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第78話 記憶をなくした天使-1-

 宵の口から降り出した雨は、時を追うごとにその激しさを増していた。

 この雨で、大地を真紅に染めた血は、綺麗に洗い流されたことだろう。わずかな痕跡さえも残さずに。

 名もなき小島を襲った魔物は、たった一人の男の手により全滅。島は、静寂を取り戻していた。

 あれだけの騒ぎがあった後にしては、嫌に静かな夜だった。もちろん、それは平和がもたらす静けさなどではなく、未だ冷めやらぬ恐怖によるものなのだろうが。

 また魔物が現れはしないだろうかとレヒトが問うと、ミロスラーフは、今夜は大丈夫だと断言した。理由を尋ねても教えてはくれず、勝手にあれこれと考えて、さすが三闘神と思うほかなさそうだ。

「外……凄い雨ですね」

 椅子に腰かけ、ずっと黙りこくっていたミオが、小さくそう呟いた。

 あの後、少し遅れて村に現れたミロスラーフとともに、レヒトたちはミオの家へと戻ってきていた。

「雨は嫌いかい?」

「……わかりません。けれど、雨の日は……不思議な気持ちになるんです。どう、言えばいいのか……」

 思案するように、筋を描いて落ちてゆく雨粒を見つめて。ミオはややあって言葉を続けた。

「懐かしいけれど、寂しい……そんな感じです」

「雨の日に特別な思い出がある、とか?」

「……そう、かもしれませんね」

 それ以上をなにも語ることなく、ミオは静かに微笑んだ。

「レヒト殿は、雨……お好きですか?」

「そうだな……少なくとも、嫌いではないかな」

 この言葉、ミオには意外なことだったようだ。

 戦いを生業とする者は、総じて雨を嫌う。レヒトのような、相手がプロの暗殺者などである場合はなおさらに。

 雨は視界を遮り、微かな気配や物音、息遣いなどを消し去ってしまう。攻める側にとっては有利に、守る側にとっては不利に働く。

 無言の問いかけに気付き、レヒトは少しばかり躊躇ったあと、小さく付け加えた。

「俺は園芸が趣味なんだ。だから、雨は嫌いじゃない」

 案の定、目を丸くするミオに、レヒトは苦笑する。たいていがこの反応だ。

「そんなに意外かな?」

「少し。けれど、素敵なご趣味だと思います」

 ラグネスに拾われてからの数年は、庭師の真似事をしていたこともあるのだ。その後、ひょんなことからレヒトの武術に対する天才的な素質と、例の不思議な力の存在が明らかになり、ラグネスの護衛役を務めるようになった。

