第72話 砕けた心
声がする。自分の名を呼ぶ声。無明の闇の中、レヒトはただひたすらに走り続ける。
前を行く仲間の手を捕まえようと、伸ばした腕は届かない。
どんなに足を速めても、決して追いつくことはできず――。
(待ってくれ……! 俺を置いていかないでくれ……!)
前を進む三人の姿は、みるみるうちに遠ざかり――やがて、消える。
(嫌だ……俺を独りにしないでくれ……! 嫌だ!)
唐突に。闇に閉ざされていた視界が開け、そこに光を映し出す。すっかり闇に慣れていた瞳には、幽かな明かりすらも刺すように沁みた。
(……夢……だったのか……?)
顔を覗き込んでくる影を、朦朧とした意識の中で捉える。
(快……?)
呟いた言葉は声にならず、レヒトは小さく咳込んだ。
覗き込んだ影が、なにかを囁く。なにを言われたのかは、わからなかった。
その姿は、相変わらずぼんやりとしていて――そこで、自分の目の焦点があっていないことにレヒトは気付いた。しばし目を閉じ、ゆっくりと開けば、影は徐々にその輪郭を整えて――。
「快……っ!」
飛び起きたレヒトだが、身体を襲った凄まじい脱力感に、再び寝台へとその身を沈ませた。
「だめです。まだ動いては……」
なんとか身を起こそうとするレヒトに、かけられた声。レヒトは首だけを動かして、その姿を確認する。
一人の女性が、そこにいた。まだ年若い、少女といっても差し支えのない年齢だろう。長く伸ばされた桃色の髪をツインテールに結いあげ、動きやすそうな不思議なデザインの衣服を身に纏っている。
初対面のはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がした。
「……大丈夫ですか?」
控え目に、優しい声で少女は問う。レヒトが頷くと、少女は安堵したように微笑んだ。
「君、は……?」
少女はレヒトが寝かされている寝台の傍の椅子に腰掛け、レヒトの額に水で濡らした布を載せながら答える。
「私はミオと申します。この村の村長代理を務めております」
ふわりと微笑む。美しいが、どこか儚げな印象を与えるその微笑。
「どこか、痛むところはありませんか? 隠者様に、治癒はして頂いたのですが……酷い怪我でしたし……岸に打ち上げられていた貴方を見つけたときは……本当に、もうだめかと……」
「……打ち上げられていた?」
意外な言葉に、レヒトは首を傾げた。ぼんやりと霞みがかった記憶を、レヒトはなんとか呼び起こす。
最後に見たのは、崩れゆく浮遊大陸と、天から降り注ぐ破壊の光だった。
そのあとの記憶はない。降り注いだ黒い光が大地を砕き、その衝撃で、レヒトは空へと投げ出されて――。
「そう、そうだ……。俺は、天界から落ちたんだ……」
天界は、魔界首都ロイゼンハウエルの真上を浮遊する浮遊大陸。そこから落ちたということは、レヒトはロイゼンハウエルにいるのだろうか。しかし、それでは打ち上げられていたという言葉はおかしい。そもそも、あれほどの高さから落ちて、無事でいられるはずなどないのだが。
「……ここは、どこなんだ?」
一瞬の沈黙の後、ミオは静かに口を開く。
「名もなき小島――天魔大戦で敗れた片翼たちが……流刑にされた離れ小島です」
今更ながらに、レヒトは気付いた。彼女の右肩に、純白の翼があったことに。
「そんなこと……あるはずが、ない」
呟いて、レヒトは首を横に振る。
「……あるはずがないんだ。天界から落ちて……どうして……」
そこで、レヒトは言葉を飲み込んだ。
片翼たちが流刑にされた名もなき小島は、中央大陸の遥か南東にある、地図にも載っていない小さな島――そう教えてくれたのは、確か快だった。
魔界首都ロイゼンハウエルの南西には、大きな湖が存在する。湖から流れる大河は、中央大陸を南東に抜け、海へと続くのだと聞いたことがある。
もしも、レヒトが落ちた先が湖だったなら。大河を渡り、海へと流され、そしてたどり着いた先が、この場所なのだとしたら。
