第6話 裏で糸引く二人の思惑
夜も終わりに近付き、そろそろ太陽が顔を出す時刻――天界城の執務室では、この部屋の主が机に積み上げられた大量の書類との戦いを終えようとしていた。
「ふぁー……」
最後の一枚に判を押し、レイは軽く伸びをする。
背に頂く三対六枚の翼を伸ばせば、純白の羽根が抜け落ち、ふわりと周囲に舞った。
天界人の証である純白の翼は、その身に秘められた力によって数が異なる。三対六枚もの翼を持つ者は、レイと、今は亡き彼の妹だけである。
「お疲れ様です。これで本日の執務は、すべて終了ですね」
傍らに控えていた黒髪の男性――レイの世話役兼補佐官のトゥールが、落ちた羽根を丁寧に拾い集めながら言った。
「やっと終わったぜ。……この書類整理が一番嫌いでな」
退屈だ、と呟けば、トゥールは鉄面皮と称される顔に苦笑を浮かべた。
「……嫌いだからと最後にまとめて片付けるから、このような目に遭うのだと」
「あー、はいはい。いつもの小言は聞き飽きた」
トゥールの言葉を遮って、レイは机に突っ伏した。
「お部屋で休まれますか?」
「……あー、いいわ。このまま寝ちまったら起きられねぇ気がする。面倒だが会議もあるし……あいつらが戻る前に書簡を用意しとかねぇといけねぇからよ。少しまどろむくらいがちょうどいいんだ」
言って欠伸を噛み殺す。トゥールはなにも言わなかったが、その瞳が少し辛そうに揺れた。
「……眠ぃな……」
レイが心地よい睡魔を感じ始めると――来訪者を告げるベルが鳴った。
執務を終え、ゆったりと過ごせるこのわずかな時間は、レイのお気に入りの時間であり、それを邪魔する来訪者は、辛辣な嫌味と皮肉の嵐に晒されることになるのだが、レイは逆に上機嫌で来訪者を迎え入れた。
というのも、それは彼のよく知る人物だったからだ。
「やあ。お邪魔するよ、レイ」
入ってきたのは、穏やかな眼差しの中年男性だった。レイに似た美しい顔立ちで、少し長めのくすんだ金髪を紫色のリボンで纏め、優しそうな微笑みを湛えている。
彼こそが、レヒトの主にして魔界評議会議長を務めるラグネス=クリスティーヌであり、レイの実兄にもあたる人物なのだ。外見だけを見れば、若いレイとは親子とも勘違いされそうだが、正真正銘、二人は実の兄弟である。これは天界人だけではなく、精霊人、魔精霊と呼ばれる人々も同様なのだが、彼らはある一定の年齢に達すると、肉体的な成長が止まる。成長が止まる年齢は個々に異なるため、このようなことが起こり得るのだ。決して珍しい現象ではない。
「よぉ、兄上」
「ラグネス様、お久しゅうございます。お元気そうで、安心致しました」
「やあ、トゥール。君も、元気そうでなによりだよ。レイが面倒をかけてすまないね」
ラグネスの言葉に、トゥールは神妙な面持ちで頷いた。
「はい。レイ様のわがままっぷりときたら、それはもう……」
「……おい」
従者にあるまじき発言に、ジト目で睨むレイ。切れ長の瞳が鋭さを増すが、そんなことで臆するトゥールではない。
「事実ですので。しかし、嫌ではありませんよ」
レイは机に頬杖を付いて舌打ちし、ラグネスは柔らかな笑みを見せた。
「君がレイの傍にいてくれれば、私も安心だよ」
「くそっ……二人して俺のことガキ扱いしやがって……」
不貞腐れてそっぽを向いたレイの頭を、ラグネスはよしよしと撫でた。
「兄上!」
「ははは、すまない」
「……んで、用件は? わざわざ俺のことからかいに来たってわけじゃねぇんだろ?」
レイの言葉に、ラグネスはぽんっと手を打った。
「そうそう、話があったんだ。いやぁ、うっかりと忘れるところだったよ」
「……忘れんなよ……」
肩を落とすレイに、ラグネスは悪戯っぽい笑みを浮かべる。そんな表情をすると、やはり兄弟だからだろうか、レイに通じるものがある。
「いやぁ、可愛い弟の顔見たら、つい……ね」
「あのなっ! 俺はもうあんたの知ってる頃のガキじゃねぇんだぞっ!」
普段は人を小馬鹿にしたような態度をとるレイだが、側仕えのトゥールや兄のラグネスの前では、このように少年のような一面も覗かせる。
