第68話 崩壊への道標-1-
黒い光というものが存在するというのならば、それは確かに黒い光としか表現できないものだった。いや、ひょっとすると、これを闇と呼ぶのだろうか。
黒い光とともに、生きとし生けるものの生む冷たく暗い感情――そのすべてを混ぜあわせたかのような、強烈な衝撃が襲いかかる。
「……!」
耐えることなどできない苦痛に胸を押さえる。あげかけた悲鳴は、声にならなかった。発狂しなかったのは、奇跡に等しい。
全身から力が抜け、崩折れるように倒れ込む。床に倒れるその寸前で、快の身体は抱きとめられた。先程まで、彼女を拘束していた男の腕に。
――それだけで、不思議と苦痛が和らいだ。
(……レヒト?)
視線を移せば、自らを見つめる鋭い琥珀色の瞳とぶつかった。そこに重なる、優しいワインレッド。
彼の唇が言葉を紡ぐ。声など聞こえはしなかったが、快はゆっくりと頷いた。
(……大丈夫だよ。僕は、大丈夫だから)
押しつぶされそうな胸では、そんな言葉すら声にならなかった。代わりに――それが、きちんと笑顔になったかはわからないが――微笑んで見せれば、彼は快から、黒い光の中心部へと視線を移した。
同じように快も視線を向け――瞬間、黒い光が掻き消えた。
攻撃がやんだ、というわけではない。それは、そもそも攻撃などではなかったのだから。
今まで眠っていたものが、目覚めた。ただ、それだけ。それだけで、魂と肉体とが恐怖に震えたのである。
あの『大いなる意思』でさえ、無数の亀裂が走った謁見の間の床に片膝を付き、荒い呼吸を繰り返しながら――いつの間に移動したのか、ゆったりと玉座に腰掛ける子供の姿をしたものへと、その鋭い視線を向けるのみ。
ほんの一瞬前までは、レイヴン=カトレーヌという子供だったもの。
「……ふぅむ。人間の身であるがゆえか、力が戻らぬ……」
声だけは、かつての無邪気な子供のままに。それは両手の感覚を確かめるように、小さな手を握ったり開いたりしながら呟いた。
「『CHILD』……」
『大いなる意思』の声に反応してか、レイヴン=カトレーヌの姿をしたもの――『大いなる意思』が『CHILD』と呼んだものが視線を動かした。
「ほぅ……懐かしい顔よ。主らの世界崩壊以来となるか。こちらの人間の身体を通し、こうして出会うことになるとは思わなんだ」
面白がるような眼差しを向けられ、『大いなる意思』は低く呻いた。
「創世の刻、まどろみの中にあったお前が今頃となって主が前に姿を見せるとは。今一度、主に支配されたくなったか? お前が望むのであれば、またあの頃のように可愛がってやろう、アル……」
「黙れ!」
『CHILD』の言葉を遮るように、『大いなる意思』が声を張り上げた。それが、湧き上がる恐怖を抑えるための行為なのだと、快はなんとなく理解していた。
「私は貴様の言いなりになどならん! ……もう二度と!」
血を吐くようなその言葉。『CHILD』はクスクスと笑った。
「面白い。主が呪縛、解けるというのならばやってみるがいい。遠慮はいらぬぞ」
『CHILD』は面白がるように両手を広げた。『大いなる意思』の掲げた掌に、強い精霊の流れが渦巻く。
「滅びよ『CHILD』!」
『大いなる意思』の放った、鼓膜を揺るがす威力の衝撃波。それはガルヴァに、そしてレヒトに対して放たれたそれとは比較にならないものだった。
しかし、スタッフを振るうでも、掌を掲げるでもなく。
なんの動作もなく――それはあっさりと虚空で掻き消え、ふわり、と『CHILD』の長い髪の一房を揺らすのみ。
「ふぅむ……」
揺れた銀色の髪を眺め、『CHILD』が呟く。
「髪が泳いだな。完全に打ち消したと思ったのだが……この身体、まだ使いこなせてはおらぬか」
「……!」
今度こそ。『大いなる意思』は言葉を失った。
