side story 8 迷夢
『……ん……』
瞳を開いて最初に飛び込んできたのは、見慣れた机と開かれたままの古ぼけた本だった。
いつの間にか、机に突っ伏したまま眠っていたらしい。
陽は、まだあまり傾いていない。それほど長い間、眠っていたというわけではないようだ。
さして長くもない眠りの中で、男は夢を見ていた。記憶をなくした、紅髪の青年の夢だ。
正直、男は驚いていた。
夢を見たことにではなく、自分が眠っていたことに、だ。
睡眠も、そして食事も、男の身体は必要としない。
生きとし生けるものたちが、命を維持するために絶対必要なそれらの行為――精神的な効果は別として―それが男の身体に影響を与えることはない。
『……夢など見たのは……いつ以来のことか……』
まだはっきりと覚醒しない頭で、先ほど見た夢の内容を思い出す。
男は気になっていた。理屈ではなく、本能的に。
今より十年ほど前、ヘヴンを滅亡の危機に追いやった出来事がある。
一般的には大異変と呼ばれる事件で、その時の恐怖は、今も人々の記憶に鮮明に焼き付いている。
先ほど男が見た夢は、まさにその大異変当時のものだったようなのだ。
歓喜に湧く人々、破壊された街、そして激しい戦いの爪痕。
そんな中、誰の目にもとまることなく独り彷徨う青年に、差しのべられた腕。
たかだか夢の話、それが実際にあったことかどうかなど、定かではないし、たとえ実際の出来事であったとしても、男にはなんの関係もないのだが。
『しかし……なぜ……?』
口元に指をあて、男は呟く。
夢に見た青年は、自分の名前すら覚えてはいなかった。そんな彼が一言だけ発した言葉。
それは、この世界では、男以外には三人しか知らないはずの名前だったのだ。
『……まさか、な』
単なる夢、といってしまえばそこまでなのだが、男は胸に生まれた妙な感情を捨て去ることができなかった。
十年前の大異変。崩壊の危機からヘヴンを救ったのは、男自身。そのとき失くしたなにかを、見つけたかのような感覚。
愛する者を救うため、この世界――楽園を守るために、なんの迷いもなく、男は今まで行動してきたというのに。
今、男の胸には迷いが生じていた。ずっと昔、そう、十年前に捨て去ったはずの迷いが。
『あれは……いや、そんなことは……だが……』
男は純白の髪を掻き毟った。
そんな時、ふと目に入った金縁の姿見。まだ男が人間であった頃に、男の大切な人が持っていたのと同じものだ。彼女のことが忘れられず、なんとなく同じものを作って持っていたのだが――そこに映り込む自分自身に、あの紅髪の青年が重なった。
自分ではどうすることもできないもどかしさを胸に抱き、男は小さくため息を吐いた。