第63話 愛しき貴女に花束を-1-
時刻はすでに真夜中を回っているが、エンブレシアほどの規模の街では、その灯りが消えることはない。
旅人や傭兵などを相手にするような、いわゆる夜の顔があるからだ。
レヒト一行が滞在している宿も、一階部分は食堂兼酒場になっており、宿泊している客などで、それなりの賑わいを見せていた。
獣油の燃える独特の匂いと、傭兵たちの飲む安酒の強い匂いとが鼻をつく。
酒に弱いレヒトなどは、この匂いだけで酔ってしまいそうだ。
「おや、お客さん」
その匂いから逃げるように扉のほうへ向かうと、酒と簡単な料理を厨房から運んできた女将に呼び止められた。
「ランプなんか持って、どこへ行くんだい?」
「少し歩きに行こうかと思いまして。すみません、勝手にお借りして……」
「ああ、それは構わないよ。自由に使っておくれ」
本来、こういった宿の部屋に備えつけられているランプは、泊まり客が使うためのものなのだ。旅人の間では常識なのだが、どうやらレヒトはそのことを知らなかったようである。
これではレイヴンと同等の世間知らず扱いをされても、仕方ないかもしれない。
「魔物がいなくなったとはいえ、片翼が出たっていうからね。まぁ……襲われたって話は聞かないから、大丈夫だとは思うけど」
側にある二人組の男女が座るテーブルに、注文されていたのだろう酒と料理とを置きながら女将が言った。
「安い酒や、簡単なつまみなんかでよければうちでも出してあげられるけど。花籠にでも行くのかい?」
投げかけられた言葉に、レヒトは思わず赤面した。
「ち、違いますよ。歩きに行くだけです」
真っ赤になって慌てて否定するレヒトを見て、女将は豪快に笑った。
側のテーブルの傭兵だろう女性が、そんなレヒトに視線をやって微笑む。健康的に焼けた肌が目に入り、レヒトはますます頬が熱くなるのを感じた。
彼女の向かいに座る男に、微妙に敵意の籠った視線を向けられ、レヒトは軽く咳払い。
「それじゃあ、俺は失礼します」
「気を付けて行くんだよ。あ、ちなみに花籠があるのは街の東側だからね!」
「だから違いますって!」
女将ばかりか客にまで笑われ、レヒトは店から逃げ出した。
傭兵たちの賑やかな笑い声が、扉越しに聞こえてくる。
いつ消えるとも知れぬ命。常に死と隣あわせの傭兵たちは、その人生を満喫するように騒ぎ、笑う。
それは、ともすれば、迫りくる死の恐怖を、忘れようとするからなのかもしれない。
「さて、どうするかな……」
久しぶりの自由だ、とレヒトは満天の星が煌めく空を仰ぐ。
眠れないときは、温かい食事でもとって横になればいいのだが、なんとなく、このまま寝てしまうのは惜しいと思ったのだ。
一人で気兼なく出かけられるのは久しぶりだし、星を見ながら歩くのも、いいかもしれない。
「よし……少し歩くか」
目的地も決めず、レヒトはランプの明かりを頼りに、エンブレシアの街を歩き始めた。
「ちょっと、放しなさいよ!」
そんな女性の声が聞こえてきたのは、街の中心部へ続く大通りから外れて、少しばかり歩いたところだった。
「ん?」
足を止めて声のしたほうを見れば、女性と男たちが揉み合いになっていた。
「なんだよ、いいじゃねぇかよ」
傭兵なのだろう、背中に剣を背負った男が、乱暴に女性の手を引く。
(……どこにでもいるんだな、ああいう男は)
同じ男として、少しばかり情けない気もする。嫌がる女性を助けようかと、レヒトが歩き出す前に、頬を叩く小気味よい音が乾いた空に響き渡った。
「いい加減にしな! アタシはそんなに安い女じゃないよ!」
レヒトは思わず立ち止まった。頬を叩かれた男も、呆然とした様子だったが。
「なにしやがる!」
周りにいた仲間だろう男のうちの一人が、女性に食ってかかろうとするも、頭に強烈な一撃を受け、白眼を向いて昏倒した。
「なんだ!?」
もう一人の男が慌てて振り返るが、その鳩尾に膝が食い込みあっさり気絶。
最後の一人、女性に頬を叩かれた男の意識はすでにない。というのも、他の二人の男たちが女性に気をとられている隙に、こっそりとこの男を蹴り、更に今まで踏ん付けていたからである。
「やれやれ。女性に対する礼儀を知らなすぎる」
「アンタ……」
倒れた男たちから、レヒトは女性のほうに視線を移す。