そうもうまくいく確率など、限りなく零に近しい。だが――。
「本当……なんだな。本当に、ここは……」
しばし、重い沈黙が落ちた。二人の微かな息遣いだけが、言葉をなくした部屋に響く。
「……そう、か」
ぽつりと呟き、レヒトは目を閉じた。まだ、頭の中は混乱している。だが、いつまでも悩んでいるわけにはいかない。
――仲間が、待っている。
「ミオちゃん、もうひとつ聞きたいことがあるんだ。俺がここに流されてから、何日が経っている?」
「今日で、二十五日です」
「そんなに……。それじゃあ、なおのこと長居はできないな……」
起きあがったその身体を、鈍痛が走り抜ける。ずっと横になっていたからだろうか。身体中の骨が悲鳴をあげた。
「あっ、だめです、レヒト殿。まだ動かないでください……!」
身を折ったレヒトを、立ち上がったミオが支える。動けるような状態でないことは、レヒト自身もよくわかっている。レヒトを突き動かしているのは、魔界で自分を待っていてくれているだろう、仲間の存在だった。
「……仲間が、待ってるんだ。魔界で――ロイゼンハウエルで落ち合う約束をした。連絡もしないで、ずっと寝てたなんて知れたら、きっと怒るだろうし……」
レヒトの脳裏に、仲間の姿が蘇る。きっと、怒るだろう。それでも、二人は、そしてラグネスとレイは――きっと笑顔で迎えてくれる。
――それだけが、壊れかけた心の支えとなっていた。
「……早く、戻らないと……」
「だめ、だめです。まだ、体力だって戻っていないのに。それに、魔界はもう……!」
はっとして、ミオが口を噤む。しかし、その時にはすでに遅い。
その言葉、レヒトに届いてしまった。
レヒトはゆっくりと、彼女のほうへ視線を移す。
「……ミオちゃん?」
「っ……ごめんなさい。なんでも、なんでもないんです……」
彼女を問い詰めるのは、酷かもしれない。だが、聞かなかったふりをすることは、できそうもない。
今の言葉は、レヒトの心から、そんな余裕を根こそぎ奪い去っていた。
「そういう目には……見えないな。教えてくれ。魔界は……なん、なんだ?」
声が震える。嫌な予感は払拭できない。心に、靄のようにかかったまま。
「……魔界は……」
長いような、短いような沈黙の後。ミオは、静かに話し始めた。
その言葉の続きを、聞くのが怖かった。先程、夢の中で見た光景――闇の中に、独り置き去りにされるような――恐怖が、湧きあがる。
「魔界首都ロイゼンハウエルは……天界が崩落したことにより、壊滅。いいえ、ロイゼンハウエルだけではありません……。魔界各地は、天から降り注いだ黒い光によって……。無事だった街は、数えるほどしか残っていないと……そう、聞きました」
レヒトは、言葉を失った。
「……そん、な……。そんなことが……」
その瞳からは光が消え去り、代わりに宿るのは、深い絶望。
「っ……」
レヒトを支えていた腕を離し、胸を押さえて、ミオが数歩後ずさる。後悔と、なぜか苦痛の表情を浮かべて。
「ごめんなさい……」
レヒトは、なにも答えなかった。
「後で……お水をお持ちします……。今は……どうか、お休みください……」
そうとだけ、言い残して。ミオは、部屋を出て行った。
「……は、はは……」
独り残されたレヒトは、呆然と虚空を見つめたまま、ただ、嗤うことしかできなかった。
「……快……シャウト……、……レイヴン……」
天界は、崩落したという。ロイゼンハウエルは、壊滅したという。
快は、助からなかっただろう。シャウトは、生きてはいないだろう。――レイヴンはもう、いない。レイも、ラグネスも。大切な人は、皆、いなくなった。レヒトを置いて、いってしまった。
「……どうして……俺は生きているんだろうな……」
いっそ、あのまま死んでしまえばよかったのに。二度と目覚めなければよかったのに。
涙が溢れた。頬を伝う涙を、拭うことさえ忘れて、レヒトは嗤い続ける。
哄笑だけがいつまでも、小さな部屋に響き渡っていた。