第56話 この手に絆を-1-
レヒトはなんとか寝台から身を起こし、部屋にある窓から、ルナルの街があるはずの方向を見つめていた。
ここからでは、聳え立つ山々が邪魔をして、遠く離れた小さな街を見ることは叶わないのだが。
「……時間とは、待つ身になるほど長く感じられるものなのだな……」
窓辺に立ち、同じように外へと視線をやっていたシュリークが、そっと呟いた。
シャウトたちがドラゴン・リバティを出発してから、さほど時間は経っていないはずである。その証拠に、彼らが出て行ったすぐ後に、あの若い女性――彼女はドラゴン・リバティの医師であるらしい――が持って来た紅茶からは、微かにだが、まだ湯気が立ち上っていた。
「……人間の生死に……これほどまで、気を揉むことになるとは……」
シュリークが呟くように発した言葉に含まれた、複雑な感情。それは、自嘲するような、悲しむような、それでいて、不思議と誇らしいような――様々な感情が混ざりあったものだった。
「……竜族が、人間との関わりを持たない理由……教えて頂けませんか?」
控え目に問うたレヒトのほうへと、シュリークは視線を向けた。様々な感情を含んだ、深い海のような瞳がレヒトを映す。
「竜族が人間との交流を絶ったのは……遥か昔、それこそ気の遠くなるような昔の話だ」
シュリークは無表情のままに言った。瞳に宿るのは、悲しみの光。無表情である分、彼の瞳はその感情を雄弁に語る。
「私がまだ幼い頃は、竜族も人間との関わりを持っていた。このドラゴン・リバティではなく、もっと人間の街の傍に都を構えて……私はあまり覚えてはいないのだが……その当時、竜族の長をしていた両親が人との交流に積極的だったのもあり、関係は良好だったはずだ。あの事件が起こるまではな……」
シュリークの瞳が、鋭さを増した。そこに見えるのは、強い怒りと、深い悲しみ。
「……竜の生き血は、人に不老不死を与える……そのような愚かな噂が流れ、そしてその噂に惑わされた人間たちが……竜の都を襲って来たのだ」
「そんな……ことが?」
シュリークは頷き、静かに言葉を続けた。
「……幼かった私の脳裏には……人間たちと対話するために出た両親が殺され、肉を毟られ、血を啜られる……無惨な……その光景だけが焼き付いた」
レヒトの頭の中から、一切の言葉が消え去った。想像することさえできない、凄惨なその場面を、幼き日のシュリークは目の当たりにしたというのか。彼の受けた衝撃は――どれほどのものだったのだろう。
「両親を食らった人間たちは、怒り狂った我が同胞によって殺された。不老不死など……所詮は迷信に過ぎなかったのだ」
無表情なシュリークの顔に、憎悪の色が滲む。
実際に、その光景を目撃したわけではないレヒトには、シュリークが感じたであろう絶望はわからない。しかし、自分の好奇心が、彼の心の奥底に封印されていただろう記憶を呼び起こさせてしまったことを、レヒトはただただ後悔した。
「……申し訳ありません。思い出させるようなことを……お聞きしてしまって……」
レヒトが謝罪の言葉を口にすると、シュリークの顔から憎悪がふっと消えた。代わりに見せたのは、柔らかな微笑。
それはシャウトが、時折ケアルに対して見せるような、優しい微笑みだった。
「弟が言った通りの人物であるようだな、そなたは。他人のことを……まるで自分のことのように思い、行動する――不思議な人間だとあれは言っていたが……なるほど、確かにそのようだ」
感心するような眼差しに、レヒトは首を傾げた。それほど特別なことをしているという感覚がなかったからだ。
「そなたは素直なのだな。人間にも、そなたのような者がいたこと……私は知らなかった。それこそ、愚かなことだったな」
シュリークが微笑みを消し、無表情ともとれるような顔に戻り、レヒトに言った。
「……ようやく、理解できたような気がするのだ。死に際に、人間たちを葬ろうと飛び出した同胞に、父がかけた言葉を。やめよ、と……父は確かにそう言っていた。これも……あれのお陰、か」
シャウトのことを言っているのだと、レヒトはなんとなく理解した。
「長老様は、シャウトのこと……大切に思っていらっしゃるんですね」
