第75話 名もなき小島の隠者様-1-
「……ヒト殿……レヒト殿?」
かけられた声で覚醒する。数回瞬きを繰り返すと、顔を覗き込むミオと目があった。
「大丈夫ですか?」
「え? ……あ、あぁ……大丈夫だ。少し、ぼーっとして……」
誤魔化すようにそう言ったレヒトに対し、ミオが返したのは意外な言葉だった。
「今……誰と意識を同調させていたんですか? 人間では、ないように感じましたけれど……」
それは、レヒト以外にはわからないはずのことである。それも、彼女は断言した。誰かと意識を同調させていた、その相手は人間ではない、と。
「どうして……」
「ミオは、他人の心の中を見ることができる。精神感応能力、とでもいえばよいかのぅ」
レヒトの問いかけには、ミロスラーフが代わりに答えた。
「そうか……それで、俺の心の中を……。そういえば、俺は君に名前を言ったことも、ないはずだよな」
「……すみません、勝手に覗いてしまって……」
申し訳なさそうに頭を下げるミオを、ミロスラーフが弁護する。
「ミオの能力は、自身で完全に制御することが難しい。普通にしているぶんにはよいのだが、相手が強い感情を抱いている場合などは、それに引きずられてしまうのじゃよ」
「そうなんですか。ミオちゃん、気にしなくていいよ」
「すみません……気持ち悪いですよね、こんなの……」
悲しげに微笑むミオを、レヒトは不憫に思った。生まれ持った能力のせいで、ミオは苦労しているのだろう。
レヒトはもう一度、気にするなと微笑んで見せた。
「……さて、レヒトよ。おぬしを呼んだのは他でもない。おぬしはどこまで知っている?」
直感的に、彼が『大いなる意思』のことを尋ねているのだとレヒトは悟った。
「……ほとんど、なにも。俺が知った――いえ、思い出したというべきでしょうか――ことといえば、十年前のあの日、『大いなる意思』によって、俺が生み出されたということ。それから、俺を生み出したはずの『大いなる意思』が、俺を滅ぼそうとしていること。それだけです」
「ふぅむ……なるほどのぅ」
顎に手をあて、ミロスラーフが唸る。
「彼の目覚め……『CHILD』の覚醒……うぅむ……」
「……ミロスラーフ様。『CHILD』はもう存在しません。あの日、確かに『大いなる意思』が……」
レヒトは、そこで一度言葉を切る。そして小さく息を吐き、静かに言葉を続けた。
「『CHILD』が依り代としていた子供ともども……滅ぼしてしまったのですから……」
それだけは、間違いない。あの時の光景は、今もレヒトの脳裏に鮮明に焼き付いている。
――あの無邪気な笑顔を、レヒトは守ることができなかった。
「っ……」
ミオが胸を押さえるのを見て、レヒトは慌てて心を落ち着かせる。レヒトの強烈な感情――憎悪と絶望とが、ミオの心に流れ込んでしまったのだろう。
「すまない、ミオちゃん」
「……大丈夫です。普段から、心に鍵をかけるようにはしているのですが……」
他人の感情が、彼女の精神にどれほどのダメージを与えるのかはわからないが、苦しそうな表情を見る限り、決して軽いものではないのだろう。
「……『CHILD』を滅ぼすことなど、できはせぬ」
ミロスラーフが呟いた言葉。視線をあげれば、ミロスラーフは少し辛そうな顔をしていた。
「しかし、俺は確かに見たんです。『大いなる意思』が……俺の仲間を……レイヴンを……」
見間違えるはずなどない。『CHILD』は確かに、依り代のレイヴンとともに――。
「……詳しい話はしてやれぬが……断言できることがある……」
ミロスラーフはそこで一度言葉を切った。
「『CHILD』は……神が滅ぼせるような存在ではないのだ。たとえ彼であろうとも、『CHILD』を滅ぼすことなどできはせぬ。あれは……『CHILD』は……」
「……隠者様」
