第73話 穢れなき白翼-1-
レヒトが意識を取り戻した、その翌日。結局、昨日は一睡もすることができず、そのまま朝を迎えてしまった。
窓から入り込む眩い太陽の光を、レヒトは窓辺に立ってぼんやりと見つめていた。夜遅くになって降り出した雨もやみ、わずかに葉に残った雨露が、太陽の光を受けて美しく輝いている。
たとえレヒトが絶望の淵にいようとも、太陽はいつもと同じように昇り、沈む。
――人間など、なんとちっぽけな存在であることか。
皮肉なほどに晴れ渡った蒼穹を、レヒトはただ見上げることしかできなかった。
「あ……レヒト殿」
起き出してきたレヒトのほうへと視線を向け、ミオが柔らかく微笑む。
「お身体は、もう大丈夫ですか?」
「……あぁ」
微笑み返すレヒトの瞳に、光はない。今のレヒトを見て、彼だとわかる者はいるだろうか。
「よかったです」
ミオの優しい微笑みに、レヒトは彼女を重ね見てしまう。
全部、忘れてしまいたかったのに。もう、レヒトが大切に想ってきた人は、誰もいはしないのだから。
しかし、だめだった。忘れることなどできはしない。忘れたくなどない。
どれだけ愛していたのか、どれだけ大切に想っていたのか――今更ながらに痛感する。
「目ぇ覚めたんだな、ぼーず」
声のしたほうに視線を移せば、そこにはレヒトの知らない男性がいた。
見た目には、若い男性だ。二十代後半ほどだろうか。癖の強い髪質なのか、あるいは手入れがなされていないのか、金色を基調に、ところどころ銀色のメッシュが入った派手な髪は、あちこち飛び跳ねている。その身に纏うのは、ミオと同じ不思議なデザインの衣服。
見た目には、と断ったのは他でもない。彼が見た目通りの年齢ではないからだ。
背に頂く、一対の大きな純白の翼。それは天界人である証。
個体差はあるものの、魔界人と同程度の寿命しか持たない片翼と異なり、天界人は永き時を生きる種族だ。天界人が造り出されて四百年。未だ寿命で消えた命はないという。
ここにいるということは、男性はミオと一緒に住んでいるということなのだろうが――二人はまるで似ていない。外見もさることながら、ミオが片翼であるのに対し、男性のほうは天界人である。
親子でないとすると、恋人なのだろうか。レヒトはちらり、とミオに視線を向けた。
「私の父です、レヒト殿」
レヒトの視線を、紹介しろという意味にとったらしく、ミオがそう答える。
男性へと目を向ければ、彼はわずかに唇の端を持ち上げた。
「あのまま目ぇ覚まさねぇかとも思ったけどよ。生きててよかったな」
「……おかげさまで」
なんというか、この男性からは覇気というものを感じない。気だるげに椅子にもたれ、煙管を燻らせている。
煙管特有の甘い香りが、部屋の中を満たしていた。
「ぼーず、名前は?」
「……レヒト、といいます」
男性はそっか、と呟く。
「俺はツァ=ユエ=リーシェン」
レヒトは首を傾げて反芻する。
「……ツァ=ユエ……? 不思議な響きですね」
「まぁな……俺は異国の生まれよ。ずーっと東のほうだ」
彼やミオが纏っている不思議なデザインの衣服は、東にあるというリーシェンの祖国の民族衣装なのかもしれない。リーシェンが腰に差している二振りの剣も、見たことのないものだった。
「まぁ……なんだ、座れ」
向かいの椅子を顎で差し、リーシェンがレヒトに声をかける。
「あ、はい」
おとなしく従うレヒト。席を勧めたリーシェンだが、特に意味があっての言葉ではなかったらしい。眠そうな表情で煙管を燻らせている。
レヒトは部屋の中を見渡した。部屋一面に、さまざまな種類の武器や鎧が飾られている。
職業柄、レヒトは武器や防具に関してそこそこに目が利く。この部屋を埋め尽くすほどの武器、防具の数々が、かなりの業物だということが見て取れた。
「リーシェンは鍛冶職人なんです。家の裏に、けっこう大きな工房があるんですよ」
怠惰な印象を受けるリーシェンだが、鍛冶職人としての彼の腕前は、超一流と評して差し支えないようだ。
