第3話 三光の庭園で-2-
「プチサイクロン!」
その声に、弾かれたように。
穏やかに周囲を流れていたはずの風が、突如として意思を持ったかのように、鋭い無数の刃と化してゴーゴンに襲いかかった。風の刃はレヒトの剣では傷ひとつ残らなかった固い鱗を容易く切り裂き、邪眼で石と化した大地をも捲りあげ、大樹や草木は砕かれ、ぶつかりあい、風の奔流に飲まれて消える。その身になにが起こったのか、理解する間もなく。断末魔の悲鳴すら残せずに、美しき魔物は塵と化した。
レヒトは瞬きさえ忘れ、目の前の光景に目を奪われていた。
「やった、やったぁ! レイヴンの勝っちぃ!」
楽しげなその声は、レヒトのすぐ傍で聞こえた。
さわ、と木の葉の揺れる微かな音に、反射的に身体を預ける大樹を見上げれば、太い枝に腰掛ける、小さな人影と目があった。木漏れ日の中にその姿を確認したレヒトは、信じられないとばかりに、数度、瞬きを繰り返す。
「こ、子供……」
そう、それはまだ幼い子供だったのだ。
年の頃は十歳前後。さらさらとした長い銀髪を風に遊ばせ、真っ直ぐにレヒトを見つめる金色の双眸は、どこか猫を思わせる。見た目にも高級とわかる白い法衣を身に纏い、手には自身の身長よりも大きいだろう、美しい装飾の施されたスタッフを構えていた。全体的に色素が薄く、どこか儚げな印象を受ける外見だ。
とてもそうは見えないが、ゴーゴンを一撃で葬ってみせたのは、この子供で間違いないだろう。さりげなく周囲に意識を向けてみても、他に気配は感じない。
正直、レヒトは驚いていた。こんな子供が、熟練の戦士にも恐れられる魔物を葬ったこともそうだが、これだけの至近距離にいながら、レヒトはまったく気配を掴めなかったのだ。職業柄、レヒトは他人の気配に対して敏感であるし、加えて、彼は生まれ付いて人並み外れた神経を誇っている。周囲に意識を向けている余裕などない状況だったとはいえ、この子供はそんなレヒトの背後を、あっさりと取ってみせたのである。
呆気に取られたままのレヒトを余所に、子供は手にしたスタッフを重そうに放ると、自身は大樹の枝から羽毛が舞うように、ふぅわりと舞い降りた。
「よっと」
転がったスタッフを重たそうに拾い上げ、大樹の幹に背中を預けて座り込むレヒトへと視線を向ける。猫のような金色の双眸に捕らえられ、レヒトはようやく放心状態から抜け出した。
「あ……ええと、ありがとう。君のおかげで死なずに――」
レヒトが言い終える前に、目の前の子供はレヒトに向かって、手にしたスタッフを突き付けた。危うくスタッフの直撃を受けるところだったが、左腕をついて上体を反らし、なんとか避ける。人間離れした反射神経を誇るレヒトにこそ可能な芸当である。
「ここは関係者以外立ち入り禁止区域だよッ! レイヴンが見つけてあげなきゃ死んじゃってたとこなんだからねッ!」
どことなく儚さすら感じさせる、可愛らしい子供。しかし、その性格のほうはといえば、受ける印象とは少々、異なるようである。どこぞの天界最高責任者が思い出されて、レヒトは再び眉間に皺を寄せた。
「ふーぅ」
レイヴン、というらしい子供は、突き付けていたスタッフを重たそうに抱え直した。明らかに大人用だろうそれは、幼い子供が扱うには少しばかり大きすぎる。
「――あ、そうそう。一応、これは返しとくね」
座り込んだままのレヒトにレイヴンが差し出したのは、ゴーゴンの胸を貫いた愛剣だった。亀裂の走っていた刀身は、ものの見事に砕け散り、ほとんど柄しか残っていない。ゴーゴンの胸に突き立てたままになっていたため、レイヴンがゴーゴンを葬った際に、巻き添えになってしまったのだろう。