「まあまあ、そんなに怒らなくても」
「……あんたのせいだろ……」
もうどうでもいいとばかりに、レイはひらひらと手を振る。
二人のやりとりを見るにつけ、どうやらラグネスのほうが一枚上手であるようだ。
しかし、レイを子供扱いして無事でいられるのは、ラグネスとトゥールくらいなものである。これが他の者であれば、二度と朝陽は拝めまい。
「話っていうのは、他でもないよ。……例の件、どうだった?」
「ふん。あんたのことだ。俺がいちいち言わなくたって、わかってんだろ?」
レイはにやりと笑った。
「さっき話はしたけどな。あんたの言った通りさ。……あいつ、本当にレイヴンのこと説得しちまったみてぇだ。俺の部下を何度やっても首を縦に振らなかったあのレイヴンを、だぜ?」
心底楽しそうに言う。ラグネスは、やはりね、と頷いた。
「そうだろうと思ったから、推薦したんだよ。まあ、急なことで驚いたかもしれないけどね」
どうせなんの説明もなしに放り出したんだろう、とラグネスが問えば、面倒だからな、とレイが返す。
「説明するのは難しいけれど……レヒトには、どこか人を惹きつける不思議な魅力があるからね」
「あぁ、確かに普通じゃねぇ感じはしたな。話に聞いたときは半信半疑だったが、なかなかどうして、やるじゃねぇか」
「気に入ってもらえたかい?」
笑いながら問うたラグネスに、レイは唇の端を吊り上げることで答えた。
「おかげで俺は助かった。これであのうるせぇジジィどもの相手しなくて済むぜ」
ジジィども、とは魔界評議会の議員たちのことである。
「あんな醜い顔、見るに耐えねぇ」
端正な顔を思い切り顰めるレイ。ラグネスは思わず吹き出した。
「仕方ないと言えば、仕方ないことかもしれないけどね。十年前の大異変で、だいぶ応えているようだから」
十年前、平和だったヘヴンに、突如として魔物と呼ばれる異形の生物が姿を現した。これが、一般には大異変と呼ばれる出来事で、人々の記憶には、未だに当時の恐怖が色濃く焼き付いている。
ヘヴンを襲った魔物は各地に深い爪痕を残したが、中でも甚大な被害を受けたのが魔界であった。魔界人はヘヴンに生きる種族の中で唯一魔法を扱うことができず、魔物に対抗する術を持たなかったためだ。天界をはじめ、各国が魔物の討伐に乗り出したが、被害は拡大の一途を辿った。それだけにとどまらず、魔物の恐怖に怯える一部の魔界人たちによって、精霊狩りという別の悲劇までが引き起こされてしまう。ヘヴンを恐怖と猜疑が渦巻き、やがて訪れるだろう終焉に、絶望した人々が天を仰いだその時、突如として眩い光が降り注ぎ、ヘヴンを蹂躙していた魔物は現れた時と同様に、その姿を忽然と消してしまった。三闘神の加護だと人々は喜んだが、原因は未だに不明のままである。
そして、あの大異変から十年の歳月が流れた最近になって、再びヘヴンの各地に魔物が出没し始めた。それを聞いた魔界評議会の議員たちは、天界を頼って押しかけてきたのだ。
「ヘヴンの危機だってのに……天界まで押しかけて来ておいて、連中のやってることといえば自分の領地の自慢話と、他の領主をいかに蹴落とし出し抜くか、だからな」
「君に取り入ろうと必死なんだよ。逆効果だと言ってやりたいところだがね」
「……連中ご自慢らしい魔界の民は、恐怖で眠れぬ夜を送ってるってのにな。……保身しか頭にねぇ、能無しのジジィどもが」
レイは忌々しげに吐き捨てる。
「俺はあんな奴らのために動いてんじゃねぇ。ヘヴンに生きる民のためだ」
それは、自らに言い聞かせるかのような言葉だった。
「……んで? あのクソジジィども、レイヴンになにを頼むつもりなんだ?」
「魔力を持たない魔界人にも、魔法が使えるようになるような道具の制作を依頼するつもりらしいよ」
ラグネスがそう言うと、レイは、なるほどね、と頷いた。
「……まあ、レイヴンならできるだろうが……」
「そうだねぇ……」
二人はしばし沈黙した後、ほぼ同時に言葉を発した。
「無理だな」
「無理だね」
それを聞き、トゥールは首を傾げる。
