第53話 死闘の果てに
裂帛の気合とともに振り下ろされた戦斧を、レヒトは頭上で受け止めた。あれだけ巨大な戦斧だというのに、振りは恐ろしく早い。
シャウトの馬鹿力に加え、かなりの重さが乗ったその一撃は、並の相手であれば、受けとめた武器ごと両断していただろう。もちろん、並の相手であればの話だが。
みしり、と腕の骨が軋むのをレヒトは感じた。無理に弾き返すことはせずに、後ろへと身を退いて勢いを殺し、なんとか体勢を立て直そうとする――が。
「わぁっ!?」
踏み固められ、氷と化した雪に足を滑らせた。
前のめりに倒れる瞬間、レヒトが無意識に掴んだのは、シャウトが腰に巻いていた長い布である。
「なっ!?」
盛大に倒れ、雪に見事な人型を作ったレヒトとは逆に、さすがに慣れているためか、シャウトは雪に片手を付くとそこを軸にして大きく跳び、バランスを崩すことなく着地した。
観客からまばらな拍手があがる。
「あんたなぁ……俺様まで巻き込むなっつの。おーい、生きてるかー?」
未だ雪に埋もれたままのレヒトを見てシャウトが言えば、レヒトが力なく左手を挙げた。
「仕方ないだろっ。こんな雪の中で戦ったことなんかないんだからな、俺は!」
雪を払い落としながらレヒトは立ち上がる。
力は、圧倒的にシャウトが上。速さに関してはレヒトに軍配があがりそうだが、いかんせん、戦いの舞台となっている場所が悪い。
シャウトが手強いのはもちろん、膝下あたりまで積もりに積もったこの雪も、慣れているだろうシャウトはともかく、レヒトにとっては大きく不利に働く。
「あんたと違って、俺は歩くだけで精一杯……うわっ!」
言った側からふらつく。倒れないよう必死にバランスを取るレヒトを眺め、シャウトはため息混じりに呟いた。
「……削がれるなぁ……やる気……」
「う、うるさいっ! 本気で来いよ!」
「おっ、そう? じゃあ遠慮はしないぜ! 後悔するなよ!」
レヒトと違い、この雪の上をも平然と走れるシャウトが、ようやっと剣を構えたレヒトに迫る。
腹を薙ぐようにして戦斧を横に振れば、レヒトは戦斧の表面に手を付き、そのまま跳びあがると空中で身体を捻り、シャウトの背後に着地してみせる。
すぐさまセイクリッド・ティアを一閃させるが、即座に身体を反転させたシャウトが身を退き、レヒトの剣は空を斬った。
「うーん……惜しい」
顎に手をあてて唸る。
攻撃をかわすことには成功したが、これにはさすがのシャウトも驚いたようだ。
「あ、あんたは軽業師か!」
「違う。魔界評議会議長の元護衛、今は天界の特使だ」
生真面目にそう返すと、レヒトは再びセイクリッド・ティアをシャウトに向けた。
「なんとなく感覚が掴めてきた。要は余計な力を抜けばいいんだろう。――次は俺のほうから行くぞ!」
本当に感覚を掴んだらしいレヒトが、体勢を崩すことなくシャウトに突きかかる。
「っと!」
剣の切っ先が掠め、シャウトの頬に裂傷が走った。弾かれることを警戒して剣を引いたレヒトに、シャウトは追撃してこなかった。
戦斧を構えたまま佇むシャウトの足元に、ぽたりと落ちた鮮血が、真っ白な雪に真紅の染みを作る。
「やべっ。傷口、開いちまったか」
見れば確かに。簡単に止血だけはしてあったのだろう。太股の傷口に巻かれた布が、じわりと紅く染まっていた。
「……こりゃ、ちっとばかしやべぇな」
表情は変えないが、やはり痛むのだろう。シャウトの声に、微かだが焦りの色が滲むのをレヒトは感じた。
「おい、手加減しようとか、間違っても思うなよ? 真剣勝負だ」
それに気付いたのか、シャウトが念を押すように声をかけてくる。
「わかってる。あんたは手加減できるような相手じゃ……ないからな!」
言って、剣を振り下ろす。シャウトが戦斧でその一撃を受けとめ、そのまま、二人は押しあう。手負いとはいえ、力ではどう足掻こうともシャウトにはかなわない。
「舐めるなよ!」
シャウトが吠え、レヒトの剣を弾く。その勢いに押されたレヒトに向け、戦斧を袈裟掛けに振り下ろす。
(受けるのは無理だ……それなら!)