「あぁ、そうそう……」
不意にリーシェンが声をあげ、レヒトの背後を視線で指し示す。
「ぼーずの剣、勝手に見させてもらった」
レヒトは思わず振り返る。背後の壁に立てかけてあったのは、間違いなくレヒトのセイクリッド・ティア。
旅に出る際にレイより賜った聖剣は――『大いなる意思』との戦いによって、無残にも罅割れてしまっている。
「……レイ様……」
俯いたレヒトが呟いた名に、リーシェンの表情が微かに強張った。それはほんの一瞬だけのことで、彼に背を向けたままのレヒトが、それに気付くことはなかったが。
レヒトはそっと、セイクリッド・ティアを鞘から抜き放った。蒼い煌めきを放つ刀身に走る無数の罅割れは、以前よりも酷くなったように感じられる。少しでも力を加えれば、あっさりと折れてしまうだろう。
「リーシェンさん、この剣……」
肩越しに振り返ったレヒトの言葉に、リーシェンは首を横に振る。
「その剣は直せない。……たぶん、直せる奴はいない」
「……そうですか」
リーシェンほどの職人が言うのだ。おそらく、本当に直せる者はいないのだろう。
「ミオ。茶、いれてくれるか」
空になった湯呑を差し出して、リーシェンがミオに声をかける。
「あ、はい。レヒト殿にも、お持ちしますね」
湯呑を受け取ったミオが、奥へと消えてゆく。
「……ぼーず、天界から来たんだってな」
ミオの姿が完全に見えなくなったのを確認してから、リーシェンがレヒトに問いかける。レヒトは振り返らぬままに頷いた。
「そうか。……俺の打った武器や防具は、みんな天界に納めてんだ。年に数回、俺は天界に行くんだが……」
大陸との交流を絶っているはずの名もなき小島。そこに住まうミオが、なぜ魔界のことを知っていたのか、レヒトは少し気になっていたのだが、その答えがこれなのだろう。彼女の父親でもあり、鍛冶職人でもあるリーシェンが天界との繋がりを持っていたから、ミオは魔界の情報を知りえたのだ。
「ぼーずが寝てる間、俺は一度だけ魔界へ行ってきた」
今度は身体ごと振り返る。瞳に宿るのは、微かな期待と、不安と恐怖。
「魔界の様子を……ご存じなんですね……?」
リーシェンは頷いた。
「あの日……天界、魔界を襲った黒い光は……こっからでも見て取れた。それからしばらくして、海岸で倒れてるぼーずを見つけてな。介抱してる時、ぼーずがうわ言で言ったんだ。……黒い光が世界を滅ぼすってな……」
黒い光が世界を滅ぼす――思い出すのは、天界で対峙した『CHILD』の存在。だが、レイヴンの身体を借りた『CHILD』は、『大いなる意思』によってレイヴンともども葬られたはずなのだ。
その瞬間を、レヒトは確かに目撃しているのだから。
「不安に駆られて、俺は魔界まで行った。そこは……」
リーシェンは一度言葉を切った。煙管から立ち上る煙を、ぼんやりと眺めて。
「……そこは、さながら地獄のようだった」
あまり表情に変化を見せないリーシェンの瞳が揺れる。そこに、自分と同じ色が潜んでいるのをレヒトは捉えた。
――悲哀。
「天界を中心に魔界全土に降り注いだという黒い光は、魔界の広大な大地を死の土地へと変えていた。遠く離れた魔界南部でも、あの状態だ。天界の惨状を確認することは、できなかった。……怖くて、な」
過去に、幾度か体験したことのある死の恐怖。しかし、死の瞬間が迫る時でさえ、ここまでの絶望は感じなかった。
重傷過ぎると痛みも感じなくなるのだと、以前に聞いたことがある。これも、同じようなことなのだろうか。
悲しみが深過ぎて、涙も出ない。言葉もない。
それなのに。
頭の中だけは、嫌に鮮明だ。本当に。嫌になるくらいに。
「馬鹿だよなぁ……ほんとによ。天界が堕ちたって……あの人は逃げられたはずなのに……。あの翼で……俺とは違う、あの穢れない白翼で……逃げりゃ、よかったのによ……」
言って、彼は小さく息を吐く。
「……代われるもんなら……代わってやりてぇなぁ……」
悲しげに呟いたリーシェンに、レヒトは言葉をかけることができなかった。