「なぜ、そのように思われるのですか? カトレーヌ教授といえば、神の頭脳を持つと称されるほどの人物。だからこそ魔界評議会の議員も、あれだけ教授に執着したのでは……」
「技術的に、じゃねぇよ。技術的にはなんら問題ねぇさ。時間はかかるだろうが、レイヴンならいずれ作るだろう。ただ……そうだなぁ、レイヴンは他の奴と価値観が違うってことが問題でな」
トゥールの疑問に、欠伸混じりにレイが答える。
「価値観?」
「あぁ。レイヴンは引き受けない。なにせ、面白くないからな」
レイは書類を退けた机の上で、その長い脚を優雅に組んだ。即座にトゥールの眉間に皺が寄る。
「……レイ様、机の上に脚を載せてはいけませんと、何度申し上げればお分かり頂けるのですか」
言って聞くような性格であれば、彼も苦労はしないのだ。トゥールは深いため息を吐いた。
トゥールの苦悩などどこ吹く風。レイは構わず、言葉を続ける。
「あいつは自分の興味のないものは、たとえなにがあったって引き受けねぇよ。ヘヴンの危機も、レイヴンにとっちゃ楽しい遊びに過ぎねぇ」
「……言い過ぎな気もするけど、あながち外れてはいないかもね」
苦笑しつつ、ラグネスもレイの言葉に同意する。レイヴン本人をよく知らないトゥールは、ただ首を傾げるだけだ。
「はぁ……よくはわかりませんが。しかし、それではカトレーヌ教授をお呼びしても無駄なのでは? 評議会の議員たちが、それで諦めるとも思えませんが……」
「大丈夫だよ」
そう答えたのはラグネスだった。
「カトレーヌ教授も、こちらの思惑には気付いているだろうからね。そして、乗ってくれるはずだよ。……きっと、ね」
「はっ、あんたも相当の策士だよ。兄上」
あんたに使われるあいつも可哀想だねぇ、と。レイはおどけたように呟いた。
「ふふ……褒め言葉として受け取っておくよ」
皮肉混じりのレイの言葉をさらりと流し、ラグネスはおっとりとした笑みを消すことなくそう答える。
「……あーあ、今日も徹夜かよ」
窓から差し込む光を見て、レイは苦笑した。ここのところは連日徹夜だ。そういえば、まともに食事をとったのも、何日前のことだったか。
「レイ……あまり無茶をしてはいけないよ」
気遣う兄の言葉に、レイは片手を挙げることで答えに代えた。
「俺はこう見えて頑丈だからよ。あんたが思ってるよりは、ずっとな。……さーて、お客さんが来るぜ。トゥール、会議室に関係書類、用意しといてくれ。準備が整い次第、俺も行く」
「畏まりました」
命を受けて一礼し、トゥールは執務室を出て行った。
それを見届け、レイは一人、石造りのテラスへと降り立った。ひんやりとした朝の冷気が、疲れた身体を撫でてゆく。
机に積まれていた書類が、吹き込む風に飛ばされた。それを拾いあげ、ラグネスは書面に視線を走らせる。
「……魔物、魔物。どの書類も魔物絡みだね」
「ああ。最近になって報告が増えた。今じゃ、目撃されてない場所を探すほうが難しいぜ」
テラスの手摺に寄りかかり、欠伸混じりに返すレイ。しばしの沈黙の後、ラグネスが静かに問いかける。
「……。例の男は?」
「さぁな、あれ以来ご無沙汰だ。……『CHILD』か。ったく、どっから嗅ぎつけたんだか。記録は全部、抹消しといたはずだぜ?」
「さすがは神様、とでもいったところかな。しかし、おとなしく従う気はないんだろう?」
朝の澄んだ空気を楽しんでいたレイは、長い髪の一房を指で弄びつつ、唇を笑みの形に歪めた。
「当然だ。そのために、わざわざあんたまで利用……っと、手を借りたんだからな。……なあ、兄上」
「なんだい?」
「……たった一人の大事な奴と、この世界……兄上だったら、どっちを選ぶ?」
「君は相変わらず、難しい質問をするね」
ラグネスが思案するように目を閉じ、二人の会話が途切れる。その静けさに身を任せ、レイは兄の答えを待った。
「……私には選べないな。レイ、君はどっちを選ぶんだい?」
「はっ、そんなの決まってんだろ?」
レイは不敵に笑ってみせる。
「……俺は、どっちも捨てねぇ」
顔を覗かせた太陽は、さながら彼を照らす後光のごとく。その中で笑う傲岸不遜な天界最高責任者は、たとえようもなく美しかった。