第54話 ドラゴン・リバティにて-1-
ぼんやりとしていた視界が、次第に鮮明になってゆく。周囲を真っ白い壁に囲われた、小さな部屋。窓から入り込む淡い光が、優しく降り注いでくる。
(……綺麗なところだ。死んだら地獄行きだろうと思ったが……。ひょっとすると、ここが地獄か?)
レヒトは部屋にある寝台に寝かされていた。視界はかなり鮮明になったが、頭の中はまだ霞がかったようにぼんやりとしている。身体も、重だるい。ほんの少し動かすことさえ、億劫に思えた。
「……どこだ、ここは……?」
少しばかりかすれた声で、お決まりの台詞を口にしつつ、首だけを動かして周囲を見渡す。
寝台の側にはレヒトのセイクリッド・ティアと、彼が常に纏っている銀色の鎧、血に染まって紅くなった、お気に入りの白いコートが纏めて置いてあった。
誤解がないようにしておくが、別にレヒトは素っ裸で寝かされているわけではない。上半身は腹部から胸にかけて幾重にもきつく包帯が巻かれており、下半身は白いズボン姿である。
いまひとつ状況が掴めない。周囲を確認するために、とりあえず身体を起こそうかと、何気なく腹部に力を籠めれば。
「ぐぁっ……!?」
臓腑を鷲掴みにされたかのような激痛に身を捩り、レヒトは再び寝台に身を沈ませることになった。
浮かんだ涙を拭おうと、伸ばした手までが鈍く痛む。見れば、そちらにも包帯が巻かれていた。
「……これ、は……」
レヒトがはっきりしない記憶をなんとか呼び起こそうとしていると、控え目に扉が開かれ、一人の女性が部屋に入って来た。薄水色の髪を短く纏め、清潔感に溢れた白衣をその身に纏っている。
「お目覚めになられたようですね。――ご自分の名前は、わかりますか?」
投げ掛けられた妙な質問に、内心で首を傾げる。地獄に行くにも審査が必要なのかと、レヒトは一瞬考えた。
「……はぁ、わかりますけど。あの、ここは……」
女性に聞き返す前に、勢いよく部屋に飛び込んできた人物に思いきり抱きつかれ、レヒトは声にならない悲鳴をあげた。たとえようのない激痛が、レヒトの全身を駆け巡る。
「レヒト……! ばかっ! 心配したんだから!」
深緑色の緩い巻き髪が、肌を擽る。細い指先が、縋るように絡みついてきた。
状況はさっぱりわからないが、彼女がここにいるということは、どうやらあの世ではないようだ。
しかしこの状況、レヒトにとってみれば、まさに天にも上るような夢心地――生きててよかった――となるはずなのだが。
「? ……わぁっ! レヒト! しっかりして!」
当のレヒトはあまりの激痛に、生死の境を彷徨っていた。これは本当に天に召されかねない。快はレヒトの首を掴んでガクガクと振った。
すると、またしても扉が開かれ、今度はレイヴンが入ってきた。
「レヒト、目が覚めたんだね……って、うわッ! 口から魂出てるよッ!」
「ああっ、だめです! 本気で死んでしまいますから!」
レイヴンと女性がなんとか快を落ち着かせ、レヒトは一命をとりとめた。
快をなだめすかした後、死にかけたレヒトに薬を与えると、女性は気を利かせてくれたのか、三人を残して部屋を出て行った。
「……死ぬかと思った」
喋る度に、酷い痛みが腹部を襲う。痛みに顔を歪ませると、快が小さな声でなにかを呟き、レヒトの腹部に手を翳した。
淡く柔らかな緑色の光が、優しく傷口を包み込む。光が触れる場所がじんわりと温かく――不思議と痛みが和らいだ。
「……本当に……死ぬところだったんだからね」
レヒトと視線を合わせることなく、快はそう口にした。
「もう少し処置が遅かったら……本当に死んでたかもしれないんだよ? 何日も……目、覚まさなかったし……」
その瞳の縁が――溢れはせずとも揺れていることに、レヒトは気付いた。
レヒトが快に言葉をかけようとすると、まるでそれを見計らったかのようなタイミングで扉を叩く音が響いた。返答を待たずに開かれたそこから顔を覗かせたのは、二人の男性。
一人はよく知った顔、もう一人は知らない男性だった。レヒトの知っている方の男性が、彼を見て笑った。安堵したように。
「意外と元気そうだな。顔色もいいし」
連れて来た時は土気色だったぜ、と彼は笑う。
「あんたもな、シャウト。傷は癒えたのか」
レヒトの知っているほうの男性――シャウトは頷いた。
「俺様の傷は大したことなかったからな。あんたほど酷い怪我じゃなかったし、姫の治癒魔法が効いた。あっという間に治っちまったから驚いたぜ」
シャウトがそう言うと、快が眉根を寄せた。そんな表情も美しい、などと思ってしまうあたり、レヒトはかなり重症であるようだ。きっともう手遅れだろう。
