第5話 深き森の幼賢者
たったかと軽やかに先を進んでいたレイヴンが不意に立ち止まり、くるりと背後を振り返った。
「ここだよ、レヒト!」
元気いっぱいのレイヴンとは対照的に、レヒトは肩で息をしている。
「情けないなぁ」
「……お前が、おかしいんだって……なにが、そんなに離れてない、だよ……」
ほとんど小走りに近いレイヴンの歩調に合わせて、森の中を歩き回ること早半日。途中で何度かブロウ・デーモンの群れとは遭遇するわ、獣道のような悪路に足を取られるわで、まったく散々な目に遭った。天界城を出た頃は高かった太陽も、今では淡い光を放つ月へと姿を変えている。
「ほら、早く行こう! レイヴンお腹すいちゃった」
レヒトの苦労などなんのその。レイヴンはぱたぱたと走って行った。
「……やれやれ」
小さく呟き、レヒトは月明かりの中に浮かび上がる巨大な建造物を見上げた。壮麗な造りの天界城とは違い、華美な装飾などは見て取れぬ、至って質素な外観である。もう真夜中だというのに、窓からは明かりが漏れていた。
ここが、レヒトの目的地である魔法研究所。前天界最高責任者エルディ=クリスティーヌの代に、エルディの弟であるロライザ=クリスティーヌによって創設され、当時はまだ謎の多かった精霊や魔法に関する調査、研究が行われていた場所であり、ロライザの乱心後には、天界人の製造などもこの場所で行われたという。
ロライザの死後、研究所内部に残されていた天界人製造に関する設備や資料などはすべてが破棄され、研究所は再び本来の目的に使用されることになったのだという話だ。
「もう、レヒトってば。なにぼーっとしてるの? 早くおいでよ!」
「――ああ、今行く」
扉の前に立つレイヴンに促され、レヒトは答えて後を追った。
「たっだいまぁ!」
勢いよく扉を開くレイヴン。研究所内が静かなのとも相まってかなり派手な音がしたが、慣れているのか、はたまた研究に没頭しているのか、研究員たちは大した反応を示さなかった。
「おや、おかえりなさい」
奥から現れた男性が、優しい微笑を浮かべてレイヴンを出迎えた。
緩く三つ編みにされた蒼色の髪に、レイヴンと同じ金色の瞳。年は三十を過ぎたあたり、といったところだろうか。眼鏡の奥の瞳は、穏やかな光を湛えている。
「レイヴン、目的のものは手に入りましたか?」
「まぁね」
レイヴンが取り出して見せたのは、例の薬草が詰められた麻袋だ。
「よかったですね。三日ぶんの苦労は報われたようで」
「ほんとだよ。魔物が出てからは薬草も減っちゃったし、これ見付けるのもすっごく大変だったんだから。これも栽培できれば楽なんだけど」
ふぅ、と腰に手をやってため息を吐く。扉が閉まる微かな音に、男性がそちらに視線を向けると、ようやく連れの存在を思い出したらしいレイヴンが言った。
「あ、忘れてた。えっとね、お客さんだよ。レイヴンと一緒に来たの」
レイヴンが開けっ放しにしていた扉を閉めたのは、もちろんレヒトである。それほど大きな音を立てたわけではないというのに、閉めると同時に一斉に視線を受けたレヒトは、少々たじろいだように、小さく会釈して見せた。
「ど、どうも。お邪魔します……」
レヒトに視線を向け、レイヴンの傍に立つ男性も会釈を返す。
「ようこそ魔法研究所へ。私はガルヴァ=ロザイン、所長の補佐役を務めております」
そう言って、ガルヴァと名乗った男性は微笑んだ。人当たりの良いガルヴァの笑顔に、レヒトは少しばかり緊張していた胸を撫で下ろす。
「あ、初めまして。俺はレヒトといいます。ええと……なんというか、天界最高責任者の命令で……」
「ええ、知ってます。所長を説得してこいって無理難題を押し付けられたんでしょう? 実は貴方で十と五人目なんですよ」
どう説明したものかと、言葉を濁すレヒトに対し、ガルヴァはあっさりとそう言った。
「……はい?」
「いや、今度の犠牲者はどんな人なんだろうかと楽しみにしていたんですけど、まさかレイヴンが自分から連れてくるなんて思いませんでしたよ」
これで老後の楽しみが減ってしまいますねぇ、などと大袈裟に言って、ガルヴァは懐から取り出した布で涙を拭う仕草をしてみせた。無論、涙など出てはいない。
