第61話 消えた魔物と片翼と-2-
「ちょっといいかい、お客さんたち」
扉を叩く音とともに声がかけられ、恰幅のよい女性が部屋に入ってきた。この宿の女将である。
「あの子の様子はどうだい?」
「まだ、目は覚めていません。けれど、今はだいぶ落ち着いています」
レヒトがそう答えると、女将は安堵したようだった。
「そうかい、よかったよ。うちにもこれくらいの子がいるからねぇ。他人事とは思えないんだよ」
眠るレイヴンに向けられた女将の眼差しは、とても優しいものだった。自身の子供を重ね見ているのかもしれない。
しばらくレイヴンを見つめていた女将が、ふと思い出したように口を開いた。
「そうそう。お客さんたち、暗くなってからは外に出るんじゃないよ」
女将の言葉に、レヒトは内心首を傾げた。魔物は四日前に姿を消したという話だったはずだし、ウェルネス領では賊徒の噂も聞いたことがない。
「けど、確か魔物はいなくなったって話だったような……」
レヒトと同じく疑問に思ったらしい快が女将に聞き返すと、女将の表情が曇る。
「それがね、魔物じゃないんだよ。片翼が現れたって、みんな大騒ぎさ」
(……片翼?)
レヒトは再び首を傾げた。とりあえず快のほうを見ると、彼女は少し驚いたような顔をしていた。彼女には、片翼がなにかわかるらしい。
「この街にですか?」
女将は頷いた。
「そうなんだよ。街外れで見た人がいるらしくてね。だから、くれぐれも気をつけるんだよ。……あ、それと。その子が目を覚ましたら言っておくれ。食べやすそうなものを作るからね」
そう言い残して、女将は部屋を出て行った。階段を降りてゆく足音が遠ざかる。
「快……片翼っていうのはなんなんだ?」
ストレートに聞いてみれば、快はどこか呆れたような顔をした。シャウトも苦笑している。
「レヒトって……レイヴンもそうだけど、世間知らずっていうか、なんていうか……」
あのレイヴンと同等の世間知らず扱いをされたことに、レヒトは軽い衝撃を受けた。
「うーん……片翼について説明するには、天魔大戦と天界人のことも説明しなきゃいけないんだけど……」
「天魔大戦の概要と、天界人の製造についてはだいたい知ってる。ラグネス様が、話して下さったからな」
天魔大戦は、一人の狂った男によって引き起こされた。その男――ロライザ=クリスティーヌは自身の野望のため、精霊人の力を魔界人に注入し、天界人という強力な力を持った新たな種族を産み出した。そのロライザの野望を打ち砕いたのが、あの英雄レイ=クリスティーヌなのである。
これは誰もが知っている話だ。吟遊詩人の詠う伝承歌でも、最も有名で、また最も人気のある話だろう。
「そういえば、レヒトは伯父様の護衛をしてたんだよね。じゃあ、そのあたりは割愛するよ」
そう前置きしてから、快はゆっくりと話し始める。
「天界人を造り出したのは確かにロライザ=クリスティーヌなんだけど、全員が全員、彼に従ったわけじゃないの。中にはロライザを裏切ってレイについた人々もいて――むしろ、レイと一緒に戦った人々が、今でいう天界人なの。ロライザに従った人々は、彼とともに、歴史の表舞台からその姿を消すことになったんだけど……」
「そのロライザに従った連中、どうなったと思う?」
いつの間にか、部屋の中央にあるテーブルの側まで戻っていたシャウトが、テーブルの上に転がっていた熟れた果物を手で弄びながら、レヒトにそう問いかけた。
「そうだな……処刑された、とか? あ、シャウト。俺にもひとつ」
「妥当な答えだな。けど外れだ。……お、けっこう美味いな、これ」
投げ渡された果物を、レヒトは一口齧った。しゃりしゃりとした食感と、甘い果汁が口いっぱいに広がる。
「甘い。……じゃあ、どうなったんだよ」
「敵だったからって、あっさり処刑するような男なら、ここまで称えられたりはしなかっただろうな」
「……食べるか喋るかどっちかにしなよね」