「その呼び方はやめてって言ったのに」
姫、というのは、どうやら彼女に付けられたあだ名であるらしい。なかなか的確な表現だとレヒトは思った。
「治癒魔法など、永い時を生きてきたが初めて目にしたな。……大変な修練を積んだのだろう」
レヒトの知らないほうの男性が、感心したように言う。
こと魔法に関しては無知なレヒトだが、快が自分に対して使っているのが治癒魔法というものだとは、なんとなく理解できた。そういえば、初めて快と出会った時にも、快はレヒトに同じような魔法を使っていた気がする。
「便利なんだな」
脳天気なレヒトの言葉に、快が小さく苦笑を返す。
「治癒魔法は、術者を媒介として精霊を送り込み、対象の自然的な治癒力を高める魔法のことを言うの。だから、すぐに治せるのはかすり傷くらいだよ。酷い怪我は……少し治りを早めたり、痛みを取り除いたりすることくらいしかできない」
「それにな、レヒト。魔法の行使ってのは大変な精神力を消費するんだ。ずっと精神を集中させてるわけだからな」
快の後をシャウトが継ぎ、レヒトにそう説明した。
「そうなのか。俺は魔法が使えないからよくはわからないが……なんでもできて、便利そうなイメージがあったからな」
「魔法は万能じゃないよ、レヒト。魔法でだって、できないことがある」
死者を生き返らせることはできない――快は言外にそう匂わせていた。それは重傷のレヒトに対して言われた言葉なのか、それとも今は亡き誰かを指す言葉なのか――レヒトには、わからなかったが。
「だから、もう無茶はしないって約束してね。じゃないと僕、加減を間違えて大変なことになっちゃうよ」
快がそう言うと、レヒト以外の面々が顔色を変えた。どうやら脅し文句だったようだが、魔法に疎いレヒトには理解できない。
「ど、どうしたんだ?」
なんともいえない微妙な表情で、顔を見合わせる一同。レヒトの疑問にはレイヴンが答えた。
「レヒト、治癒魔法は精霊の力を送り込んで傷を治すものだって言ったでしょ? もし加減を間違えでもしたらどうなると思う?」
「……どうなるんだ?」
「ぱんっ! って感じで内部破裂。場所にもよるだろうけど、レヒトみたいに腹部だったら、間違いなく即死だね。それも面白いから見てみたい気もするけど」
レイヴンは可愛らしい口調で、とんでもなく恐ろしいことをさらりと口にした。
「……つまり、快はそのとんでもなく恐ろしい魔法を今、まさに俺に対して使っている、と」
「そういうこと。だから僕がうっかり加減を間違えないように、おとなしくしててね」
「……はい」
当然、逆らえるはずもなく。思わず身を強張らせるレヒトに、シャウトがにやりと笑ってみせた。
「尻に敷かれてんなぁ」
酷い言われようである。事実なので仕方ないが、シャウトだって似たようなものだろう。
「……ケアルちゃんの前じゃ、ふにゃふにゃのあんたに言われたくはないな」
シャウトがなにか言うよりも早く、彼の隣に立っていた男性が微かに笑った。どこか軽い印象を受けるシャウトと違い、どちらかといえば堅苦しいタイプの男性だが――どことなく、シャウトに似ているとレヒトは思った。
「まったくだ。人間の娘に骨抜きにされおって、見ておれぬ」
冷たい表情に反して、不思議と口調は柔らかかった。もしかすると、これが地なのかもしれない。
「なんだよ、ケアルのこと見て可愛らしいって言ってたくせに」
「あの娘を悪く言っているのではない。お前を腑抜けと言っておるのだ」
「誰が腑抜けだ! あんたにだって同じ血が流れてるだろうが!」
シャウトが噛みつくと、男性はあからさまに嫌そうな顔をした。
「お前のような馬鹿者と同じ血が流れているかと思うと、我が身を呪いたくなる」
「……んだと!?」
バチバチと火花を散らす二人を眺めて、レイヴンが呆れたように言った。
「また始まったよ」
「……誰なんだ、あれは」
二人に悟られないように、レヒトは小声でレイヴンに問いかける。
「竜族の長老様。シュリーク=フリュウだってさ。ちなみに、シャウトのお兄さん」
「……あれがか」
取っ組み合いの喧嘩に発展しつつある二人を眺めてレヒトは呟く。
どうにも人の上に立つ人々というのは、揃いも揃って灰汁の強い御人が多いようだ。そうでなければやっていけないのか、それとも自然とそうなってしまうのか――微妙なところだ。
「怪我人がいるんだし、ちょっとは落ち着きなよね」
子供のレイヴンが大人二人をたしなめるような口調で言ったのがおかしくて、レヒトは笑った。
もちろん、その拍子に再び腹部を襲った激痛に、本日二度目の悲鳴をあげることとなったのだが。