「え、ちょ、ちょっと待ってください。どういう意味です、その犠牲者っていうのは……」
「おや、違いました?」
ガルヴァは首を傾げた。
「こんな辺鄙な研究所までいらっしゃるお客さんなんてそういませんから、てっきりレイに弄ばれた人なんだろうと思ったんですけど、違うんですか? うぅん、そうでないとすると……あ、じゃあひょっとしてあれですか? レイヴンを僕にくださいっていう。だめですよ、レイヴンは私のです。あげません」
「いや、だからそうじゃなくて……」
いまいち噛み合っていない会話。どうしたものかとレヒトが思い悩んでいると、話の種になっているレイヴンが欠伸交じりに突っ込みを入れた。
「レイヴン、ガルの子供じゃないし。しかも話が全然噛み合ってないし」
「おや、そうでしたか?」
レイヴンはこくこく頷き、はふぅ、と妙な息を吐いた。
「もうなんでもいいから、とりあえずご飯食べながらにしよ。レイヴン、もうお腹ぺっこぺこ!」
言うと同時に、空腹を告げる虫がきゅるきゅると鳴いた。
「ふふ、そうですね。だいぶ遅くなってしまいましたがお夕飯にしましょうか。レイヴンの好物を用意しますよ」
「わーい!」
両手を挙げて喜ぶレイヴンに、ガルヴァは柔らかい笑みを見せる。まるで親子のようだとレヒトは思ったが、レイヴンの言葉を聞く限り、実の親子ではないのだろう。少し気になったが、聞いても答えてはくれないような気がした。
「レヒトさんも、ご一緒にいかがですか?」
今日一日、朝からなにも口にしていないレヒトに、この申し出を断る理由などないわけで。
「遠慮なく頂きます」
しかし、この言葉を後に死ぬほど後悔するはめになることに、レヒトはまだ気付いてはいなかった。
やや引き攣った表情で、レヒトは皿の上に載せられた物体に視線を注いだ。
バターと蜂蜜、ブルーベリィとイチゴのジャムが、これでもかとばかりにかけられた、三段重ねのパンケーキ。
「食べないの?」
この見るからに甘いパンケーキに、レイヴンはさらにクリームを載せて食べていた。
レヒトは甘いものが嫌いなわけではないが、これはさすがに厳しいものがある。いや、好きだからこそまだ耐えられるわけで、嫌いな人間であればこの匂いだけで胸焼けを起こすこと間違いない。
「おや……甘いもの、お嫌いでしたか?」
「……決してそんなことは」
ないはずなんですけどね……と、続く言葉は自信なさげに消えた。
しかし、出された食事は残さず食う、がレヒトの信条である。とりあえず覚悟を決めて、皿の上のパンケーキに手を伸ばした。
「そういえば……ガルヴァさんは所長の補佐をお務めなんですよね?」
「ええ、そうですよ」
「それじゃあ、会わせて頂くわけにはいきませんか。なんでこんなことになってるのかは、よくわからないんですけど……これも一応、任務なんで」
レヒトがそう言うと、ガルヴァとレイヴンは顔を見合わせて笑った。にやりといった感じの二人の笑い方に、今朝がた出会った性格破綻の天界最高責任者を重ね見て、レヒトはなんともいえない嫌な予感に襲われた。
「そうですね、紹介しましょうか」
ガルヴァは椅子から立ち上がり、レイヴンの横に立つ。
「こちらが所長のレイヴン=カトレーヌ教授です」
予感的中。しばし部屋に沈黙が流れた。
「……レイヴン=カトレーヌ、教授……」
「うん」
あっさりと。小さく切り分けてもらったパンケーキをフォークで突き刺しながら、レイヴンが答える。
「……さ、最初に会ったときに言ってくれれば……!」
レヒトがレイより受けた命令は、魔法研究所の所長を連れて来ること、だ。最初に会った時点でレイヴンが研究所の所長であることをレヒトに告げていれば、あるいは最初からレイが所長の名前を教えておけば、こんなに無駄な苦労をせずにすんだというのに。
レヒトがそう言うと、レイヴンはフォークを左右に振りつつ、心底楽しそうな笑みを見せた。
「それじゃあ楽しくないじゃん!」
「レヒトさんはなかなかいい反応でしたね、レイヴン」
「ねー!」
楽しそうに笑い合う二人。となると、レイが所長の名前を告げなかったのも、きっとわざとに違いない。
(なに考えてるんだ、あの人は……!)
