第43話 水上都市ティークウェル
どこまでも広がる青空の下、蒼穹よりも深い色合いの青が、遥か彼方まで続いている。
湖とは違う、その広くて大きなものを、レヒトとレイヴンは呆けたように見つめていた。
「二人は初めてなんだね」
そんな二人を眺めて、面白そうに笑う快。
「実際に見るのは、な」
目の前に広がる青へと視線を向けたまま、レヒトは答えた。
真魔界を出発した一行は、中央大陸と北方大陸とを結ぶ、クレセント大橋へと差し掛かっていた。
精霊界、真魔界、そして八つある魔界の領土のうち、五つが中央大陸に。北方大陸には、残る三つの魔界領土と、三人の目的地である竜谷が存在する。三人が足を踏み入れたクレセント大橋は、中央大陸と北方大陸とを繋ぐ唯一の道だ。
「見てよ、レヒト! ずーっと向こうまで続いてる! ほら見て、凄いよ!」
橋から身を乗り出すようにして海を見つめていたレイヴンが、レヒトのほうを振り返る。その瞳は好奇心できらきらと輝いていた。
「感動するのはいいが、間違っても落ちるなよ、レイヴン。俺は助けてやれないぞ」
レイヴンはぽん、と手を打った。
「泳げないんだよね」
「……忘れてくれ。頼むから」
レヒトが小声で呟けば、二人は声をあげて笑った。
「さ、そろそろ行こう。いつまでも海に見惚れてると、本当に陽が暮れちゃう」
「そんなにかかるのか?」
「まあね。今から歩いて行くとすると、北方大陸に抜ける頃には夜になっちゃうかな」
レヒトは眉根を寄せた。これはうっかりすると、橋の上で夜を越すなどということになりかねない。それは正直、ごめんこうむりたい。
そんなレヒトの心情を悟ったのか、快はくすりと笑みを溢した。
「ご心配なく。橋のちょうど中央にね、街があるから」
「え! 橋の上に街があるの!?」
レイヴンが振り返り、驚きの声をあげた。好奇心を刺激されたらしい。
「うん。橋を行き来する旅人のために造られた街でね。物資なんかもけっこうあるんだ。北方大陸――特に竜谷は、雪と氷に閉ざされた極寒の大地だから。街で旅装を整えたほうがいいかもね」
「詳しいな」
こういう時、旅慣れた快には助けられることが多い。
「昔、いろんなところを旅してたからね。こっちにも、何度か来たことがあるんだ。けど……前に来たときは、この橋も人でいっぱいだったのに。商隊とか、旅の一座とか……」
「魔物の影響かもしれないな」
人気のない森の中や街道で、魔物に襲われたと見られる旅人の遺体を何度か目にしている。レヒトたちも旅の途中、何度も魔物に出くわした。倒した数など、もはや数え切れないほどだ。
「一刻も早く、なんとかしないといけないのにな。なにもできないことが、もどかしいよ」
とは言え、未だ魔物出現の詳しい原因は不明のまま。レイヴンは定期的に魔法研究所のガルヴァと連絡を取って事態の解明に努めているようだが、あまり芳しい成果はあがっていないらしい。新種の魔物の目撃情報も増え、被害はゆっくりと、だが確実に増している。その状況がレヒトを焦らせていた。
「そうだね。けど焦っちゃだめだよ、レヒト。僕たちは、僕たちにできることをやろう。永い時を生きる竜族の手を借りることができれば、魔物に対するいい対策が見付かるかもしれない。そのためにも、まずは竜族の長老様を説得しなきゃ。……大丈夫、きっとうまくいくよ」
快に言われると、本当にそうなりそうだという気がしてくるから不思議だ。
「ああ……悩んでなんか、いられないな。よーし!」
レヒトは小さく笑い、再び橋から身を乗り出して海を眺めていたレイヴンの頭を、ぺしっと軽く叩いて走り出す。
「競走だ!」
「ずるーい! レヒトなんかに負けないぞぉッ!」
前を走る二人を眺め、快は日溜まりでまどろむ猫のように、優しくその瞳を細めた。
クレセント大橋の中央に造られた、旅人のための街――ティークウェル。
中央大陸と北方大陸とを結ぶ交易の中継点でもあるこの街は、数多くの商隊や旅人が行き来する活気に溢れた街だ。
このティークウェルの街、本来はクレセント大橋に建設された砦であったことをご存じだろうか。四百年前の天魔大戦でクレセント大橋が建設された際、北方大陸と中央大陸とを繋ぐ第二前線基地、テルエル砦として造られたのだ。天魔大戦終結後はテルエル砦からティークウェルと名も改め、北方大陸と中央大陸を行き交う旅人のために解放されることとなったのだが。
