第52話 退けない理由
ドラゴン・リバティへと続く雪に覆われた山道を、レヒト一行とルナルの街の住人たちは登っていた。
先程まで、飽くことなく降り続いていた大雪は止み、今は風もまったく吹いていない。
静かな――静か過ぎる山に、人々の微かな息遣いが、嫌に大きく響いた。
道を行く途中、雪の中に残る真新しい血の跡を見付けた。誰のものかなど、考えるまでもない。
普段、人々が頻繁に行き交うことがないためか、道らしい道などはなく。点々と続く血の跡を辿り、一行は雪山を進んでいた。
頂上に近付いて来たのだろうか。急斜面に手を付き、ほとんど這うようにして登ってゆく。
斜面を登りきったその先には――少し開けた空間が広がっていた。
そこに立つ人影。住人たちの手にしたランプと松明の仄暗い明かりが、二人の姿を照らし出す。
そのうちの一人――竜族の青年シャウト=フリュウが、一行の姿を捉えて唇の端を吊り上げた。
「よぉ。やっぱり追って来たんだな……って、おいおい、ずいぶんと多いなぁ」
レヒトが追って来ることは予想済みだったようだが、住人たちまでおまけについてくるとは思わなかったらしい。少しばかり驚いたようだ。
「ケアル……! 無事、だったのだな!」
住人たちを押し退けて、ロディが前に歩み出た。ケアルがどんな表情をしているのか、レヒトには読み取れなかったが――彼女が、シャウトの服を強く掴んだのが見えた。
更に近付こうとするロディを、レヒトは手で制す。
「……それ以上は」
レヒトは前もって、決して手は出さないようにと条件を出している。言っては悪いが、街の住人が束になったところでシャウトに敵うはずもないし、下手に手を出されても邪魔なだけである。
「ははぁ、なるほど。見物人ってわけか。俺様、大人気じゃね?」
ふざけた口調で言い、シャウトはレヒトに視線を向けた。その瞳が、不意に真剣な光を宿す。
「……悪かった。協力するなんて言っておいて、その俺様が騒ぎ起こしちまった。あんたまで、巻き込んじまったしさ」
「いや……構わないさ、そんなことは」
「あんたは優しい男だな、レヒト。あんたのことを思うと、おとなしく捕まってやりたいとこなんだが……」
シャウトは、一度そこで言葉を切った。そして、自身の隣に立つ人に視線を送り、ふっと微笑む。
「……退けない理由があるんだよ。俺様には」
愛する人のために。彼女のためなら、世界全てを敵に回せる――シャウトはそう言い切った。
「……羨ましいな、そういうの」
小さくそう呟けば、シャウトは意外そうな顔をした。
「あんたにも、あるだろう? 退けない理由ってやつが」
「退けない理由……か」
今までのレヒトであれば、即答していたはずだ。退けない理由がある、と。ヘヴンに生きる人々のため、そしてヘヴンのため、退くことはできない、と。
この旅を始めるきっかけは、実に些細なことだった。
偶然にも――実際には、レヒトの主であるラグネスが裏で糸を引いていたわけだが――天界最高責任者たるレイに目をつけられ、変わり者と有名なレイヴン=カトレーヌ教授を説得し、表舞台に引っ張り出すという役目を押し付けられた。そしてなぜかそのまま同行者に命じられ、ヘヴン各地を飛び回った。
はじめは、単なる使命であったはずのそれは、いつの頃からか、レヒトにとっても大切なものへと変わり始めていた。
傲岸不遜な天界最高責任者と出会い、彼の目指すものを知った。平和を願う、多くの人々と出会った。
(……平和……)
夢に見るあの男に問いかけられた最後の言葉が、レヒトの頭の中をぐるぐると回っていた。
『世界を救うために、お前はどうすればいいと思う?』
簡単だ。自分たちはそのために、今まで旅をしてきたのだから。異種族との間に同盟を結び、ともにヘヴンの危機に立ち向かう。
それが答え。そのはずなのに。
(本当に、そうなのか?)
