第64話 愛しき貴女に花束を-2-
「けど、驚きました」
ようやく落ち着きを取り戻したレヒトが言うと、ジーナは嬉しそうに笑った。彼女はよく笑う。
「アタシの息子も、アンタと同じ赤毛。父親に似たのね」
レヒトを見て、ジーナは目を細めた。年が近いという息子を見ているのか、それとも――。
「あの男も旅人だった。一夜限りってわかってたのに、アタシったら。その男が別れ際に言った、迎えに来る、なんて安っぽい台詞信じて。アタシも、当時はそのくらい純粋だったわけよ」
「……ジーナさん。すみません……俺、考えなしに……」
「いいわよ、そんなこと。なんか、久しぶりにガレオンと会ってるみたい」
ジーナの息子の名前だろうか。
「……息子さんに、ですか?」
「そ。今は離れて暮らしてるのよ。いくら金がないからって言ったって、母親が花籠の女なんて嫌だろうし……仕方ないわね」
「そんなこと、ないですよ。息子さんだって、絶対にそんな風には思ってないはずです。……俺はそう思います」
十歳以上も年の離れた女性に、こんなことを言って、生意気だと思われただろうか。
それでも、レヒトは言わずにはいられなかった。
「そう思ってみるのも、悪くはないかもしれないわね。アンタは優しいのね。やっぱり似てるわ」
誰にとは、言わない。
「長々と引き留めて、悪かったわね。そろそろ戻ったほうがいいわ。誤解を解くのは大変よ」
「……いえ、俺のほうこそ失礼を」
レヒトが立ち上がると、ジーナも席を立つ。ジーナは店の前までレヒトを送った。
「アタシは仕事に戻るわ。それじゃ」
「さようなら、ジーナさん」
頭を下げ、レヒトは大通りへと抜ける道を歩き出した。
大事にしてあげなさい、と。その背にジーナの声がかかる。
振り向けば、彼女が笑って手を振っていた。
ジーナは、去り行くレヒトに、愛した男の影を見ていたのか。そして、その記憶に、別れを告げようとしているのか。
「……さようなら」
もう一度だけ頭を下げて、レヒトは今度こそ、振り返らずにその場を去った。
そろそろ宿屋へ帰ろうかと歩いていたレヒトが不意に足を止めたのは、さして行かぬうちだった。
「しまった……。ランプを忘れて来た」
自分のものならともかく、あれは宿屋の備品である。返さないわけにはいかない。
仕方なしに、レヒトはもと来た道へと踵を返し――。
突如響いた凄まじい破壊音に、レヒトは考える間もなく駆け出していた。
破壊音は、レヒトが戻ろうとしていた方向。今までレヒトがいた、あの花籠のほうから聞こえてきた。たまたま方向が同じだけで、花籠からのものだとは限らない。
しかし、レヒトは湧きあがる嫌な予感を、払拭することができなかった。
辿り着いたレヒトが目の当たりにしたのは、驚愕の光景。
「これは……!」
そこは、確かにあの花籠があった場所――だろう。
周囲には安宿や酒場が立ち並ぶ、人々に一時の娯楽と安息、そして快楽とを提供する夜の顔。だが、そこはもはや原型を留めてはいなかった。
花籠も、安宿も、そして酒場も。もう、そこには存在しない。
立ち上る黒煙、燃え上がる炎。微かな風を切る音に空を見上げれば、炎と月明かりに照らされた、飛び交う無数の黒い影。
一瞬で破壊され尽し、炎に焼かれる建物。その中に、すでにこと切れているのか、ぴくりとも動かず倒れ伏した人々の姿――。
「ジーナさんっ!」
無駄とわかりつつも、その名を呼ぶ。
彼女は仕事に戻ると言っていた。破壊された、この建物の残骸の中にいるのか、それとも……。
絹を裂くような悲鳴が上がったのは、そんな時だった。
レヒトは躊躇うことなく走り出す。途中、駆け付けた傭兵や、起き出してきた街の住人たちとすれ違い、ぶつかったりもしたが、そんなことは気にしていられない。
レヒトが向かったその先は、彼が最初にジーナと出会った場所。そこは、街の大通りから東側へ、エンブレシアの夜の顔へと通ずるひとつの道。
走り抜けた先に、その場所があることを願って。栗色の髪の女性が、その場に立っていることを祈って。
右に、左に折れ曲がる路地を、レヒトは一気に駆け抜けて――。
周囲の建物はものの見事に破壊され、その場所は、ずいぶんと見張らしがよくなっていた。
そこが道だったのか、それともなにかが建っていたのか……それすらも、もはや確かめる術はない。
視界が一瞬、強烈な光に覆われ、同時に吹き付けてきた熱風と衝撃。レヒトはとっさに両手で顔を覆う。
弾き飛ばされてきたなにかが、レヒトの側に転がった。
――鎧ごと腹を大きく薙がれ、絶命した男。この街の警備兵だろうか。その手には槍が握られている。