レヒト一行がティークウェルを目指して進んでいると、街の入り口に設けられた門の前に、とても警備兵とは思えない、ゴロツキらしき連中がたむろしていた。
「おい、お客さんだぜ」
そのうちの一人がレヒトたちに気付いたらしく、顎をしゃくる。男たちが一斉に振り向いた。周囲には、空になった酒瓶が何本も転がっている。
「警備兵……には見えないね。そこ、退いてくれない? 入りたいんだけど」
快が両手を腰にあてて男たちに言い放った。街の中から溢れる、妙な違和感を察知したのか、冷たい声で。
「おうおう、威勢のいい姉ちゃんだなぁ。いいぜぇ、そういう女は好きだ」
「あら、それはどうもありがとう。じゃあ、街の中がどうなってるのか、それとゴロツキっぽい君たちがどうして門の前に居座ってるのか、教えてくれない?」
「そりゃあ教えられんな。しっかし、見れば見るほど、あんた美人だなぁ。あんたを献上すりゃ、俺も幹部になれるってか?」
男たちが下卑た笑みを浮かべて立ち上がる。その手には、それぞれ得物が握られていた。
「野郎ども! 女は傷つけんなよ! 男はやっちまえ!」
「おう!」
威勢のいいかけ声とともに、突撃を開始するゴロツキたち。
「……残念ね。おとなしくすれば、許してあげようと思ったのに」
そう言って、快は酷く妖艶な微笑を浮かべた。
「仕方ないから、君たちをしばき倒して通ることにするよ」
右手をゴロツキたちに向ける。
「精霊よ!」
快の言葉に反応し、今まで穏やかだった海が急に荒れ狂った。
「な、なんだぁ!?」
怯えた声を発するゴロツキ。未知への恐怖、というやつだ。レヒトも今ではだいぶ慣れたが、魔法を使えない身だと、快やレイヴンの使う不思議な魔法は、感嘆すると同時にやはり恐ろしくも感じられる。
十年前、精霊狩りが起こってしまったことも――なんとなくだが理解できるのだ。
「水よ、泣け!」
荒れ狂う水が一気に、ゴロツキたちめがけて襲い掛かった。
「うわぁ! に、逃げ……!」
上げかけた言葉ごと、ゴロツキたちを飲み込み、押し流す。凄まじい水流に門も破壊されて瓦礫と化し、ゴロツキともども海の中へと消えていった。
「……ちょっとやりすぎちゃったかな?」
再び静けさを取り戻し、穏やかになった水面と、破壊された門の残骸とを交互に眺めて、快が苦笑してみせる。
「仕方ない。今のは不可抗力だ。……それよりも」
レヒトは破壊された門の奥に視線を向けた。かなり凄まじい音がしたというのに、住人たちは誰も様子を見に来ない。そして、街を取り巻くこの妙な違和感。
「……気をつけて、行こう」
レヒトの言葉に、二人も頷く。
一行は先程まで門があった場所を通り、街の中へと足を踏み入れて――。
「これ……どういうこと?」
街の惨状を見渡して、レイヴンが呆然と呟いた。
廃墟と化した街の中を、冷たい風が吹き抜けていく。その風が運ぶ、嫌な――しかし、嗅ぎ慣れた匂い。
「……レヒト」
「わかってる」
セイクリッド・ティアに手をかけて、レヒトはゆっくりと歩き出す。
街の中心部に近付けば近付くほど、その匂い――血臭は濃くなっていった。
そして。
「!」
街の中央――そこに広がっていたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。
バラバラに引き裂かれた、もともとは人間だったと思われるものが、血と腐肉の匂いを撒き散らしながら散乱している。
血の海に沈む小さな手――快が口元を覆った。
「なにこれ……まるで虐殺じゃない……!」
レイヴンが、転がっている丸いもの――おそらく、誰かの頭だったのだろう――に手を触れた。
「……腐敗の具合から見て、……二日ってとこかな。もっと古いのもありそうだけど」
「なんだって、こんな……!」
唇を噛み締めるレヒト。
木材の軋む微かな音に、全員が武器を構えて振り返る。見れば、なんとか原型を保っている家の焼け焦げた扉を開き、やつれた様子の老人が現れた。
「あんたがたは……旅人かね? どうやってこの街に……」
「入り口のゴロツキしばき倒してですけど。……貴方は?」