ルナルの街の住人たちは言った。異なる種族など存在しないほうが、争いなどは起きないのだ、と。殺してしまえ、と。
その言葉の、なんと傲慢で愚かなことか。
わかっているのだろうか。異種族と同盟を結ぶ、その理由がなんなのか。
力を持たぬ民――人間を守って欲しいと、人間を守るためにその力を貸して欲しいと、頼むためだというのに。
(……わかりあえることは、ないのか……?)
人々の言葉は、レヒトの心に暗い影を落としていた。
『不可能なのだ』
あの、疲れきった声を思い出す。
『人間に変化を求めること自体が、間違っている』
身体が、心が、溶けてゆくような感覚に襲われた。
「おい……レヒト?」
答えないレヒトを不思議に思ったのか、シャウトが声をかけてくる。
真っ直ぐなその眼差しを、少し眩しく感じながら、レヒトは少し悲しげに苦笑した。
「……俺には、シャウトほどかっこいい理由は……」
「あるだろ」
思い付かないよ――レヒトがそう続ける前に、シャウトが言った。
「あるじゃねぇか。立派な理由が。異種族との同盟実現。お前に託された希望だろうが」
「……希望」
それは、思いもよらぬ言葉だった。
「知らないだろうから言っといてやるよ。魔精霊が、魔界各地に小規模ながら軍を派遣した。精霊人も、義勇軍を組織して魔界に送ったらしい」
お前の功績じゃねぇか、と笑われる。
「……そんなことが……」
「残るは、竜族だけだろう。俺様とケアル、そして俺様とお前、それから……お前と、後ろにいるお嬢さんがわかりあえたように。異なる種族だろうと、きっとわかりあえる。違うか?」
シャウトは、小声でそう言った。レヒトは快のほうへ視線を移す。彼女には、今の言葉は聞こえなかったはずだ。レヒトを見つめる蒼穹の瞳が微笑みを宿し、唇がそっと言葉を紡いだ。
信じてるからね――レヒトの瞳に、再び強い光が宿った。
「……ああ、そうだな。退けない理由が、俺にもある」
レヒトは腰に提げたセイクリッド・ティアを抜いた。美しく煌めく剣の刀身が、向かいあって立つ男の姿を映し込む。
「そうそう。その調子」
シャウトは隣に立つケアルを下がらせた。
少し開けたこの場所なら、二人が戦う程度の空間はなんとか確保できそうだが、雪が降り積もっているために足場は最悪である。加えて周囲は断崖絶壁。間違って落ちでもすれば、助かる保証はどこにもない。
シャウトは背に負っていた巨大な戦斧を構えた。身の丈ほどもあるそれを、片手で軽々と振り回す。手負いだということを、全く感じさせない。
「……お互いの背負うものを賭けて――真剣勝負といこうぜ」
この戦いは、きっと死闘になる。
レヒトはそう感じていた。
シャウトには、退けない理由がある。レヒトにも、退けない理由がある。
対峙する二人の間を、一陣の風が吹き抜けてゆく。
「……日の出だぜ、レヒト。これが最後にならなきゃいいな?」
闇を裂き、姿を見せた太陽を眺めてシャウトが言う。
「それはこっちの台詞だ」
セイクリッド・ティアを構え、目の前に立つ男に、負けぬように言い返す。
降り積もった雪が光を反射して、これから始まる死闘には似合わぬほどに、美しく幻想的な風景を作り出していた。
「……俺は、負けない」
静かに、だがはっきりとそう言ってやれば、シャウトは一瞬その目を見開き――楽しそうに、笑った。
「この俺様を倒すってのか。はっはっは! いいな! そりゃあいい!」
一頻り笑った後、シャウトはまだ笑みを浮かべたまま、しかし真剣な眼差しで言い放つ。
「俺様も、負けてやる気はない。遠慮はいらねぇ。こっちも……本気でいくからな」
お互いの守るべきものを、背負うものを賭けて。二人の男がぶつかりあった。