レヒトが湧きあがる怒りに打ち震えていると、レイヴンが不意に声をあげた。
「あらら。噂をすればなんとやら、かな。レヒト、なんかレイさんが呼んでるみたいだよ」
「呼んでる……って、どういうことだ」
思わず周囲を見回すレヒトに、レイヴンはくすりと笑った。
「こっちだよ。ほら、見てて」
レイヴンがその小さな指に填められていた指輪を外して机の上に置くと、指輪から淡い光が溢れ、それはゆっくりと人の姿を形作っていった。ここから離れた天界城にいるであろう天界最高責任者、レイ=クリスティーヌの姿を。だいぶ縮小されてはいたが。
「……これは……」
『よぉ、無事に辿り着けたみてぇだな』
長い脚を優雅に組んで頬杖をつき、小さくなっても相変わらずの高慢な態度。
「……地図をなくした挙げ句、なんの説明もなしに危険な森に放り出した誰かさんのおかげで、危うく死ぬところでしたが」
『なーに、無事に辿り着いたならいいじゃねぇか。どうやら、うまいことレイヴンにも会えたみてぇだしな』
「よくありませんよ……」
レイは豪快に笑った。当然のごとく、レヒトの呟きは無視である。
『っと、そんな話するためにわざわざ呼んだんじゃねぇんだよ。こっちは忙しいんだ』
「レイヴンに用なんでしょ?」
いつの間にか、レヒトのぶんのパンケーキにまで手をつけていたレイヴンが、むぐむぐと頬張りながら答えた。
『おぅよ、わかってんなら話が早い。例の件、どうすんだ。いい加減、今までみたいに無視ってわけにゃいかねぇぞ』
「うん、今日はいっぱい魔物と遊んであげたからね」
訂正しておくと、出くわした魔物と遊んであげたのはレヒトである。
『そうか。……ここんとこ、魔物の数は急激に増加してる。兄上が心配してた通りになったな……』
レイはいつになく真剣な様子で腕を組んだ。
「受けてあげてもいいよ」
断られると思っていたのだろうか。レイヴンがそう答えると、レイは少しばかり意外そうな顔をした。
『ふぅん、どういう風の吹き回し……と言いたいとこだが、やめとくぜ。明日、また会議があるからよ。間に合うように来てくれや』
「はーい」
レイは満足げに笑うと、蒼穹を思わせる双眸を閉じる。その瞬間、傲岸不遜な天界最高責任者の姿は音もなく掻き消えた。
「! ……消えた。これ、ただの指輪じゃないみたいだな……」
レヒトが言うと、レイヴンは少し困ったような顔をした。
「これね、レイヴンも興味あってさ。調べてはみたんだけど、原理まではなかなか……もうちょっとで解明できそうなんだけどなぁ」
レイヴンの言葉を受け、ガルヴァがくすくすと笑みを溢した。
「その台詞を聞くのも何度目でしょうね。神の頭脳を持つ、などと評されても、やはり本物の神様には敵いませんか?」
からかうようなその口調に、レイヴンはむぅと唇を尖らせた。
「神様……?」
首を傾げたレヒトに、レイヴンは、そうだよ、と言葉を返す。
「これはね、三闘神が作った特別な指輪なんだって。この指輪もそうだけど、とりあえずヘヴンにある不思議なものは、みーんな三闘神が残してったものらしいよ」
「今の技術では、決して作ることができない……それどころか、素材がなんであるのかさえ、実際のところわかってはいないのです。さすがは伝説の神々、といったところですね」
――三闘神。ヘヴンで知らぬ者はいないだろう、遥か昔にこのヘヴンを創造したとされる、三人の大いなる神々――ヴェゼンディ、ミロスラーフ、そしてアルカディアス。今でこそ、その名を知らぬ者はいないほどだが、その存在は四百年前、天魔大戦が起きる前までは謎に包まれており、彼らを伝承の中の存在だと認識していた者も多い。だが、神は実在したのだ。
ヘヴンの危機に姿を見せた三闘神は、神の名に恥じない圧倒的な力の片鱗を見せつけた。襲い来る天界軍の兵士、そのことごとくを大地に這わせ、天界軍精鋭部隊は壊滅にまで追い込まれた。創造神である彼らが、闘神と呼ばれるのはこのためである。
天魔大戦終結後、三闘神は再びいずこかへと姿を消したと伝えられており、今日まで、その姿を目にした者はないという。
「とにかく。明日また天界城に行かなきゃいけないんだし、今日は休んでいきなよ」
パンケーキを食べ終わったらしいレイヴンが、指についたクリームを舐めながら言った。
「ええ、それがいいですね。部屋を用意しますので、少し待っていてください」
「すみません。お世話になります」
レヒトが頭を下げると、ガルヴァは微笑み、上の階へと上がって行った。後ろ姿を見送り、レヒトは窓の外へと視線を移す。
「……ふぅ」
窓から流れ込む、心地よい風に目を細める。レヒトの長い一日が、ようやく終わろうとしていた。