第67話 罅割れたセイクリッド・ティア
飛び散った鮮血が、真白い頬に紅い筋を残す。開かれた瞳に映し出されたのは、血に染まった、銀色の煌めきを放つ大剣だった。
「えっ……?」
一瞬、なにがどうなったのかわからずに、レイヴンは小さく声をあげていた。
恐怖に眼を閉じたレイヴンには、『大いなる意思』がレイピアを振りあげたその瞬間、なにが起こったのかはわからなかった。だが、風を斬る微かな音と、なにかがぶつかるような鈍い音に、恐る恐るその目を開き――飛び込んできた光景がそれだった。
『大いなる意思』は、レイヴンが瞳を閉じる前とまったく同じ格好で、レイヴンの目の前に立っていた。
ただひとつ違うのは、その胸から生えた一振りの大剣。
薄紫を基調とした服に、真紅の染みが広がってゆく。『大いなる意思』は表情ひとつ変えぬまま、血に染まった刀身を眺めていた。
――自らの胸を貫く、レヒトのセイクリッド・ティアを。
「……」
懇親の力を籠め、体当たりをかけるように突き出された剣は、深々と『大いなる意思』の胸に潜り込んでいた。剣の切っ先から、ぽたりと鮮血が滴り落ちる。
沈黙が支配する中に響く、獣を思わせる低く荒い息遣い。
「……レイヴンに……触るな……」
レヒトが、呟く。その瞳に、獰猛な肉食獣のように、鋭い光を滾らせて。
『大いなる意思』の胸を貫いていたセイクリッド・ティアを、レヒトは後ろに飛ぶ形で一気に引き抜いた。
ずるり、という嫌な音と、床を叩く血の音とが、静寂に包まれた謁見の間に響き渡る。
自らの胸を貫いていた剣を引き抜かれ、支えを失った『大いなる意思』の身体は、ふっと揺らめき――。
それだけだった。
彼は、ただ振り返っただけなのだ。レヒトのほうを。
「なっ……」
驚愕に声をあげたのはレヒトか、はたまた後ろの二人だろうか。
レヒトのセイクリッド・ティアに貫かれた胸の傷は、『大いなる意思』が振り返るまでの一瞬の間に、傷跡さえ残さず癒えていた。
「今の一撃は……驚いたぞ。まさかお前に、それほどの力があるとはな」
「……レイヴンには、指一本触れさせない。俺が守る!」
一度は引いた剣を、レヒトは再び構え直し、床を蹴り、一気にその間合いを詰める。
剣と剣とがぶつかりあう甲高い音が響き渡り、絡みあうふたつの刃が、文字通り火花を散らした。やむことのない剣撃の響きが、その激しさを物語る。
矢継ぎ早に繰り出されるレヒトの斬撃を、『大いなる意思』は片手のレイピアでなんなく受け流す。
シャウトほどではないにしろ、レヒトの一撃にもじゅうぶんの重さと力が乗っている。それを、『大いなる意思』はその場に立ち止まったまま、片手で捌いているのだ。
自分からは、仕掛けてすらいない。
まるで、遊んでいるかのように。
「くそっ……どうして……!」
「……太刀筋が読まれているのか、だろう? その答えはわかっているはずだ」
震える声で呟いたレヒトに、『大いなる意思』は面白くもなさそうに言葉を返した。
「くっ……おぉぉおっ!」
烈帛の気合いとともに剣を振り降ろすレヒト。それは、内心の動揺を隠すためのものだったのかもしれない。
「……そろそろ終わりにしようか」
一方的なレヒトの攻撃を捌き続けていた『大いなる意思』が、そのとき初めて攻撃に転じた。
その表現は、ある意味では間違っている。彼は掴み取っただけなのだ。
レヒトの振り降ろしたセイクリッド・ティアを、空いた右の掌で。
「!」
先ほど、『大いなる意思』の身を切り裂いたはずの刃は、彼の手によって――素手で、軽々と掴まれていた。
「……いかに剣が優れていようと」
『大いなる意思』の唇が、静かに言葉を紡ぐ。
「使い手がお前では、私には届かない……」
剣を握るその手に、わずかに力を籠めたようにも見えた。
その瞬間だった。
ぱきん――小さな音を立て、セイクリッド・ティアに無数の亀裂が走った。
「お前では、決して……」
掴まれていた部分から走る亀裂は、今や全体に広がっている。
「……私には、届かない」
掴んでいたセイクリッド・ティアから手を離し、空いた右手で虚空を薙ぐ。
軽い右手の一振りで、生み出された衝撃波。
周囲の壁に亀裂が走り、かなりの高さがある天井からは、ぱらぱらと欠片が剥がれ落ちた。
「……ッ!」
レイヴンは声にならない悲鳴をあげていた。駆け寄りたいのに、膝が震えて立ち上がることさえできない。
放った衝撃波の反対側――『大いなる意思』の背後にいたレイヴンはなんの被害も受けなかったが、前方にいた三人――至近距離でその一撃を浴びることになったレヒトは、まず間違いなく無傷では済まない。
壁にすら亀裂を入れるような破壊力である。人間の身体で、それに耐えられるはずがない。
最悪の事態が脳裏をよぎり、レイヴンの瞳を絶望の色が染めあげ――。
「ルュゥォォォォオン!」
「焔よ、踊れ!」
左右から挟み込むように、眩い光と紅蓮の業火とが、『大いなる意思』に襲いかかった。ようやく金縛り状態から脱した二人が、左右へと回り込んで攻撃を仕掛けたのだ。
シャウトの放った竜の吐息と、快の生み出した焔とが、その身体をまともに直撃するが――。
「……児技だな」
それが、『大いなる意思』の返した反応だった。