レヒトは屈むように体勢を低くし、前に走った。内懐に滑り込むように身を躍らせ、コートの内側に仕込んだ短剣を閃かせる。
左足――紅く染まった止血帯がわりの布の下、矢傷への狙いは違わなかった。
「ぐぁっ……!」
突き立てた短剣はそのままに、レヒトはセイクリッド・ティアを構えなおすと、体勢を崩したシャウトに斬りかかった。
懐から取り出した短剣を左手で放ち、右手のセイクリッド・ティアで突きかかる。左右二刃から繰り出される連撃が、シャウトに反撃を許さない。
ほとんど一方的な攻撃。気付いた時には、シャウトは崖際まで追い詰められていた。
「くそっ……」
遥か下に広がる大地を視界の端に捉え、シャウトが舌打ちすると。レヒトは不意に攻撃の手を止めた。
「なんで攻撃しない! 哀れみのつもりか、レヒト!」
シャウトが怒りを露にすれば、レヒトはふっと笑った。その意味を掴みかね、シャウトが一瞬だけ気を許した隙に。
「そんなんじゃない」
そう言って――。
レヒトがなにをしたのか。きっと、誰も理解できなかっただろう。
シャウトがそれを理解したのも、自身の体が空へと投げ出されたのに気付いたからだった。
――シャウトだけではない。レヒトの身体も、谷底へと向かって落ちてゆく。
「レヒト!?」
快とレイヴンの声が重なり、雪に閉ざされた山に響いた。
「レヒト……レヒト!」
駆け寄ろうとするレイヴンを、快がそっと制する。
「快……」
「……だめ。行っちゃだめだよ。レヒトは言ってたじゃない。任せてくれって。だから……今はレヒトを信じなきゃ……」
そう言って、快はレイヴンの肩に優しく手を置いた。その指先が震えていることにレイヴンは気付いた。
「……レヒト……」
祈るような気持ちで、二人は待った。
どのくらいの時間が経ったのかは、わからない。一瞬だったかもしれないし、永い時間だったのかもしれない。
二人が落ちたその崖際に、手がかかった。這い上がってきたのは――。
「レヒト!」
今度こそ駆け寄ろうとしたレイヴンの足が、再び止まった。
レヒトが、雪に突き刺したセイクリッド・ティアを見つめて。美しい装飾の施された見事な大剣には、大量の血液が付着していた。内腑にまで間違いなく達しているだろう、どす黒い血が。
ざわざわとしていた住人たちも、押し黙る。
「……竜は殺した」
レヒトの声が、響く。
誰も、なにも答えなかった。
「これが、貴方たちの……望んだことだったはずです」
違いますか、と声をかければ、住人たちが息を飲むのがわかった。人の命など奪ったことはないだろう、住人たちの間に広がる重苦しい沈黙。
「ぅ……あぁ……」
その沈黙を破ったのは、ケアルだった。シャウトがいなくなったことに気付いたのか、彼を探すように、雪の上を歩く。その唇が、なにか言葉を紡いだ――おそらく、シャウトを呼んでいるのだろう。
「ケアル、こっちへ……おいで、ケアル……」
ロディが語りかける。その肩を、住人の一人が掴んだ。
「なにを……」
「ロディさん。あんたの娘の腹には、あの竜の赤子がいるんだろ? 俺たちに復讐に来るかもしれない。ここで殺したほうがいいんだ」
「そ、そんな……そんなことは……!」
声をあげるロディを制し、その男性はレヒトに視線を移した。
「なあ、あんた。悪いんだが……」
あげかけた言葉を無視して、レヒトのほうから男性に言う。
「なら、貴方自身で始末されてはいかがですか?」
「えっ……」
思いもよらぬ言葉だったのだろう。男性は硬直した。
「ああ、俺の剣をお貸しします。人間の首くらいなら、あっさり飛ばせますよ」
レヒトが血濡れのセイクリッド・ティアを差し出せば、男性は小さく悲鳴をあげた。
「なら、貴方はどうです?」
レヒトは別の住人にも剣を向けた。
「お、俺は……もう、気がすんだから……!」
皆、脅えたように首を振った。
「わざわざ殺さずとも、彼女一人では生きられない。ここに残せば……死ぬだけです」
言って、レヒトは住人たちに向き直った。
「……お帰りになられてはどうですか。これ以上、ここにいる意味はないでしょう」
住人たちは頷くと、どこか強張った表情で山を降りて行った。狂気の光が消え、呆然としているロディも、人々に連れられて姿を消した。
レヒトは微動だにせず、その様子を見つめていた。
「……レヒト、その……本当に……」
気まずげに、快が声をかけようとして。彼女はレヒトの異常に気付いた。
「ねぇ、レヒト……顔、蒼白だよ。それに黒いからわかりにくいけど、コートが血に染まってる。これ……返り血なの?」
「……返り、血? ……いや……違う……それは……」
ぐらりと、その身体が傾く。
「レヒト……!? しっかりして……レヒト!」
意識を失い、倒れかけたレヒトの身体を。力強い、逞しい腕が抱きとめた。