シュリークが少し慌てたような表情を浮かべた。冷たい印象を受けたが、あの子供じみた喧嘩のときなど、シャウトが関わると意外に表情豊かなようだ。
「……そっ、そんなことはない。わ、私は別に……。むぅ、なにを必死になっているのか……」
にやにやと笑うレヒトに気付いたのか、シュリークは軽くため息を吐いた。
「あれは、馬鹿だからな。放っておけぬ。それに……あれは人間を好いている。両親と同じように。人間の手により、目の前で両親を奪われた私は……不安で仕方なかった。あれもいつか、人間に殺されるのではないかと……」
それも無理のないことだと、レヒトは感じた。彼は事実、人間によって殺されかけている。
「……あれが傷だらけで戻って来た時は……恐怖さえ感じた。私は、弟まで奪われるのかと。そなたたちを見て、私や同胞たちの中に沸き上がる怒りに気付いたのか……あれも言ったのだ。父と同じように。我らに向かって……やめろ、とな」
不思議なものだ、と呟く。穏やかな声で。
「子供、子供と思ってきたあれに気付かされたのは悔しいが……あれのほうが、私よりも……ずっと大人だったのだろう」
シュリークの言葉に、少し、寂しそうな響きが含まれているのを、レヒトは感じた。
年齢としてはあまり離れてはいないのかもしれないが、シュリークにとって、過去を知らない――彼の目から見れば、少しばかり危なっかしいシャウトは、きっと幼い頃から庇護の対象だったのだろう。そして、唯一残された家族なのだ。親離れならぬ兄離れに、多少の寂しさを感じているのかもしれない。
「……ついうっかりと、余計な話までしてしまったな」
ため息混じりに呟き、シュリークは再び窓の外へと視線を移した。弟が戻ってくるはずの蒼穹へと向けられた瞳は、どこか誇らしげにも見える。
シュリークの後ろ姿を見つめて、レヒトはほんの少し羨ましく思った。
(……家族、か……)
親も、兄弟も、レヒトには存在しなかった。いや、本当はいるのかもしれない。だが、今は己に関することすべてが、霞がかったように閉ざされている。
レヒトの記憶の始まりは、いつだって、十年前のあの日。
朦朧とする意識の奥で、響く誰かの声。誰もが喜びに湧き返る中、孤独と寒さに震えるレヒト。誰にも気付かれず、今にも消えてしまいそうな存在。
そんなレヒトを救い出したのは――あの優しい、光満ちる人だった。
(……ラグネス様)
血の繋がりなどなくても。あの優しい人は、レヒトにとって、ただの主としてではなく、それ以上に大切な人だった。
側の机に置かれていた紅茶のカップを手に取る。
(そういえば……俺が最初に貰ったのも、温かい紅茶だったな)
指先、そして掌に伝わるその温かさに、自然と笑みが溢れた。
「……どうやら、戻って来たようだな」
シュリークの発した言葉が、過去の世界に浸っていたレヒトの意識を呼び起こした。
「ほ、本当ですか!?」
「あそこだ。人間の目では、捉えることは難しいかもしれんが……」
そう言って、シュリークは蒼穹の一ヶ所、彼方に広がる雪山の上あたりを指差した。レヒトは視力に関しても、少々人間の域からは外れているのだが、飛翔する竜の影を見つけることはできなかった。
「すぐにここへ戻って来るだろう」
「待ってください、俺も行きます!」
部屋を出て行こうとするシュリークを追い、レヒトは寝台から起き上がった。途端、腹部を襲った激痛に、その場に膝を付いて呻き声をあげる。
「……あまり無理はするでない。いかに治癒魔法と言えども、そのような大怪我を完全に癒すことなどできぬのだぞ」
無茶をするレヒトをたしなめるようにシュリークが言うが、レヒトは彼を見据えて言い放った。
「それでも、行きます。役には立たないかもしれません。けれど……じっとなんかしていられないんです」
そう言って、苦痛に顔を歪めながらも立ち上がろうとするレヒトを見て、シュリークは小さくため息を吐き、その手を差し延べた。
「あの娘になにを言われても、私は知らぬぞ?」
差し出された手を握り返し、レヒトは立ち上がった。
「快に怒られるのは覚悟の上ですから。それに、俺に手を貸した長老様も共犯です」
悪戯っぽくレヒトが言えば、シュリークは喉の奥で笑った。