第4話 三光の庭園で-3-
短剣に付いた赤黒い血肉を、引き抜いた草で拭い去る。周囲には物言わぬ肉塊と化した魔物が転がり、強烈な腐臭を放っていた。
「わぁ……凄いね、強かったんだ」
あっさりと魔物の群れを撃破してみせたレヒトに、レイヴンは感嘆の声をあげた。
「レイヴンと違って魔法使えないのに、やるぅ」
「……やっぱり、あれは魔法だったのか」
「そうだよ」
レイヴンは頷く。魔法とは、ヘヴンに溢れる力――精霊を行使することによって、ヘヴンの理になんらかの影響を及ぼす、不思議な力の総称である。一言に魔法と言っても、その種類はさまざまであり、自らの肉体を変化させることも、自然に干渉することで自在に操ることも、強大な力を有する者は天候すらをも変化させることが可能だという。
尤も、魔法が扱えないレヒトにはよくわからないのだが。
「実際に目にしたのは初めてだが……凄まじいな」
「まぁね。魔法は誰にでも使えるってものじゃないから」
そう。魔法は限られた種族の者にしか扱えない。ヘヴンにおいて魔法が使えるのは竜族、魔精霊、精霊人と、天界人と呼ばれる者たちだけである。たとえどれほどの努力をしようとも、これらに類さない者は魔法を扱うことはできず、故にレヒトも使えない。今までそれを惜しいと思ったことはなかったが、あれほどのものを見せられては、やはり多少の羨望を抱かざるを得ない。
しかし、レヒトがそれを口にすることはなかった。
「魔法使えないみたいだったからさ。危なくなったら、ちょっと援護したげよっかなって思ってたのに、見た目によらず意外と強いんだね」
「……見た目によらずはお互い様だ」
聞こえるように言ったつもりだったが、耳には入らなかったようだ。どうやら、自分にとって都合の悪いことは一切聞こえないらしい。まるでどこぞの天界最高責任者である。嫌でも今朝がたのやり取りが思い出され、レヒトは渋面を作った。
「――あ。ところでさ、ここってレイさんの許可がないと、一般人は入れないはずなんだけど。見たところ天界の関係者じゃないみたいだし」
そんなレヒトの懊悩など露知らず、レイヴンは小首を傾げて問いかける。レヒトは腰に手を当て、ため息を吐きつつ言葉を返した。
「そのレイ=クリスティーヌ様に命じられたんだよ」
そもそも、レヒトがこんな森の中を彷徨い、死の淵に片足突っ込むような事態を招いた元凶こそ、その男――天界最高責任者レイ=クリスティーヌなのだから。
ことの発端は、数時間前に遡る。
「つまり……魔法研究所の所長をここまで連れて来いと、そういうことですね?」
レヒトの言葉は冷たかった。ついでに棘も生えていた。彼の名誉のために訂正しておくと、レヒトは決して無愛想な人間ではない。たった今、投げ捨てたのである。
冷たい言葉を投げかけられながらも、目の前に座る男は動じた様子もなく、さも当然とばかりに言い放った。
「そういうことだ。……それと、顔あげな。ついでにその格好も頂けねぇ。俺ぁ堅苦しいのは嫌いなんだ」
それがヘヴンを支配する天界最高責任者の言葉だろうかと、半ば呆れつつも、レヒトは床に跪いたまま、数段高くなっている玉座を――正確には、玉座に座る男を見上げた。
女性ばかりか男であっても、見入らずにはいられないその美貌。美しすぎる人を、人形のようだと形容することがあるが、凄腕の細工師がどれほど趣向を凝らして作った人形であっても、彼の持つ美貌には、遠く及ばないことだろうとレヒトは思う。
白と金とを基調とした法衣に包まれた白磁の肌には、染のひとつも見付けられず、神々しいまでの金糸の髪は、自身の身長よりも長く伸ばされ、雄大な蒼穹を思わせる双眸には、強い意志の輝きが見て取れる。背に頂く三対六枚の純白の翼が、彼の人間離れした美貌を彩っていた。
そして、外見の美しさもさることながら、その一挙手一投足、すべてがまるで計算し尽くされたかのように、人の心を惹き付ける。
(……ここまでは伝承通りだ、確かに。ここまでは……)
豪華な椅子にゆったりと腰掛け、長い脚を優雅に組み、頬杖を付いてレヒトを見下ろすこの男――そう、彼こそが四百年前、世界を混沌の渦に巻き込んだ天魔大戦の英雄にして、現在の天界最高責任者でもある、レイ=クリスティーヌその人である。
吟遊詩人の伝承歌にも謳われ、伝説となっている彼の名を知らぬ者など、ヘヴンには存在しないだろう。もちろん、レヒトも知っている。
弱冠十六歳にして、ヘヴンの未来と、ヘヴンに生きるすべての者の希望とを背負い、ヘヴンの存亡を賭けた戦いに身を投じることとなったレイ=クリスティーヌ。どんな状況下にあっても、決して希望を捨てることのない不屈の精神と、その強い意志により、戦乱を終結に導いた高潔な魂の持ち主で、聖人君主と誉れ高い人物――これが、彼について世間一般で語られていることである。