「わしはティークウェルの長をしておったものじゃ……。このような時に、この街を訪れるとは……」
小さく呟き、老人は踵を返す。
「あ、ちょっと!」
レイヴンが声をあげる。老人は振り返ると一行に向かって手招きした。
「入りなさい。たいしたもてなしはできんが……この街がどういった状況にあるか、話すことはできるじゃろう……」
三人は顔を見合わせて頷くと、老人の後に続いて家の中へと入った。
「……すまんの、今は茶も出すこともできん」
三人を粗末な椅子に座らせ、老人はため息混じりに呟いた。
「いえ、そんなことは構いません。それより、一体なにが起きているんですか?」
「……五日ほど前のことになるかの……突然、賊徒が街を襲ってきたんじゃ」
「賊徒……ですか?」
「そうじゃ……奴らは毎晩のようにやってきては悪逆の限りを尽くしてゆく。わしらは逃げることすらかなわん……」
先程、快が倒したゴロツキ――賊徒は、街の住人を逃がさないための見張り役でもあったのだろう。
「警備隊は……いないんですか? あとは、領主にかけあって兵を派遣してもらうとか……」
レヒトが言うと、老人はレヒトのほうへと視線を向けた。苦悩と、諦めと、疲れ――様々な感情が混ざりあった瞳。
「街の警備隊は、まったく歯が立たんかった。領主には……」
老人は、一度言葉を切った。
「この街は、ちょうど中央大陸ガドレイン領と、北方大陸ハルニート領の中間に位置しておる。以前は、どちらの領に属するのかでずいぶんと揉めたもんじゃ」
その話は、レヒトもラグネスを通して聞いたことがある。
ティークウェルは豊かな街だ。どちらの領土に属するかで、双方は揉めに揉め、小競り合いまで起きる始末だったという。テルエル砦がティークウェルの街へと姿を変えてから三百年以上も決着が付かなかったため、前代領主の時代――今から四十年ほど前のこと、評議会議長たるラグネスが間に立つ形で、ようやく話し合いの席が設けられることになったのだが。他の領主が見守る中、魔界評議会に開かれた話し合いの場は、自慢話と相手の悪口とが飛び交う単なる口喧嘩の場になり果て、ついには取っ組みあっての乱闘騒ぎにまで発展した。結局、議会での話し合いも平行線に終わり、街の中心から南側をガドレイン領、北側をハルニート領とする、というなんとも微妙な結末に終わったのだった。そのため、先代が隠居した現在においても、ガドレイン領主アルベルと、ハルニート領主ウィークは非常に仲が悪い。
「どちらの領主にも、この街の現状を訴えたのだが……」
「相手方になんとかしてもらえの一点張りなんですね」
「……そうなんじゃ」
老人は深い深いため息を吐いた。
「今日もきっと来るじゃろう……。あんたがたはどうなさる。見張りの賊徒を倒せるほどなら、反対側の門から出ることもできるじゃろう」
「その賊徒は、ハルニート領から現れるんですね?」
レヒトたちはガドレイン領を抜けてきたが、賊徒の噂など聞かなかったし、魔物の被害は多少あれど、人々は普段どおりの生活を送っているように見えた。
「そうじゃ。ハルニート領では、最近になって、領主も手を出せんような、凶悪な賊徒が横行していると聞く」
レイは天界の兵士を魔界に送ったようだが、いかんせん、数が少ない。大都市が優先され、小さな街や村までは手が回らないという事情もある。
賊徒というものは、基本的に大きな街は狙わない。大きな街は物資が多く、栄えている代わりに、警備も厳重であるからだ。しかし、ティークウェルのように、旅人のために開放されたような街は違う。物資も豊富に存在し、開放的であるがゆえに警備も薄い。加えて、ティークウェルは前述した通り、少々特殊で領主が対処しにくい環境にある。長い橋の中央ということもあり、住人の避難も難しい。
「……格好の獲物ってわけか」
許せないな、とレヒトは小さく呟き、黙って話を聞いていた二人に視線を向けた。
「……放ってはおけないよ」
「レイヴンも、このまま逃げるのはやだな」
快とレイヴンが口々に言った。レヒトも、もとよりそのつもりである。
「わかりました。俺たちがここに残って、賊徒をなんとかします。大丈夫、任せてください」
自信があるわけではないが、憔悴しきった老人を安心させるように、レヒトは力強い言葉をかけた。