うろたえている。レヒト一行を歯牙にもかけなかった、あの『大いなる意思』が。
「人間の身体は扱い難い。……そこの者たち。少しばかり主の余興に付き合え。身体を馴らさねばなにもできぬ」
手にしたスタッフで軽く肩を叩きながら、『CHILD』が言い放つ。
「どういうことだ、そりゃあ……」
その言葉の意味を掴めなかったのか、シャウトが眉を顰める。それに答えたのはシルディールだった。
「自分と戦え、と。……そう言っているのですわ……」
その言葉に、快とシャウトが息を飲む。
「主はまだこの身体を使いこなせておらぬ。これでは満足に動くこともかなわぬゆえ、少し身体を馴らしておこうと思ってな……」
言って、『CHILD』は幼い顔には似合わぬ微笑を浮かべた。
「対価として、お前たちに機会を与えよう。主と戦い、主を倒す機会を。……悪い条件ではあるまい?」
『CHILD』がその気になれば、さしたる時間もかけず――おそらくものの数瞬で、一行を倒すことができるだろう。
それは『大いなる意思』の放った衝撃波を容易く消滅させて見せたこと、そしてなにより『大いなる意思』の態度が証明している。
余興なのだ。これは。『CHILD』自身が言ったとおり。
「……そうか」
声は、すぐ後ろで聞こえた。
快を支えていた琥珀色の男が、ゆっくりと立ち上がった。その両手に、数本の投げナイフを握り締めて。
「ならば、その余興とやらに付き合ってやろう。……だが、後悔することになるぞ」
「だめ!」
『CHILD』が反応を返す前に、快が彼を押し止める。
「だめだよ! あれはレイヴンなんだ! 戦うなんて……できるはずない!」
「……快……」
琥珀色の瞳が、困ったように揺れた。
「ふぅむ……それならば致し方ない。お前たちが本気になれるように、主が少し手伝ってやるとしようか。どれ……」
とっておきの悪戯を思い付いた子供のように――レヒトをからかう時のレイヴンと同じように笑って、『CHILD』が指を鳴らす。
その瞬間だった。
大地が、蒼穹が、世界が脈動し――遠い咆哮が、響いた。
「貴様ぁっ!」
『大いなる意思』が吠える。なにが起こったのか、理解したのは彼だけだろう。
――十年前、ヘヴンを滅亡の間際まで追いやった大異変が、再来したことを。
「……今、なにを?」
小さな声で問いかける快に、『CHILD』が答える。
「主の下僕らを呼び出した。お前たちは、魔物などと無粋な名を付けて呼んでいたようだが」
「魔物、だと……? じゃあ、お前が元凶だっていうのか。魔物出現、異常気象……全部、お前の……」
「……そうだ」
『大いなる意思』が、シャウトの言葉を肯定する。
「あれは……『CHILD』はこの世界を滅ぼそうとする意思そのもの。あれを滅ぼさねば世界が滅ぶ」
それは、あまりにも残酷な宣言だった。
「嘘、そんなこと……だめだよ、そんなことは! レイヴン……レイヴンが……!」
「……教授を……仲間を倒せってのかよ! 冗談キツイぜ……!」
「お喋りも飽きた」
二人の言葉を掻き消すかのように声をあげ、『CHILD』はゆっくりと玉座から立ち上がる。幼い顔がほんの一瞬だけ、泣きそうな表情を浮かべたようにも見えた。
「お前たちから来ぬのならば、主からゆくぞ」
一方的にそう告げて、手にしたスタッフを振り上げる。
「耐えられるか?」
『CHILD』の周囲に、黒い光の球が浮かぶ。
「くっ!」
固く乾いた音とともに、『大いなる意思』が生み出した防御壁が一行を包み込む。それとほぼ同時に、『CHILD』に纏わりついていた黒い光が解き放たれた。
『大いなる意思』の防御壁に弾かれ、黒い光が周囲に散った。弾かれた黒い光は床や壁には傷のひとつも残さず千切れ舞うが、あれが生きとし生けるものの身体に、そして精神にどのような影響を及ぼすのかは想像に難くない。
「面白い……さあ、耐えてみせよ!」
