第58話 この手に絆を-3-
「……痛い……」
「レヒトが悪いんだからね」
ひりひりと痛む頬を押さえるレヒトに、快は当然とばかりに言い放った。かなり痛い。これは拳でなかっただけ、幸運だったかもしれない。
「……そういえば、二人が戻って来たってことは、シャウトも?」
「うん、戻って来てるよ。レイヴンたちが最後だもん。――ほら、あそこ」
レイヴンが、入り口のほうを指差した。そちらを見れば、シャウトがその背に男性を乗せて歩いて来る。雪にまみれてはいたが、見覚えのあるその姿。かなり、衰弱しているように見えた。
「シャウト! ……ロディさん……大丈夫なのか?」
背負われていた男性――ロディ=マインドを見てレヒトが言えば、シャウトは小さく頷いた。
「寒さにやられてる。大丈夫だとは思うが……念のために、医師に見せるさ」
「あぁ……」
レヒトはロディの肩に手を置いた。長時間、雪の下にいたのか――その身体は、酷く冷たかった。
「……ロディさん。大丈夫ですか?」
ロディが、うっすらと目を開けた。力なく周囲を見渡し、苦笑を溢す。
「……竜の都? 私は……殺されるのか……」
呟くようにそう言って、その目を閉じる。
「死なせるかよ。あんただけは死なせない。あんたには、生きててもらわねぇと困るんだよ」
言葉を発したのはシャウトだった。その声を聞き、ロディが再び苦笑した。
「……生きて、いたか」
シャウトが唇の端を持ち上げた。そんな風に笑うと、尖った八重歯が覗く。
「生憎、俺様はまだ死ぬわけにはいかねぇんだよ。――ケアルを遺して、死ねるかっつの」
「……ケアルは生きているのだな……。そうか……生きて、いるのか……」
ロディの瞳が、優しい光を宿した。その声に含まれた、どこか安堵したような、そして愛おしげな響き。
「……あんた、ケアルが自分のこと愛してないとでも……捨てられるとでも思ったのかよ」
シャウトが、静かに語る。騒がしい室内に、掻き消されてしまいそうな、小さな声だったけれど。彼の声は、背負われていたロディには、届いたのだろう。
彼が見せたのは、自嘲するような笑み。
「ケアルはなぁ……一度だって、俺様を選んじゃくれなかったんだ。あんたを残してはいけないって……そう言って……。あんたのこと、愛してたから、だからケアルは……」
「もうやめよ、シャウト」
シャウトの言葉を遮ったのは、いつの間にか近付いて来たシュリーク。隣には、ケアルの姿もある。
「兄貴……。それと、ケアルも……」
ケアルが、冷たくなったロディの手に触れた。弱々しい力で、ぎこちなく――ロディはその手を握り返した。
「ケアル……おぉ、ケアル……! 温かい……人の、温もりなど……いつからか、忘れていたな……」
その頬を伝う、熱い滴を。ケアルが、指で拭った。
「……そなたは、永き時を苦しんだのだな。……すでに悪夢は去った。もう苦しまずとも、よい」
ロディは、答えなかった。だがその瞳に、狂気の影はない。穏やかで、そして優しい光が満ちていた。
「……」
ケアルが、父親の手をぎゅっと握り締めた。微笑みを浮かべて。
「……ふむ、怪我も見られるな。シャウト、奥の部屋に医師たちがいる。――二人を運べ」
「俺様、運搬係かよ。しょうがねぇな。ケアル、一緒に来てくれ」
シャウトとシュリークが二人を連れて、奥の部屋へと向かうのを見届けると、快が服に付いた雪を落としながら言った。
「僕も、怪我人の治癒を手伝って来るよ」
救出が早かったからか、ほとんどの住人は軽傷で済んだようだが、中には意識がなかったり、重傷を負った人々もいるようだ。死者が出なかったことが、奇跡に等しい。
「レイヴンも手伝おーっと」
「じゃあ……」
俺も、と言いかけ、レヒトは口を噤んだ。快の微笑みを目にしたからである。
「なにかな? レヒト」
誰もが見惚れる、心が蕩けるような微笑を、レヒトに向ける快。胸の前で握り締められた拳が、彼女の本心を物語っていたが。
「な、なんでもございません!」
「よろしい。まったく……ちゃんと休んでなよね。それじゃあ、行こうか」
「うんっ」
快はレイヴンを連れて、別室に運ばれた怪我人のもとへと向かい、レヒト一人が残された。部屋の真ん中にぼけっと立っていては邪魔だろうと、片隅へと場所を移す。
「……休んでろって、言われてもな……」
周囲を忙しく働く人々を見ると、とてもそんな気にはなれないのだ。幸い、腹部の痛みも幾分和らいでいる。少しくらい動いたところで、支障はないだろう。
「よし。やっぱり、俺もなにか手伝おう……」