「ぐぁっ!」
もう一人。突風に飛ばされたのか、若い男性が民家の壁だったと思わしき瓦礫の山に激突した。死んだ男と同じ形式の鎧を着込んでいる。槍がその手を離れ、乾いた音を立てて大地に落ちた。
「……ぐっ! げほっ……かはっ!」
彼は身を折り、激しく咳込み――それでもゆっくりと立ち上がると、炎に照らし出された異形の生物へと視線を向けた。
青みがかった緑色の鱗に覆われた皮膚。絶え間なく動く眼球。そして風を切り裂く、一対の肉翅。
人の数倍はあろうかという、巨大なトカゲに似た魔物――ワイバーン。目撃例は極めて少なく、あのゴーゴンなどとも並び称されるほどの、邪悪にして凶悪な魔物。
ワイバーンの足の下から、わずかに覗く栗色を見付けて、レヒトは思わず息を飲んだ。
その肉を食らおうと、ワイバーンの鋭い爪が閃き――。
「やめろぉっ!」
青年が、拾い上げた槍を振り上げ、がむしゃらに突っ込んでゆく。
彼をとめようとレヒトは腰に手を伸ばし、舌打ちした。セイクリッド・ティアは、宿の部屋の中だ。
「よせっ……!」
レヒトの制止も間に合わず、青年は構えた槍をワイバーンめがけて振り降ろす。
耳障りな金属音とともに槍は弾かれ、その衝撃で青年は大きく体勢を崩した。
そこへ、ワイバーンが吐き出した炎が迫る。
「うわぁぁぁぁっ!」
炎は青年の顔を焼き、彼はその場に倒れ伏す。
それでも、炎に顔を焼かれながらも、青年は側に落ちた槍に手を伸ばした。
「っ……ぐぅ……かあ……さ……」
ワイバーンは青年に狙いを定め、肉翅を広げると風に乗り、一気にその距離を詰める。
しかし、ワイバーンの爪が青年に届くことはなかった。
瞬時に青年の前へと移動したレヒトが、彼の落とした槍を拾いあげ、槍を横に構えて爪の一撃をなんとか防いだからである。
「くっ……」
受けとめた衝撃で、腹部に鈍い痛みが走る。
そのまま空へと舞い上がったワイバーンは、再びもとの場所へと着地した。
威嚇するように肉翅を広げるワイバーンに意識を集中させたまま、レヒトは横目で倒れた青年の様子を窺う。
青年はぼんやりとした眼差しを、前に立ちはだかるレヒトへと向けていた。炎の直撃を受けた顔の右側が焼けただれているが、命に別状はなさそうだ。
だが、目の前のワイバーンをなんとかしない限り、運よく助かったこの青年の命も消えてしまう。
「……どうする。考えろ、考えるんだ……」
青年が先ほど試したように、空の覇者とも呼ばれるワイバーンには、警備兵が支給されるような、安価な槍は歯が立たない。
その硬い鱗は、なまくら剣などいとも容易く跳ね返す。
総じて魔物に効果的なのは、魔法。しかし、レヒトに魔法は使えない。
三闘神の力を賜りし聖剣、セイクリッド・ティアなら、この硬い鱗をも裂くことができるだろうが、それも今はない。
一匹のワイバーンとレヒトが対峙するその間にも、少し離れた場所では、建物が砕かれ、炎があがり、人々の悲鳴が夜の闇に谺する。
ワイバーンが再び肉翅を大きく広げ、今度こそ新たな獲物を仕留めようと、レヒトめがけて飛びあがる。
(くそっ……!)
その時――虚空から飛来した、無数の細く尖ったものが、ワイバーンの肉翅を貫き、空の覇者を地へと這わせた。
「ギャァォォォオン!」
肉翅を傷つけられ、怒り狂ったワイバーンが、その場所からは少し離れた、燃えあがる民家の屋根の上へと視線を移す。つられて視線を動かせば、炎の中に佇む、小柄な人影が目に映る。
「あれ、まだ生きてる。少しはやるじゃん」
面白そうにそう言って、その人影は手に構えた巨大なボウガンを乱射する。
放たれた小型の矢が、ワイバーンの硬い鱗を易々と砕き、その肉体に次々と突き刺さる。
全身に矢を受け、血を吹き出しながら、ワイバーンはしばし小刻みに痙攣していたが、やがて動かなくなった。
「あーあ、死んじゃった」
炎を背に佇み、楽しげに笑うのはまだ年若い少年だった。炎の熱に揺らめき、よくは見えなかったが――その左の背に、翼のようなものが見てとれる。
少年が、レヒトを見て声をあげた。
「なんで、こんな場所にいるのさ。大いなる……」
そう言いかけて、少年は首を振った。
「違う、違う。なんだ、よく見たら全然違うじゃん」
少年は構えていた巨大なボウガンを右肩にかけ、立ち上がる。
「君は……?」
「……あ。危ないよ」
振り返った少年の声とほぼ同時に、背後の建物が破壊され、その影からワイバーンが姿を現した。
「っ……まずい……!」
少年に気をとられていたレヒトは、狙われた青年を守れる体勢には、ない。
ワイバーンの鋭い爪が、夜の闇に閃いた。