第77話 人の哀哭、獣の狂気
「――憎いか、レヒト」
唐突な問いかけ。ミロスラーフは、海を思わせる金色の瞳に、不思議な感情を湛えていた。
「……どんな理由があっても……『大いなる意思』がレイヴンを手に掛けた事実は変わりません。俺は……」
呟いて、レヒトはゆっくりと首を振る。
「……レヒトよ。憎しみに囚われてはならぬ。憎しみに囚われた心では、見えるものも見えなくなる」
ミロスラーフの瞳が揺れた。
「それでも……憎しみを捨てることは、できぬか?」
無言の肯定。ミロスラーフは静かに目を閉じた。
「……致し方ないことなのかもしれぬがのぅ……」
レヒトに向けられた金の瞳が、悲しそうに、寂しそうに揺れた。
「わしの言葉……今のおぬしには届くまい。だが、もしもその気になったのならば……アルカディアスを訪ねるがよい。『大いなる意思』のこと……おそらく話してくれるだろう」
「……わかりました」
彼の瞳に宿る感情――それがなにを意味するのか、レヒトにはわからなかった。ミロスラーフが静かに言葉を紡ぐ。
「レヒト……『大いなる意思』は、わしらの――」
続く言葉を掻き消したのは、空を裂くような吠え声だった。
レヒトが立ち上がるよりも早く、ミロスラーフが扉へと走り寄り、開け放つ。
顔を見合わせ、二人も彼の後を追う。
ミロスラーフは、扉を出たところで立ち尽くしていた。彼の視線を追って、レヒトもまた硬直する。
「魔物が……!」
ミオが悲鳴に近い声をあげた。小屋を取り囲む魔物――十数匹のブロウ・デーモンが、一斉に炎の弾を吐く。
飛び出そうとする二人を手で制し、ミロスラーフは虚空を睨む。迫り来る幾多の炎の弾は、ひとつ残らず霧散した。
「この魔物は……」
レヒトの脳裏に蘇る、先程の映像。黒い光を浴びた生き物が――。
「島の小動物であろうな」
魔物を睨み付けたまま、ミロスラーフがそう答えた。
「ゆっくりと話している時間はないが……自我の強い人間が魔物化することはないと思うてよい。おぬしらに見せたあの光景は……少し特殊な状況下においてじゃ」
彼の言葉に、レヒトは少しだけ安堵した。人間でなければいいという問題ではないだろうが、この中に見知った顔がいないことは幸いだ。
ミロスラーフが右手を掲げる。天から降り注いだ光の柱が、何体かの魔物を光の中へと消し去った。次々と、苦しむ素振りさえ見せずに浄化されてゆく魔物たち。
いつか、どこかで同じような光景を目にした気がした。
「ここに魔物が現れたということは……名もなき小島にも……」
「あぁ……急ごう、ミオちゃん!」
「しばし待て」
走り出そうとした二人に、制止の声がかかる。
「ミロスラーフ様……!」
「ゆっくりと走っている暇はあるまい。わしはここの魔物をなんとかする。村のほうはおぬしらに任せよう」
その言葉が終らぬうち、レヒトは軽い眩暈を感じて目を閉じる。
次に目を開けた時、目の前には先程とはまったく異なる光景が広がっていた。
「ここは……ミオちゃんの家の前……」
「隠者様が送ってくださったんです。それより、今は急ぎましょう」
レヒトは頷き、ミオの後を追って走り出す。
村までは、道なりに東へと進めばいい。半ばを過ぎた頃、急ぐ二人の足が止まった。
道を塞いで現れたのは、一体のブロウ・デーモン。
反射的に腰へと手をやり、レヒトは小さく舌打ちした。
――セイクリッド・ティアは、ない。
振り下ろされた爪の一撃を、大きく後ろに飛ぶことでかわした。身体には少しだけ違和感があったが、幸いにも培った感覚は衰えてはいなかったらしい。
しかし、いくら攻撃をかわすことができても、倒せなければ意味はない。今のレヒトに武器はなく、いかに最下級の魔物とはいえ、素手で倒すことなど不可能に近い。
先を急ぐ今、このような場所で時間を無駄にするわけにはいかないというのに――。
「――レヒト殿。そこを、動かないでくださいね」
耳元で、ミオの声が聞こえた気がした。
レヒトが聞き返すよりも早く、ブロウ・デーモンの断末魔が響き渡る。しばらく痙攣した後に、ゆっくりと倒れ、土煙をあげる魔物の巨体。
その向こうに、レヒトはミオの姿を見付けた。
右手に握られた小さな剣。ナイフかとも思ったが、よく見ると違いがわかる。リーシェンが持っていた、あの不思議な片刃の剣を、そのまま小さくしたような形状だ。
剣など、所持しているようには見えなかった。服の下にでも仕込んでいたのかもしれない。それにしても――。
「……腹を二回、背中へ回って一回……」