当然、レヒトもそのイメージ通りの人物を想像していたのだが。
「……美化されすぎだ……」
レヒトはため息混じりに呟いた。その途端、レイの眉が跳ねあがる。
「おい。今、なんか俺に失礼なこと言っただろ」
小声だったので聞こえないだろうと思ったが、どうやらしっかり聞こえていたらしい。きっと、自分の悪口だけはどんなに小さな声でも聞き逃さないに違いない。
「……なんでもございません」
軽く視線を逸らして答えると、レイは唇の端を持ちあげた。微笑んだのではない。にやり、といった感じの笑い方だ。嫌味なまでに整った顔に、とびきりの悪戯を思い付いた子供のような笑みが浮かぶ。
「重要会議を盗み聞いた罰にしちゃあ、優しいもんだろ。なぁ?」
傍に控える黒髪の男性に、レイは横目で視線を投げかける。無論、明確な同意の言葉はなく、もの言いたげな、というか、呆れたようなため息が返ってくるだけだったが。そんな男性の反応は予期したものだったのか、レイは楽しそうに笑い、再びレヒトにその傲岸不遜な瞳を向けた。
「俺、偶然廊下を通りかかっただけですし。そもそも会議なんて盗み聞いてません」
天界で開かれる会議に出席する主に伴われ、レヒトは天界城へとやってきた。そして偶然、この部屋――謁見の間に面した廊下を一人歩いていたところを、黒髪の男性に捕まったのである。
レイの補佐官か世話役なのだろう男性に、視線で救いを求めると、男性は、この人の悪い天界最高責任者に弄ばれる犠牲者に、同情と哀れみの籠った目を向けた。その目は諦めろ、と如実に訴えている。
「魔法研究所は城の北に広がる森――『三光の庭園』の中にある。こっから北東の方角だ。地図は……まぁ、いいか。どっかいっちまったし」
まるで聞く耳持たぬ様子のレイに、レヒトはこれでもかと盛大にため息を吐いた。ちなみにレヒトのこの行為、不敬罪として首が飛んでも文句は言えない。
「レイ様、拒否権という言葉をご存知でしょうか」
「知らねぇな」
レイはひらひらと手を振った。楽しくて仕方がない、といったように。
「意外と面倒な奴だな。なんでもいいから行って来いってんだ。これ以上駄々をこねるってんなら、命令違反ってことで処罰してもいいんだがな。ま、お前の主に迷惑かけたくなけりゃ、おとなしく従っとけ。……さぁて、どうする?」
どうするもこうするも、最初から、他に選択肢などありはしない。
「……謹んでお受け致します、天界最高責任者レイ=クリスティーヌ様」
仕方なしに、レヒトは嫌味たっぷりに、形だけ最上級の礼をして退出した。閉められた大扉の向こうから聞こえてきたのは、抑えようともしない大笑いであったが。
レヒトがここに至るまでの経緯を語って聞かせると、レイヴンは小さく苦笑した。
「レイさんってば相変わらずなんだから」
「おかげで酷い目に遭った。今回ばかりは本気で死を覚悟したからな」
血肉を拭き終えた短剣を、鞘に戻して懐へしまう。魔物の脂がべっとりとこびり付いてしまった数本は、惜しいが廃棄処分するしかないだろう。レヒトは何度目になるかわからないため息を吐いた。
「そもそも、見ず知らずで無関係の俺を捕まえる必要なんかなかっただろう。性格はあれでも伝説の英雄であることに違いはないんだ。人が欲しいって大声で言えば、喜んで奉仕しようって奴が幾らでも集まるんじゃないか」
「うーん、それじゃあ無駄だと思ったんじゃないかな。事実、無駄だったと思うよ。……うぅん……」
レイヴンはよくわからない言葉を返し、なにか思案するように難しい顔をして腕を組んだ。
「どうした?」
「え? あ、うぅん、なんでもない」
レヒトが声をかけると、レイヴンはぱたぱたと両手を振った。
「ええと、魔法研究所が目的なんだよね。じゃあ、レイヴンが案内してあげるよ。ここからそんなには離れてないけど、道なんかあってないようなもんだから」
悪戯っ子のように笑って、きっと迷子になっちゃうよ、と付け加える。実はすでに迷子だったりしたのだが、レヒトは黙っていることにした。こんな入り組んだ森に、地図も持たずに入ったのだから当然といえば当然だが、そこはそれ、悪いのは地図を紛失した挙げ句、なんの情報も与えずに放り出したレイである。
「それは助かるよ。ありがとう」
レヒトが素直に謝意を述べると、レイヴンは満面の笑みを浮かべて歩き出すが。
「――あッ!」
なにかを思い出したように声をあげると振り返り、ぱたぱたと走り寄ってくる。
「そういえば……名前、まだ聞いてなかった」
レヒトもすっかり忘れていたが、まだお互いに名乗ることすらしていなかったのだ。
「んっとね、レイヴン=カトレーヌだよ」
「俺はレヒト。よろしく、レイヴン」
そう答えて差し出したレヒトの手を、ぎゅっと握り返して。
「よろしくぅ!」
にっこりと、レイヴンは元気いっぱいに笑って見せた。