side story 2 胎動
煙の充満する薄暗い通路を、男は走っていた。
立ち込める黒煙が視界を遮り、なにかに足をとられて転倒する。
身体を起こしながら、足に絡みつくものを確認すれば――。
それは白い腕だった。逃げ遅れたのだろう若い女性が、最期の力で男の足を握り締め、救いを求めて虚ろな目を向けていた。
その双眸には強い光が宿っていたが、それが刹那のものであることに男は気付いていた。崩れ落ちた瓦礫に下半身を潰され、女性の命も尽きかかっている。だが、それでも女性は掴んだ男の足を離すまいと、最期の力でしがみ付く。
彼女の腕に抱かれた幼い少女は、もう息をしてはいないようだった。
男は目を細め、命の灯が消えた少女の亡骸を見つめた。虚空を彷徨うその目の向こうに見たのは、男が愛してやまない、大切な少女の笑顔。
(……待っていろ。今、助けにいくからな……)
悠長にしている時間などない。急がなくては。
『……お……願、い……この娘、を……た……すけ……』
煙に咽喉でもやられているのか、掠れた声で縋る女性。どこにそんな力があるのか、掴まれたままの足がみしりと小さな音を立てた。
男はなにも答えずに、少女から女性に視線を移した。彼女は、気付いていないのか。すでに彼女の愛する娘が、その命を失っていることに。
見上げる女性の目から、徐々に消えゆく光。男は自らの足を掴む女性の手を握り――引き剥がした。
『……すまない。私は……』
返る言葉はなかった。ただ、男に向けられたままの女性の目に、苦悶の色はなく。
――死に顔は、穏やかだった。
『すまない。……本当に……』
男は、再び走り出す。その途端、背後で響いた爆発音と震動に、思わずそちらを振り返れば。
先程まで男がいたあの場所は炎と瓦礫とに支配され、その向こう側――あの女性や少女の姿を、確認することはできなかった。
『……』
こんな状況下で理性を保っていられるのは、今までに多くの死を見すぎ、感覚が麻痺しているからか。それとも、頭の中はもうとっくに狂ってしまっていたのだろうか。
また、遠くで響く爆音。衝撃で、大地が大きく揺れた。壊れた外壁の隙間から、男は外の世界の惨状を目にし、ゆっくりと首を振る。
紅に染まった世界。空は焔に、大地は鮮血に。
壊れてゆく世界。あと、何人が生き残っているのだろうか。
誰が信じるだろう。この世界に、ほんの数時間前までは、人々が平和に暮らしていたということを。世界が滅びるなど、それこそ考えもせずに。
誰が信じるだろう。この壊れた死の世界が、わずか数百年の昔には、緑と水の楽園と称えられた、真に美しい平和な世界であったということを。
どこで間違えたのだろう。進むべき道を、選ぶべき未来を。その手に余る力の使い道を。
『これは……神が与えし罰か』
愚かな人間たちに、神が与えた罰。そういえば、かつてそんな物語を読んだこともあったな、と男はわずか苦笑した。その時は、大地のほとんどが水に沈んだという。今度は、空も大地も、深紅に染まった。
前者は嘆きの涙、そして今度は怒りの焔か――神は人間に愛想を尽かしたのかもしれない。
――それでも、と男は思う。彼らだけは守ろうと。どんなことをしてでも、神に逆らってでも守ってみせると。
男の脳裏に蘇る、愛しき者たちの笑顔。男は拳を握り締めた。
『……守る。お前たちだけは、私が必ず……!』
金色の瞳に、強い光を滾らせて。先に待つ光を求め、男は薄暗い道を駆け抜けて行った。