そいつは人の心を失った」
その時、なんの感情も見ることができなかった彼の瞳の向こうに、一瞬だけ、激しく燃え上がる焔のようなものをレヒトは捉えた。
「湧き上がる衝動を抑えられず、ただ欲望を満たすためだけに、そいつは多くの命を奪った。男も女も、年寄りも子供も……歯向かう者も、逃げ惑う者も……。手にした二振りの剣で、そのすべてを肉塊へと変え、緑の大地を血に染めた」
彼の瞳の中に見た焔。それが、彼が初めて見せた怒りの表情なのだと気付くまでに、しばしの時を要した。
「やがて、そいつは神の剣を振るう少年――そいつがまだ人間であった頃に、剣を捧げた少年の手により倒され、ようやく悪夢から解放された。……後遺症は残ったがな。まぁ、辛うじてまともな生活が送れる程度にまでは回復したってわけだ」
「リーシェンさん……それは、まさか……」
「……遠い、昔の話さ……なんで、ぼーずにその剣をくれてやる気になったのかは、わかんねぇがな……」
そう呟いて、リーシェンは静かに目を閉じた。
「さぁて、準備はよいかのぅ?」
ミロスラーフの問いかけに、レヒトは大きく頷いた。ミロスラーフとミオ、そしてリーシェンが、魔界へと戻るレヒトを見送りに来ていた。
昨晩の豪雨が嘘のように、すっきりと晴れ渡った蒼穹。
レヒトはリーシェンにもらった銀色の鎧を着込み、その上から、白地に紅いラインの入った薄手のコートを纏っている。これはミオが用意してくれたものだという。
なんとなくわかってたんだろう、ぼーずがいつかは行っちまうってこと――レヒトにコートを手渡しながら、リーシェンはそう言っていた。
ミオの同行を許可するかどうかについて、リーシェンはついに明確な答えを出さなかった。
「気を付けていけよ、ぼーず」
愛用の煙管を銜え、相変わらず気だるげな表情のリーシェン。
「それと、ミオ。……まぁ、なんだ、その……」
あちこち飛び跳ねた髪を掻き、視線を逸らして。
「……いつでも帰って来いよ。ここが、お前の家なんだからな……」
レヒトも、ミオも、そしてミロスラーフまでもが驚いたようにリーシェンを見た。レヒトも、許可は出さないだろうと思っていた。
「リーシェン……!」
その顔に満面の笑みを湛えたミオが、リーシェンに抱き付く。
「うわっ……ミオ!」
頬を染めて動揺するリーシェンに、レヒトとミロスラーフは顔を見合せて笑った。
「ありがとう。……行ってきます、リーシェン」
「ミオ。行ってきますって言ったら、ちゃんとただいまも言わないといけないんだからな」
「はい……」
ミオをもう一度だけ抱き締めて、リーシェンはレヒトに、ミオを頼む、と言葉をかける。レヒトは静かに頷いた。
「行きましょう、レヒト殿」
「そうだな。けど、その前にひとつ」
「なんでしょうか」
「その……レヒト殿ってやつが、どうにも慣れなくてな」
そう言って頬を掻くレヒトに、ミオは小さく微笑んで見せた。
「わかりました、レヒトさん。それじゃあ、私のこともミオと呼んでください」
「ああ。よろしく頼むよ、ミオ」
レヒトはミロスラーフのほうを向き直る。
「そろそろ準備はよいな。おぬしの行きたい場所を思い浮かべ、強く想えばよい。おぬしの道行きに、幸多からんことを……」
ミロスラーフの言葉が終わると同時に、二人の姿が掻き消えた。
「……行っちまったなぁ……」
「うむ」
それを見届けたミロスラーフとリーシェンは、どちらともなく踵を返す。
「……ミオが戻ってくるまでに、考えとかねぇとな」
「ほぅ。おぬしが考えごととは珍しいのぅ。して、なにを考えるというんじゃ?」
興味津々といった様子のミロスラーフに、彼はこう言い放った。
「プロポーズの言葉」