栗色の髪に、夕陽のような綺麗な色合いの瞳。真っ赤な紅を差した唇。胸を強調するような作りの薄いドレスを身に纏っている。
夜の顔に生きる女性なのだろう。とすると、先程しばき倒した男たちは、彼女の客だったのか。
三人の男をしばき倒したレヒトを、女性は驚いたように見つめていたが――その唇が笑みを形作り、彼女はレヒトに思いきり抱きついた。
「うわっ!」
バランスを崩しそうになるが、ここは男の意地、なんとか体勢を保ち、女性の肩に手を置いてそれとなく引き離す。
「大丈夫ですか?」
そう問いかけたレヒトに、女性が妖艶に笑う。
「平気。助けてくれてありがとう」
「女性に対する態度じゃないと思っただけですから。じゃあ……」
失礼します、と言いかけたレヒトの腕を、女性が掴んだ。
「さよなら、だなんて連れないこと言うのはよしなさいよ。少し、店に寄っていけば?」
真っ赤な唇が微笑む。
「えぇっ!? い、いや……俺は……」
「うふふ、アンタ純情なのね。別にやましい意味じゃないわよ。助けてくれた礼くらいしたいの」
女性はレヒトの返答を待たず、ぐいぐいと引っ張っていく。
彼女が案内したのは、やはりひとつの花籠だった。店の中には、客を待っているのだろう若い女性が何人か。
レヒトが連れて行かれたのは奥の個室だった。簡素な椅子とテーブル、そして更に奥へと続く扉があるだけだ。客を入れるような部屋ではないらしい。
「アタシたちが休憩に使う部屋よ。誰も入って来ないように言っておいたから」
「あ、はい……」
ガチガチに固まっているレヒトに、女性は笑みを溢す。営業用の笑顔ではなく、本心から笑っていることがわかる。営業用の笑顔なら、もっと綺麗に笑うだろうから。
「そんなに緊張しなくっていいわよ。酒でいい?」
「俺は、酒はどうも……」
女性はまた笑った。
「そ。じゃあミルクがいいわね。少し待っててちょうだい」
笑いながら、彼女は奥の部屋へと消えた。
「……ふぅ」
軽く息を吐き、持ってきたランプの火を吹き消す。緊張で高鳴る胸を静めつつ、レヒトは椅子に腰かけて女性を待った。
しばらくして戻ってきた女性の手には、湯気を立てるふたつのカップ。
「アタシも、酒よりはミルクが好きなのよね」
そう言って、カップをテーブルの上に置き、レヒトの向かい側に座る。
「さっきは助けてくれてありがとう。アタシの名前はジーナ。ここで働いてるわ」
「俺はレヒト。仲間と一緒に、旅をしています」
「旅人ねぇ。こんな時間に出歩いてるから、暇を持て余した傭兵かとも思ったけど……」
女性――ジーナが、温かいミルクを飲みながら言った。レヒトも口に含み、味を確かめるように舌先で転がす。別に毒を疑ったわけではない。知らず知らず、癖になってしまっているだけである。
「よく考えてみれば、あんな美人な女の子がいるのに、花籠に来るわけないわよね」
美人な女の子、とはレヒトの思いつく限り快のことだと思われるが、ジーナとは今が初対面のはずだ。
「昼間、アンタと女の子が一緒にいるのを見かけたのよ」
「……ああ、それで俺と快のことを」
納得するレヒトを見て、ジーナが悪戯っぽく問いかけた。
「恋人?」
「……いえ……」
レヒトは、少し哀しげに笑う。
「彼女には想い人がいるんです。これは、俺の……」
続く言葉は、声にならなかった。なんとなく、それを認めるのが、悔しくて。
「……そう」
また一口、ジーナがミルクを運ぶ。
「ジーナさんには、いないんですか?」
「アタシ?」
声に出してから、レヒトは後悔した。花籠の女性であるジーナにとって、その言葉は残酷すぎる。
「ふふふ。アンタ、どれだけアタシのこと若く見てくれたのかしら?」
言葉の意味を図りかねて、レヒトが首を傾げると、ジーナは可愛らしくウィンクして見せた。
「アタシには、アンタと同じくらいの息子がいるのよ」
「えぇっ!?」
思わずジーナを凝視してしまう。二十三歳のレヒトと同じくらいということは――レヒトは少し若く見られることがあるとはいえ、同じくらいというからには、彼女の息子は少なくとも十代後半から二十歳程度なのだろう。
「アタシが十五のときに産んだ子なのよ」
どう反応していいかわからずに瞬きを繰り返すレヒトを、ジーナは面白そうに眺めてまた笑った。