「ちぃっ!」
追撃をかけたシャウトが横薙ぎに戦斧を振るうが、『大いなる意思』はあっさりと身をかわす。二度、三度と繰り出されるシャウトの攻撃は、左手に握られた白銀のレイピアによって防がれた。
「焔よ、踊れ!」
シャウトと剣をあわせ、動きのとれない『大いなる意思』めがけ、再び快の手に宿った、紅蓮の焔が降り注ぐ。
「……何度やっても無駄だ」
迫り来る焔に向け、『大いなる意思』が右手を掲げ――。
「爆ぜよ!」
快の言葉とともに焔が弾け、幾筋もの螺旋を描く。焔は『大いなる意思』の周囲の床に突き刺さって爆発し、細かい破片を舞いあげた。
「!」
虚を突かれ、一瞬『大いなる意思』はその動きをとめる。
「恨むなよ!」
そこを狙い、袈裟懸けに振りおろされたシャウトの戦斧。いかに並外れた反射神経を誇ろうと、これはかわせる間合いではない――が。
風の唸りさえも伴い、吹き飛ばされたのはシャウトのほうだった。大きく体勢を崩しながらも、シャウトはなんとか足から着地する。
しかし、彼は着地と同時に床に膝を付いた。
「なっ……!?」
その足元にうっすらと浮かびあがる魔法陣。それが、彼を戒めているのだ。
『大いなる意思』ではない。正面の大扉から現れた、茶色い髪の美しい女性――ティークウェルの街で出会ったシルディール。
近付いてくるシルディールを見上げ、シャウトは呟く。
「おいおい……女とやりあうのは……俺様の趣味じゃねぇっつのに……」
シャウトの言葉に、シルディールはおっとりと微笑んだ。
「ご安心ください。私が貴方の動きを封じるだけ。やりあうことにはなりませんわ」
爆発による目くらましと同時に、レヒトのほうへと駆け寄ろうとしていた快も、シャウト同様、その動きを戒められていた。忽然と彼女の背後に現れた、一人の男によって。
金髪に褐色の肌、琥珀色の瞳――かつて、真魔界で対峙した、名前も知らぬあの男。
「……おとなしくしていろ」
背後から抱きすくめるように快を拘束する男が、囁く。その声に――快の瞳が揺らいだ。
「私の邪魔はしないでもらおう。『CHILD』を滅ぼす……誰にも、邪魔はさせない」
『大いなる意思』が、首だけを動かして、横目でレイヴンに視線を向けた。
ぞくり、とレイヴンの背筋を冷たいものが伝う。
「くそっ! 教授に手ぇ出すんじゃねぇ!」
「逃げて、レイヴン!」
レイヴンの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「快……シャウト……! ごめんね……ごめんね……!」
自分には、なんの力もない。大切な人を、守るだけの力すらない。
――力が欲しい――
力があれば、快も、シャウトも、レヒトも――そしてガルヴァも、守れたかもしれないのに。
大切な人が傷付き倒れてゆくのを、救うことができたかもしれないのに。
――なにもできずに、ただ震えているだけなんて――
「力が……欲しいよぉ……ッ!」
血を吐くような悲痛な声に、低い呻き声が重なった。
「……まだ生きていたか」
『大いなる意思』が発した言葉に、レイヴンは顔をあげた。
その言葉が差す人物――レヒトが、ゆっくりと立ち上がる。
「……死なせは、しない」
罅割れた聖剣を、両手に携え。
「俺の仲間を……傷付けさせは、しない」
剣と同じように、無数の傷を負った身体を引きずって。
「だめ……だめだよ、レヒト! レイヴンを連れて逃げて! 早く!」
「逃げるんだ、レヒト!」
快とシャウト、二人が叫ぶ。
しかし、レヒトは歩みをとめない。
「……その者たちを守ってやれ」
シルディールと、琥珀の瞳の男に、『大いなる意思』がそう命じる。
「……私は、もう迷わぬと決めたのだ……」
小さく呟き、『大いなる意思』は左手を、進み来るレヒトへと向けた。
「お前はもう必要ない。消えろ、我が弱き心よ!」
レヒトに向けられた『大いなる意思』の左手に、輝く光が集う。
「やめて……もう、やめて……!」
震える声は、なんとか意味ある言葉になった。
「レイヴンが狙いなんでしょう!? じゃあみんなは傷付けないでよ……!」
溢れ落ちた温かな滴が、床に落ちて砕ける。
「……お願い……だから……!」
――なんて、無力なんだろう――
「ぐすっ……助け、られない……」
――大切な人を、守ることすらできないなんて――傷付けてしまうなんて――
「……ふぇっ……ごめん、なさい……」
――もっと、力が――大切な人を、守れるだけの力があったなら――
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
――誰も、傷付けずにすんだかもしれない――
「レイヴンのせいで……!」
――傷付けてしまって、ごめんなさい――
泣き叫ぶレイヴンの周囲に、黒い闇が生まれた。
決して救われることのない、冷たく、哀しい、光なき闇が。
『大いなる意思』が放った光は、レヒトの身を貫く寸前で、彼の周囲に生まれた闇に飲まれて消滅した。
「なんだとっ!?」
今度ばかりは、その顔に驚愕の色を滲ませた『大いなる意思』が、レイヴンのほうを振り返り――。
「うわぁぁぁぁッ!」
レイヴンの意識が、爆ぜた。