第50話 愛と狂気の狭間で-1-
ドラゴン・リバティへと向かって街の遥か上空を飛んでいたシャウトは、見慣れた愛する人の姿を見付けて急降下する。ルナルの街の小さな広場で、愛するその人は身を屈め、隠れるようにして泣いていた。
「ケアル……!」
近付き、その尋常でない様子に息を飲む。
愛しい人はこの雪の中だというのに、裸足で服は裂け、身体中、切り傷と青痣だらけだった。
逃げてきたのだと、シャウトは直感的にそう思った。
細い身体を抱き寄せれば、一瞬その身をこわばらせるが、それが愛しい男の腕だとわかると安堵したように、その瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「……なにがあった?」
そう問いかければ、ケアルは力なく首を横に振った。
ケアルの身になにが起こったのかなど、聞かずともわかる。今までにも、幾度となく同じことがあったのだから。だが、ケアルが自ら逃げ出してくるなど、初めてのことだった。
彼女の身体にある痛々しい傷跡。それは、長い年月をかけて、たった一人の人間の手によって刻まれたものだ。
ケアルとシャウトが出会ったのは、今から五年ほど前のこと。街をふらふらしていたシャウトが、屋敷の前を通りかかった時、開け放たれた二階の窓からふわりと舞い落ちた、ケアルのリボンを拾った。それが、二人の出会い。
シャウトは外から、ケアルは二階の窓から。二人は少しだけ話をした。
ドラゴン・リバティへと帰っても、シャウトは街で出会った少女のことが忘れられなかった。それからは暇を見付けては街まで通い、少し離れた会話を楽しんだ。シャウトは彼女が見せる、無邪気な笑顔が好きだった。その想いが愛に変わるまでに、大した時はかからず――しかし、それが後に悲劇を呼び起こすこととなる。
無数の足音が近付いて来ることに気付き、ケアルを腕に抱いて、シャウトはやって来るであろう人物を待ち構える。
闇から現れたのは予想通りの人物。そしてその後に続く、剣や弓を構えた街の住人たち。
先頭に立った男、ロディ=マインドは、ケアルを抱き締めたシャウトを見て怪訝な顔をした。
「お前……? そうか、お前だな。お前が私から娘を奪ったのだな……! 許さんぞ……殺してくれる!」
暗い、狂気を宿した瞳がシャウトを映した。
「その愛しい娘を……今、テメェは殺そうとしてるじゃねぇか」
ロディの手に握られた弓を見て、シャウトは忌々しげに吐き捨てた。
ロディは、親に恵まれなかった子供だった。早くに父親を亡くし、母親に捨てられ、孤独な少年時代を過ごした。
そんなロディを救ったのが妻の存在だった。娘も生まれ、幸せな家庭を築いていたロディ。だが、その歯車は、最愛の妻を亡くして以来、少しずつ狂っていった。
病で妻を亡くしたロディは、ことさらケアルを可愛がるようになった。常に側に置き、ケアルの姿が見えなくなると騒ぎ、ついにはケアルを屋敷に閉じ込めるようになった。
その深すぎる愛情――それは、幼かったケアルの一言によって、狂気へと変貌したのだった。
『お父さん! 私ね、好きな人ができたの!』
愛情が、狂気に変わった瞬間だった。
光を奪ったのは、その瞳が、自分以外の男を映すことがないように。言葉を奪ったのは、その唇が、自分以外の男に愛を囁くことがないように。身体中に傷を付け、自分だけのものだと言い聞かせた。
日に日に増える傷跡に、シャウトが何度逃げるように諭しても、ケアルは頑として首を縦には振らなかった。
狂ってしまった父親を、これ以上傷付けないように。父親がそう望むなら、側にいようと。
「ケアルを殺す……? 違う。違う。それは違う」
ロディが微笑んで言った。狂気を宿して。
「私はケアルを連れ戻しに来たんだ。さぁ、おいでケアル。一緒に帰ろう」
その腕を、伸ばす。
「安心しなさい。化け物は私が始末してあげるから。ほら、街の皆も来てくれたよ。怖がらなくていい」
ケアルがすがるようにシャウトの腕を握り締めた。弱々しい力で。
「……テメェに、ケアルは渡さねぇ」
声が冷たくなるのを、シャウトは感じていた。
もう限界だ。これ以上は、きっと耐えられない。腕が、震える。瞳に、憎悪の炎がともる。気を緩めたら、目の前の男を八つ裂きにしてしまうかもしれない。
恵まれなかった過去など知ったことか。どんな過去があったにせよ、それがケアルを傷付けていい理由になどなりはしない。
「私から……私からケアルを奪うのか! 殺せ! 殺してしまえ!」
ロディが叫んだ。
「し、しかし……相手は人間です! 化け物では……」
言葉は、最後まで続かなかった。ロディの矢が、言いかけた青年の胸を貫いていた。
「化け物だよ。くくっ……ははは……」
笑い声が、闇に響く。
「……狂ってる」
そう声に出したのは、誰だったか。
住人たちの手にした矢が、一斉に向けられた。
シャウトは抱いていたケアルから身を離した。視界の利かぬケアルは、なにが起きたのか理解できない。
微かな風を切る音とともに、矢が放たれた。肉を貫く嫌な感覚。ケアルの前に立ちはだかったシャウトは、その身を襲った感覚に少しだけ顔をしかめた。
腕に、肩に、足に。見事に急所を外して射られた矢。
「……ぅあ……ぁ……!」