「話してやらねばなるまい。この世界のこと、わしらのこと……『大いなる意思』と『CHILD』のことを……」
小さくため息を吐いてから、ミロスラーフはゆっくりと口を開いた。
「まずはなにから話せばよいのやら。うむ、そうだのぅ……わしらはこの世界――ヘヴンの命ではない。ここは、わしらの世界とはまったく異なる別の世界じゃ」
「……三闘神様の世界は、もう……」
レヒトはいつか見た夢の内容を思い出していた。壊れ果てた世界、煙に巻かれて走った廊下。部屋を嘗め尽くす紅蓮の業火――あれが『大いなる意思』の記憶だというのなら。
「うむ。遠い昔、気の遠くなるほど昔に滅びておる。わしらも、あの世界にはもう戻れぬ。ここで生きる他ないのじゃ」
三闘神と『大いなる意思』は肉体を失い、精神だけの存在となって世界へと取り込まれた。この世界――ヘヴンが、三闘神の精神そのものであると伝えられるのは、そのためなのだろう。
「わしらはなにもなかったヘヴンに、新しい世界を造り出した。寂しかったのじゃな。世界を創り、動物を創り、人を創った。……見えるかのぅ?」
その言葉と同時に、レヒトの脳裏に当時の光景が映った。晴れ渡った蒼穹に、緑豊かな命の大地――三人の子供と、周りを囲む動物たち。笑いあう人々。
「……ところが」
ミロスラーフが言うと、映像の中の三人が胸を押さえて苦しみ出した。その幼い身体に、黒い光の球が纏わり付いて――暗雲が立ち込め、狂風が吹き荒れ、天から幾筋もの、黒い光が降り注ぐ。黒い光は大地を穿ち、逃げ遅れた動物や人々を次々に貫いた。彼らの悲痛な叫びとともに――その身体が――。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
悲鳴とともに映像が掻き消え、レヒトは自らの背筋を伝う冷たい汗に気付いた。呼吸も荒い。心臓は破裂するのではないかと思われるほどに早鐘を打っている。
「……すまぬ。少し早急過ぎたかのぅ」
ミロスラーフが小さく言った。今の映像、どうやら彼が見せていたものだったらしい。
「今のは……」
「ミオちゃん……君にも見えたのかい……?」
額に浮かんだ汗の玉を拭いながら問えば、少し蒼い顔でミオが頷く。
「……黒い光に穿たれた人々が……魔物に……」
天から降り注いだ黒い光は、貫いた動物や人を魔物へと変えた。映像が途切れてしまったので、その先はわからなかったが――彼らはおそらく、人々を――。
レヒトは振り払うように頭を振った。頭の中で、彼らの悲鳴が谺している。
「すまぬ。もっとゆっくりと話してやるべきであった」
ミロスラーフが言う。
「……あの黒い光は……『CHILD』なんですね……」
レヒトが問うと、ミロスラーフも静かに頷く。
「……教えてください、ミロスラーフ様。『CHILD』とは一体なんなんです」
「『CHILD』――『child project』とは、わしらの世界に存在した機械意識じゃ。……自我を持たぬ意思の塊――とでも、表現すればよいかのぅ」
「自我を持たぬ意思の塊…なるほど、それで『大いなる意思』はすべてを破壊しようとする意思そのもの、と表現したんだ」
レヒトの言葉を受け、ミロスラーフは表情を歪めた。そこに、映像で見た三人の苦しそうな顔が重なる。
レヒトはふと思い出していた。
――あの日。天界城で『CHILD』と対峙した『大いなる意思』も、彼らと同じ表情をしていなかっただろうか。
「……操り人形に、心は宿るのじゃろうか」
しばしの沈黙の後、ミロスラーフは言った。詠うように。
「もしも操り人形に心が宿ったとしたら……それは人形自身の心なのか。あるいは糸を手繰る操り手の心なのか」
自身の両手を見つめて呟く。彼の両手に、糸など見えはしなかったけれど。
「……すまぬ。わしからは、これ以上を話してやることはできぬのじゃ」
糸の切れた操り人形のように、ミロスラーフは肩を落とした。