 剣を握って命を刈り取るより、土をいじって花を愛でるほうが好きだと言ったら、似合わないと笑われるだろうか。

 今も、城の中庭には、レヒト専用の一画がある。様々な種類の花が咲き乱れる中、その一画だけは、いつも決まって紅い薔薇。

 レヒトはなにより、紅い薔薇の花が好きだった。

 以前、レヒトはラグネスに、どんな女性が好みかと問われたことがある。それに対し、レヒトは手塩にかけて育てた薔薇を見つめ、こう答えたのだ。

 この薔薇のような女性が好きです、と。

 そんな女性を見付けるのは大変だ、とラグネスは笑った。レヒトもそう思っていた。

 しかし、レヒトは出会ったのだ。

 誰かれ構わず魅了する美しさは、甘い芳香と朝露に濡れる花弁のよう。誰も踏み込ませない心の奥底は、影に隠された刺のよう。無垢なようで、それでいて、人の心を掻き乱す。

 光と影、その双方をあわせ持つ、強くも儚い存在。

 そう、まさに――彼女は薔薇のような人。

「――レヒト殿?」

 ミオの言葉で我に返る。悲しい顔を見せただろうか。

 レヒトは慌てて笑顔を見せた。

「……花にとって、雨は天の恵みだからな。だが、この雨は……」

 レヒトは立ち上がり、窓辺に立って外を眺める。

「まるで……泣いているようだ」

 レヒトがそう呟くと同時に、わずかな音さえ立てずに扉が開く。顔を覗かせたのは、リーシェンとともに別室にいたミロスラーフである。

「隠者様……あの……」

 思わず椅子から立ち上がったミオに近付き、ミロスラーフはその肩に手を置く。

「案ずるな、ミオ。今は落ち着いておるよ」

 ミロスラーフが優しい笑みを見せると、不安げに揺れていた彼女の瞳に、ようやく安堵の色が浮かぶ。

「よかったな、ミオちゃん」

「……はい。本当に……よかった……」

 そう笑いかければ、ミオは指先で滲んだ涙を拭い、微笑み返す。

 リーシェンのことを、レヒトはなにも聞かなかった。




「レヒト、おぬしはこれからどうする?」

 やおらミロスラーフがそう切り出したのは、真夜中を過ぎた頃――なんとなく眠る気にもなれず、やむことのない雨をぼんやりと見つめていた時だった。

 なかなか言い出せずにいたレヒトに、気を利かせてくれたのだろうか。

「俺は、仲間のもとへ帰ります。いつまでも、ここでリーシェンさんとミオちゃんの世話になるわけにもいきませんし……それに……レイヴンを、見捨ててはおけませんから」

 これから自分がなにをするべきなのか、レヒトは明確な答えを見つけたわけではない。ただ、帰らなければと強く思っていた。

「……行ってしまわれるんですね、レヒト殿」

 そう声に出したのはミオだった。

「今までありがとう、ミオちゃん。俺が生きていられたのは、君のおかげだ。君がいなければ、俺は死んでいただろう」

 一度は、本気で生きることをやめようとも考えた。だが、今は生きていてよかったと思える。

 生きていたからこそ、仲間と再会できるのだから。

「君にはいくら感謝しても足りない。本当に、ありがとう」

「そんな……お気になさらないでください。……あの、レヒト殿」

「なんだい?」

 レヒトの眼をしっかりと見据えて、ミオは静かに言葉を紡ぐ。

「私も、一緒に連れて行って頂けませんか?」

 レヒトに向けられたミオの瞳は、痛いほどに真剣だった。

「軽い気持ちで、付いていくわけではありません。リーシェンから、剣術の手解てほどきも受けています。足手まといにはなりません。お願いします……」

「ふぅむ……そう言い出すかもしれぬとは思っていたがのぅ」

 困惑するレヒトに代わって言葉を発したのは、ミロスラーフだった。

「隠者様……」

「わしは賛成も反対もせん。すべてはミオ、おぬしが決めることじゃよ。まあ、もし連れて行ったとしても、ミオが足手まといになることは、おそらくあるまい」

 それは、レヒトも同意見だ。だが、レヒトが心配しているのは、そういうことではない。

 これからレヒトがどう己の道を選択するにしても、彼――『大いなる意思』が関わってくることは避けられないだろう。『大いなる意思』が、レヒトを放っておくとは考え辛い。となれば、一緒にいる者も、巻き添えになることは目に見えている。

「……なにか、俺と一緒に来たい理由があるんだね?」

 レヒトが問うと、ミオはこくりと頷く。

「私は……自分が誰なのかを探しています」

 そう話すミオは、どこか寂しそうで、普段よりずっと幼く見えた。

「十年ほど前、魔界の辺境でのことです。偶然その場所を通りかかった旅人が、道端で倒れていた子供を拾いました。その子供は記憶が混濁していて、覚えていたのは自分の名前と、少し前まで一緒にいてくれたという誰かのことだけ」

 その日は、雨だったのではないかと、レヒトはなんとなくそう思った。

「親を探そうにも、なんの手がかりさえなく……旅人は子供を連れ帰り、自分の子として育てたのです」

「……それが、君とリーシェンさん……」

 父親であるはずのリーシェンを、ミオは名前で呼ぶ。

 レヒト自身、ラグネスに、私を父親だと思えばいい、と言われたことがある。

 だが、レヒトはついに彼を父と呼ぶことができなかった。血の繋がりなどない他人を、家族と思えないのかと問われれば、それは違うとはっきり言える。

 ラグネスは大切な人だ。あのままでは死んでいただろうレヒトを救い、温かい食事と部屋、そして仕事まで与えてくれた。だからこそ、これ以上、甘えることができなかった。

 深い愛情と優しさに触れるたび、怖くなる。自分はなにもできないのに、と。自分の素姓が知れない、自分の過去がわからないというのは、本当に、耐えがたいこと。

 だから、レヒトにはミオの気持ちがよくわかるのだ。

「……わかった」

 彼女の願いを無碍に断ることなど、レヒトにはできなかった。

「ただし、幾つか条件がある。まずひとつは、リーシェンさんの許可をもらうこと。これだけは譲れないよ。もしリーシェンさんが認めなかったら、連れては行かないからね」

「……はい、わかっています」

 優しい薄紫色の目を閉じて、ミオはそう答えた。

「もうひとつは……条件というよりは、覚悟しておいて欲しいこと、かな」

「覚悟ですか?」

「……記憶を取り戻したい気持ちは、よくわかるよ。けど、取り戻した記憶が、必ずしも幸せなものだとは限らない。知らなければよかったと、後悔するかもしれない。それでも……前に進む勇気はあるかい?」

 レヒトの問いに、ミオは神妙な面持ちで頷いた。彼女の失われた記憶がどんなものであれ、きっとミオは、それを乗り越えてゆけるだろう。

「……君に、その覚悟があるのなら、俺が反対する理由はないよ」

「ありがとうございます、レヒト殿……」

「いや……」

 レヒトは視線を外へと移す。降り続く雨の勢いは、弱まることを知らないかのよう。

「記憶がない、自分が誰なのかわからないっていうのは……本当に、耐えがたいことだからね……」

 雨音に掻き消されてしまうほどの小さな声で、レヒトは呟く。その声は、酷く疲れたものだった。

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