若いながらも恐るべき技量。そしてなにより、特筆すべきはそのスピード。常人では、その動きを捉えることすらできないだろう。
剣を黒塗りの鞘へと戻し、ミオが振り返る。彼女は返り血に濡れた頬を腕で拭った。
「行きましょう、レヒト殿」
「あぁ……急ごう!」
村へと続く道を、二人は再び走り出した。
目に飛び込んできたその光景に、レヒトは知らず知らずのうちに息を飲んでいた。
ようやく村に辿り着いた二人が目にしたのは、夥しい数の魔物の死体だった。そのほとんどが、もはや原型がなんであったのか、それすらもわからないほど、細切れにされている。
正直、人間の手によるものだとは思えなかった。
「……これは……」
呟き、表情を曇らせるミオ。
「ミオちゃん……ど、どういうことなんだ、一体……。これだけの魔物を、こんな風に……」
「……これは……リーシェンが……」
その瞬間。レヒトは大地を蹴り、ミオに体当たりをかける形でその場を飛び退いた。
刹那――二人がいたその空間を、白い光が裂き、貫く。
「なんですか、今のは……!?」
言いかけたミオの言葉がとまる。同じく、その光のほうを見たレヒトの身体にも、緊張が走った。
「……おいおい……」
レヒトは呻いた。
女性の上半身と、大蛇の下半身を持つ呪われし魔物――ゴーゴン。すべてを石に変えるこの恐るべき魔物と、かつて、レヒトは一度だけ対峙したことがある。あの時は、偶然出会ったレイヴンの魔法で、なんとか撃退することができたのだが――本気で、洒落にならない相手である。
「レヒト殿、私が戦います。下がっていてください」
立ち上がり、ミオは一歩前へと進み出る。ゴーゴンが、レヒトからミオへと視線を移した。
「この小太刀で通用するかどうか……桜吹雪を持ってくればよかった……けど、やるしかありませんね……!」
ミオが魔物に躍りかかる。魔物に届く直前で、彼女は軌道を変え、側面から魔物へと剣を振り下ろす。
その刃が、魔物を裂く寸前。
「火炎獄!」
彼女の言葉に反応し、手にした剣が焔に包まれ、切り裂いた魔物の身を焼き尽す。
苦痛に身を震わせながらも、ミオめがけて鞭のような尾が唸る。ミオはそれを後方に飛ぶことでかわし、再び魔物に迫る。
その時だった。レヒトの真横を、一陣の風が吹き抜ける。
敵意も、殺意も、悪意も感じなかった。しかし――。
「伏せろ、ミオちゃん!」
言葉では表せないなにかを感じたレヒトが彼女に声をかけるのも、それに反応したミオが行動を起こすのも。
わずかに、遅れた。
白い影が大地を走った。そして、幾筋もの、銀色の光が迸る。レヒトが辛うじて捉えることができたのは、それだけだった。
小さな肉塊となり果てた魔物が、大地に落ちる。断末魔の悲鳴を、魔物は残すことがかなわなかった。もしかすると、自らを襲った死にすら、気付かなかったかもしれない。
巻き添えを食らったのか、ミオの身体も大きく跳ね飛ばされ、幾度か大地を転がった。しかし、傷を負っている様子は見られない。
「くくっ……ひゃははは……! まぁだ残ってやがったか……いいぜぇ……」
声は、レヒトの真後ろで聞こえた。
慌てて振り返ると、そこには。
「リーシェンさん……?」
二振りの抜き身の剣を両手に提げた、リーシェンの姿が。普段は穏やかで、そして気だるげな光を宿すその瞳。
そこに覗く、狂気の輝き。獲物を狙う獣のごとく、純粋な、甘美な狂気。
「血が……俺の血が滾る! もっと、もっと斬れってなぁ……」
彼の瞳に映った己の姿――レヒトは首を絞めあげられたような感覚に襲われた。
ふらふらとした足取りで、彼は一歩、レヒトのほうに歩み寄る。
「……斬り、たい……斬らせろ……もっと……もっとだ!」
リーシェンの姿が掻き消える。レヒトは思わず目を閉じた。
「――リーシェン!」
ミオの声。恐る恐る目を開くと、リーシェンの剣は、レヒトの喉を裂くまさに寸前でとめられていた。
正気を取り戻した、彼自身の手によって。
「……ミオ、か……?」
がくりと膝を折ったリーシェンに、ミオが駆け寄ってくる。
「リーシェン……大丈夫……?」
「……あぁ。ミオ、俺はなにをした? なんで、こんなとこに……」
そこで、彼はようやく気付いたようだった。自身の手に握られた、二振りの剣に。そして、ゆっくりと、周囲に転がる肉塊を見渡して。
「……まーた……やっちまったか……」
疲れた口調で呟いて、自嘲気味に、嗤う。
「……違うわ。リーシェンは……村のみんなを守ったのよ。魔物を倒して……」
目を閉じたリーシェンを、ミオは優しく抱き締める。
「貴方は英雄だわ……!」
閉じられた彼の目から、一筋の涙が零れ落ちた。