そう呟いたレヒトの肩に、背後から手が置かれた。
「ぎゃあっ!」
驚いて飛び上がった拍子に腹部に響いた激痛。声にならない悲鳴をあげてしゃがみこむレヒトを見て、彼を驚かせた張本人は楽しそうに笑った。
「なぁにびびってんだよ。俺様だっつの」
にやにやと笑うシャウトは、蹲ったままのレヒトに手を貸す。その手を握って、レヒトは立ち上がった。
「脅かすなよ……また叩かれるかと思ったじゃないか」
真っ赤な手形の残る頬に手をやって呟けば、シャウトは声をあげて笑った。
尤も、もしも快に見付かったのなら、今度は間違いなく拳が飛んでくる。紅葉では済まないだろう。
「これまた見事な紅葉だなぁ」
「あんただって、いつかケアルちゃんに付けられる日が来るかもしれないぞ」
「ケアルはそんなことしないっつの。あー、けどそれもいいかもな。なんつーか、愛の証……みたいな?」
勝手な想像の世界に浸るシャウトの、そのやに下がった顔に、それなら望み通りに手形でも作ってやろうかとレヒトは一瞬考えた。が、軽くかわされそうなのでやめておくことにした。
シャウトと戦ったレヒトは、彼の強さを体感している。あの勝負、シャウトが手負いでなかったら、レヒトは負けていただろう。
職業上、レヒトもそれなりに場数を踏んではいる。そして、彼には生まれ持った天賦の才がある。
とはいっても、いかんせんレヒトとシャウトの間には、その経験に天と地ほどの開きがあるのだ。埋めることのできない経験、つまりは積み重ねてきた歳の差だ。
「なぁ、あんた何歳だ?」
唐突なレヒトの問いに、シャウトは首を傾げた。
「あーっと……俺様、何歳だったっけか。兄貴に聞けばわかるんだけどよ……確か、三千を超えたあたりで数えるのやめたんだよな」
「……あぁ、そう」
それがどうかしたのか、と聞いてくるシャウトに、レヒトはなんでもない、と返した。
悠久の時を生きる種族――その言葉、あながち間違いではないようだ。竜を食らえば不老不死になれると過去の人間が言ったらしいが、たかだか数十年しか生きられない人間から見れば、数千年もの時を生きる竜族を不老不死と羨むのも、無理はないかもしれないとレヒトは思った。
誰だって、いつまでも若く、そして永く生きたいという願望は持っているのだろうから。
人間の命は短い。そして、他種族に比べれば遥かに弱い。だが――いや、だからこそ、残酷になれるのかもしれない。四百年前の天魔大戦、十年前の大異変のように。
レヒトはシャウトから視線を外して周囲を見渡す。人間と竜の絆。それは、まだ弱く、不安定なものかもしれない。けれど、ぎこちないながらも、最初の一歩をここに刻んだ。
それが、レヒトはただ嬉しかった。
「にしたって、信じられねぇな。人間と竜が一緒にいるなんて、さ。少し前までは、それこそ夢みたいな話だった光景が……今、目の前にあるんだぜ?」
「ああ。けど、夢なんかじゃないんだ。これは現実。……シャウトのおかげ、だな」
竜族が人間に対して、友好的だった理由。シュリークの命令だというのもあるのだろうが、それなら、人間を嫌悪していただろうシュリークを説得したのは誰なのか。答えは、簡単だ。
「シャウト、あんたが説得してくれたんだろう? 長老様や、仲間の竜族を」
レヒトがそう言えば、シャウトはにやっと笑った。
「前に、言っただろ? 俺様とケアルのハッピーな未来のために、協力してやるってな」
シャウトは子供のように、屈託なく笑って見せた。
「あんたって、なんでそんなに……。諦めたことは、ないのか?」
「ある。ルナルの街で、矢を射られて。わかりあえないって、思ったさ」
シャウトは目を閉じ、静かにそう答えた。
「けどな、あんたたちが来る前――二人で、雪道を歩いてる時に、ケアルが俺様に言ったんだ。人を嫌いにならないで欲しい、憎まないで欲しいってな。それでじゅうぶんさ」
ケアルには、すでに新たな命が宿っているという。二人の間に産まれてくる命が、種族の違いなど関係なく、幸せに生きられる未来は――きっと、やってくるだろう。
「そう、だったな……。あんたはそういう……奴……」
不意に、レヒトの意識が揺らいだ。
次の瞬間には、目の前が、真っ暗になった。力が抜けてゆく。身体が冷たい。床に、倒れたようだ。
「レヒト!?」
シャウトの声が響く。大丈夫、と言ったはずの声は、言葉にならなかった。
「姫! 教授! レヒトの奴が……!」
声が、遠ざかってゆく。冷たい床の感覚を、どこか心地よく感じながら。
レヒトは意識を手放した。