充満する血の匂いで、ようやく事態を理解したケアルが声をあげた。背に触れた彼女の指が、震えているのにシャウトは気付いた。
「ケアル……なぜ、その男を庇う。そうか、そうなのだな……。私からお前を奪おうとした化け物は、その男なのだな……!」
「人のことを化け物、化け物ってなぁ……テメェに言われたくはねぇっつの」
シャウトは眉根を寄せた。
「黙れ! 化け物め……私の娘を汚した、竜の化け物め……!」
「なっ……」
シャウトは言葉を失った。周りの住人たちも、驚愕に目を見開いている。
ロディが適当に言っているようには見えない。彼は確信している。シャウトが竜族であると。
シャウトの正体を知っているのはケアルと、あの不思議な青年――レヒトだけである。
(まさか……)
ケアルであるはずがない。となると、やはりレヒトなのだろうか。
(違う……違う、絶対に)
彼ではない。レヒトと話したあの後、シャウトはすぐに傷付いたケアルを見付けたのだ。彼が、ロディに言う暇などなかったはずだし、それよりも。
(あいつは、そんなことする奴じゃない。そんなこと、できる奴じゃない)
確証などありはしない。だがシャウトは信じていた。初めて持った、友人を。
しかし、そうなると……。
竜、という言葉を聞いて、街の住人たちの瞳に恐怖の色が浮かんだ。
「あー……まぁ、その、なんだ。確かに俺様は竜族だ。けど、別にあんたらをとって食うわけじゃ……」
横手から放たれた一本の矢を、シャウトは手で掴み取る。
そのままそちらへ視線をやれば、弓を構え、怯えたように震える青年の姿。
「……話し合いにもなりゃしないぜ」
「当然だ。竜に言葉など不要! ケアル、もう大丈夫だ。化け物は皆が殺してくれる。お前の腹にいる化け物の赤子も、私が始末してあげよう……」
ロディが優しく言葉を紡ぐ。
その言葉に、シャウトは二度目の衝撃を受けた。
それは、シャウトも知らなかった事実。
「なんだって、そんなこと……ああ、そういえば……あんた、医者なんだっけ。俺様としたことが、忘れてたぜ」
ロディはケアルが身篭っていることに気付いたのだろう。そして、それが竜族の子であることも。
怒り狂ったであろうロディは、おそらく赤子を殺そうとしたのだ。だから、ケアルは逃げて来たのだろう。愛する男の子供を守るために、必死で。
「ケアルはそれを嫌がって、こうして逃げて来たんじゃねぇか。それくらい、わかってやれよ。あんた父親だろう!」
「黙れ、化け物め! 許さん……! 許さん!」
ロディが射た矢を叩き落とす。
「殺せ! 竜を殺せぇ!」
その声に弾かれて、二人を取り囲むようにして様子を窺っていた街の住人たちも、シャウトに向け一斉に矢を放った。
「ケアルまで殺す気か!」
逃げ場はない。シャウトはとっさに、本来の姿へとその身体を変化させた。人の数倍はあろう、黄金色の巨大な竜。ケアルを庇うように、その大きな翼で包み込む。
「射て! 射て! 化け物を殺せぇっ!」
絶え間なく射たれる矢。突き動かすのは、狂気。従うは、恐怖。
人間の射る矢などでは、竜の身体に傷を付けることなどできはしない。だが、胸が痛んだ。人々の恐怖に染まった瞳を見て。
(……人間と竜族がわかりあえるなんてこと、ありはしないってわかってたはずだろ?)
また、胸が痛む。傷を負った肩や足よりも。無傷の胸が、痛い。
逃げることも、反撃を加えることもせずに――できずに。シャウトはただ、じっと耐えた。
どれほど、時がたったのか。それは一瞬のようにも、永遠に近しくも感じられた。
一筋の、眩い光が天を射した。突然のことに、誰もが一瞬、天を見上げ――。
「なにをしているんですか!」
響いた声に、振り返る。
黒いコートに身を包んだ、三人の若者の姿があった。その中央にいるのは――。
(……レヒト)
一瞬、目があった。今のうちに逃げろ、と言われた気がした。
シャウトは咆哮をあげると、ケアルを抱えて空へと飛び立つ。彼らの姿を振り返ることなく、シャウトは闇の中を飛び続けた。
(くそっ……)
ドラゴン・リバティへと続く山道に、シャウトは静かに降り立った。竜の姿が、人のものへと変わる。
「もう……飛ぶだけの力もねぇか……あーあ、俺様カッコ悪すぎ」
自嘲ぎみに呟く。
「ごめんな、ケアル。勝手に連れて来たりして。けど……あのまま、ケアルを残してはこれなかった」
そう言ったシャウトを見上げて、ケアルは小さく微笑んだ。
「……ありがとな。こっからは歩きになっちまう。少しキツイけど……頑張ろう」
ケアルを抱き上げ、シャウトはゆっくりと歩き出す。傷付いた身体は一歩進む度に悲鳴をあげたが、無視を決め込む。
(あいつ……きっと追ってくるだろうな)
山道を行きながら、シャウトは自分たちを逃がしてくれた、あの不思議な青年を思い出していた。
人間と竜の間に同盟を結ぶために協力をすると約束したのに、その自分が騒ぎを起こしてしまった。これで交渉は決裂だろう。
レヒトはきっと追ってくる。彼にも退けない理由があるのだから。その結果、刃を向けあうことになったら、彼は容赦なく自分を斬るだろう。
それも悪くないと、シャウトは思った。
真っ白な雪が、ぽたぽたと落ちた血を吸って紅く染まった。まるで、彼を誘う道標のように。