哄笑が響く。
『CHILD』が、その力を強めたのだろうか。防御壁を張るために、『大いなる意思』が掲げた両手から、鮮血が吹き出した。
「『大いなる意思』……!」
シルディールが悲痛な声をあげた。
『大いなる意思』は苦痛に歪む顔をシルディールに向ける。
「行け!」
『大いなる意思』の言葉を受け、シルディールに躊躇いの色が浮かぶ。言葉の意味は理解しているのだろう。だが、傷を負った『大いなる意思』が気になるのか、彼女はその場を動こうとはしない。
「しかし……それでは貴方が……!」
「なにを迷う! お前たちで、できうる限りのことを……できうる限りの者を……!」
「……シルディール」
なおも躊躇うシルディールに、横手から声がかけられた。そちらを見やるシルディールを、鋭い琥珀の瞳が射抜いた。
彼女は、なにかを押し殺すように俯いて。
「……わかりましたわ。ご無事で……『大いなる意思』……!」
そう言葉を残し、背後の大扉へと走り去る。
「あっ……待ってよ、ねぇ! なんなの!? 全然わかんないよ……!」
その後を追って走り出した男に、快は縋るように言葉を投げる。振り返ることはせず――男は一度、立ち止った。
「……必ず、迎えに戻る」
「っ……!」
その姿は大扉の向こう、伸びる赤絨毯の廊下へと消え、すぐに見えなくなった。
(待って……待ってよ! おいて……いかないでよ……!)
溢れそうになる涙で、視界が滲む。
(やっと見つけたのにどうして……どうしてこんなことに……どうして……)
そんな快の意識を覚醒させたのは、『大いなる意思』の漏らした小さな苦悶の声だった。
「……ぐ、ぅっ……」
両手から溢れた鮮血が滴り、薄紫色の法衣の袖を、じわりと深紅に染め上げる。
快は口の中で古き言葉を紡ぎ、かろうじて残った精神力を振り絞る。
「光よ、護れ!」
快の発した言葉に従い、『大いなる意思』の防御壁が、微かな淡い光を放った。
「なぜ……?」
振り返らぬまま問いかける『大いなる意思』に、快は小さな声で答える。
「……貴方が悪い人には見えないから。貴方から見れば微力だろうけど、僕も力を貸すよ」
「そういうことだな」
続くシャウトの吠え声で、防御壁がわずかな光を宿す。
「その代わり、ここをなんとか突破したら……ちゃんと説明してもらうぜ、色男さんよ!」
『大いなる意思』はなにも答えることなく、静かにその目を閉じた。
「ほぅ……よく耐える。……しかし、もう限界のようだな。身体が震えているぞ」
クスクスと笑う『CHILD』。悔しいが、悪態を吐くだけの余裕もない。ほんの少しでも気を緩めれば、防御壁は崩壊してしまうだろう。
強い、などという言葉では到底表わせない。
わかった気がするのだ、今更ながらに。『大いなる意思』があれほどまでにレイヴン――『CHILD』を葬ろうとしていた理由が。
――圧倒的すぎる。
今も『CHILD』はわざわざ紙一重の手加減をしているのだ。かろうじて、耐えられるだけの力。
まるでじわじわと、真綿で首を絞めるように。
『CHILD』は『大いなる意思』へと視線を向けた。この場に似つかわぬ、慈愛の色を瞳に湛えて。
「安心するがいい。お前は殺さぬ。……主はこの世界で目的を果たす……お前には、主のためにもう一度戦ってもらわねばならぬからな」
「やめろ……!」
声を振り払うように首を振る『大いなる意思』を愛おしげに見つめ、『CHILD』は囁く。
「……神よ」
「やめろぉっ!」
『CHILD』の言葉に重なって、二人の声が。
零れ落ちたスタッフが乾いた音を立て、傍の床へと転がった。
「もうやめるんだ……レイヴン!」
全身に傷を負い、床に倒れたままのレヒトを見て。
『CHILD』の身体が小さく震え、纏わりついていた黒い光が消滅した。
「……ぁ……レヒ……ト……?」
唇が、小さく彼の名を紡いだ。