生返事を返すシャウトの頭に、快の投げたワインボトルのコルクが命中した。
「シャウトの言う通り、レイは処刑しなかった。けど、そのまま無罪放免ってわけにも、いかなかったんだよ。民が、それを許さなかったから」
「……そうだろうな」
それはレヒトにもわかった。ロライザに従った天界人といえば、レイとともに戦った人々にとっては、自分たちを弾圧していた相手である。許せと言われて、簡単に許せる相手ではなかったのだろう。なんらかの処罰がなければ、民は納得しない。そういうものだ。
「仕方なしに、レイは彼らの翼の片方を切り落とし、天界から追放することにしたの。大陸から離れた――中央大陸の遥か南東にある、地図にも載っていない小さな島にね」
「なるほど。それで片翼、か。……けど、どうして両方の翼を切らなかったんだ?」
快は首を傾げて見せた。
「うーん……どうしてだろう。さすがにそこまではわからないな」
「教授なら、わかるんじゃないか?」
シャウトが言うと、快もぽん、と手を打った。
「そっか。レイヴンならわかるかも」
「レイヴンが?」
レヒトは正直、半信半疑だった。
まあ、レイヴンは一応、神の頭脳を持つ、などと称えられる人物である。それだけを聞くと、確かにレイヴンにならわかりそうなものだが、普段のレイヴンを知っているレヒトにしてみれば、それも首を傾げたくなるような称号である。
「そっか、レヒトは聞いてないんだっけ」
快が思い出したように言うと、シャウトも頷く。
「あんたはずっと寝てたからな。教授、ドラゴン・リバティにいるときに、兄貴と他人の入り込めないような無駄に深ぁーい話、してたんだぜ。魔物が呪文を必要としないのも、体内で自己生成してるわけじゃないとか、どうとかこうとか……」
「……意味不明だな」
魔物は体内でエナジーを自己生成しているために呪文を必要としない、というのは、ヘヴンの研究者たちの間での定説である。レヒトにはどこがどう違うのか全くわからないが、要するにレイヴンはそれに異を唱えたということか。
「だろう? 兄貴も驚いてたからな。ま、教授の知識量は半端ないってことだ。少しばかり偏ってるだけで」
(……あれは偏り過ぎだろう)
レヒトは内心、そう思った。
「それにしたって……二人も詳しいんだな」
両親が天魔大戦の経験者である快はともかく、シャウトが意外と詳しいことにレヒトは驚いた。竜族は天魔大戦に関わらなかったという話だったからだ。
レヒトの心の内を読んだかのように、シャウトがふたつめの果物を齧りながら答えた。
「確かに、竜族は天魔大戦には直接的に関与してない。被害を受けてないからだ。ただ、こっちにも被害が出るようなら、なにかしら手は打つつもりだった。そういった意味で、兄貴が世界事情に精通してたからな」
「そういうレヒトは、伯父様から聞かなかったの?」
もっともな疑問かもしれない。レヒトの主であり、育ての親でもあるラグネスも、天魔大戦の関係者である。
「……ラグネス様は、あまり天魔大戦のことを、お話にならなかったからな……」
ラグネスは当時のことを語るとき、いつも悲しそうな顔をしていた。だから、レヒトは自分から聞くような真似はしなかった。
「そうかもね。パパも、天魔大戦のことはほとんど話さなかったから」
「んじゃあ、姫は誰から聞いたんだ? 翼を切り落としたって事実は有名だけどよ、流刑にされた場所まで知ってるなんざ、関係者くらい――それも、一部の連中だけだろ」
「多分、名前を出してもわからないと思うけどね。僕は疾風から聞いたんだよ」
――疾風。その名前はレヒトの胸に、小さな棘となって突き刺さる。その名前を口に出すとき、快はいつだって、少し悲しそうな、そして――愛しそうな顔をするから。
「ははーん、さては姫の恋人だな?」
にたりと笑うシャウトと、それに笑顔で応じる快から、レヒトは視線を外した。
チクチクと胸を刺す微かな痛み――それを取り除く方法を、レヒトはまだ知らなかった。