無理もない。鈍刀などいとも簡単に弾き返すゴーゴンの鱗を、あの風は易々と切り裂き、塵と化したのだ。
「うーん、折れちゃってるね。破片はたぶん、そのあたりに散らばってると思うんだけど」
「いや、気にしないでくれ。見付けたところで直せるものじゃないし、そのおかげで俺は助かったんだしな」
剣一本で済めば安いものだと、受け取った剣はとりあえず鞘に戻して紐で縛り付け、レヒトは強かに打ち付けた身体を擦った。大樹に激突した背中と、二度もまともに打ち据えられた腹部が鈍く痛む。とりあえず確認できる傷に深いものはないが、中の状態まではわからなかった。骨や臓器に異常はないと信じたいが。
身体を動かして呻くレヒトをしばらく眺めていたレイヴンが、ふと思い出したように、懐から麻袋を取り出した。
「怪我してるんでしょ。ちゃんとした治療薬じゃないけど、薬草でよければわけてあげる」
麻袋からレイヴンが探し当てたのは三種類の草と、球根のようなもの。どれも薬草らしいが、残念ながらレヒトには、そのあたりの雑草との違いもわからない。
「これは紅天樹の若葉。紅くなる前の緑色の葉には出血を抑える効果があるんだ。これが御影草。自然治癒力を高める効果が期待できるよ。ほんとは煎じて飲むのがいいんだけど、そのまま食べても大丈夫。こっちが柊草。殺菌効果があるから、傷が化膿しないようにお酒で溶いて塗っておくといいよ。それから、これが月光草の根。これには弱い麻酔効果があるんだ。痛み止め代わりに使えると思うから、これも食べなよ」
「詳しいんだな。俺には雑草と見分けがつかない」
レヒトが素直な感想を漏らすと、レイヴンはくすくすと笑った。
「これくらい余裕だよ。ほら、手伝ってあげる」
簡易的な治療用にと、常日頃からレヒトが携帯する小型の酒瓶(幸い、割れていなかった)を受け取ったレイヴンは、近くにあった石を使い、慣れた手付きで薬草を潰してゆく。その様子を横目で見ながら、レヒトはレイヴンから渡された薬草を口に放った。なんともいえない独特の匂いと苦さが口に広がり、レヒトは思わず顔を顰める。
「まずっ……」
「薬草なんだから当たり前だよ。良薬口に苦しっていうでしょ」
「まあ、そうだな……。薬なんかはまずければまずいほど効く気がするから」
無数にあった裂傷にレイヴンが用意してくれた傷薬を塗り付け、深い傷には服の裾を裂いて作った包帯を巻き付ける。一通りの治療を終え、レヒトはようやく安堵の息を吐いた。
「はぁ……まさか、あんな魔物に出くわすとはな」
レヒトが呟くと、レイヴンも同意するようにこくこく頷いた。
「レイヴンもゴーゴン見たのは初めてだったかも。今まで見たのはもっと弱い魔物――せいぜいロプトクラージャとか、ドゥーラとか……その程度だったからね」
レイヴンが挙げたのはどちらも魔物の名前だが、レヒトは実物を見たことがない。
「強いのか?」
「そうだねぇ……そこそこ、かな。ま、レイヴンにかかれば、あんなの余裕だけどねッ!」
えへん、と自信満々に胸を張る。随分な自信だが、確かにレイヴンにとっては魔物など大した敵にならないのかもしれないとレヒトは思った。事実として、先程もレヒトの目の前で、上級に類されるゴーゴンを、なんの苦もなくあっさりと打ち倒して見せたのだから。
「レイヴン強いから。あんな魔物なんか一撃だよ。さっきだって――」
「――待った」
止めなければ延々と続きそうなレイヴンの言葉を遮り、レヒトは周囲に視線を走らせる。
「え? なになに?」
レイヴンはきょとん、とした顔で見上げてくる。なにも感じてはいないようだ。確かに、森の様子はどこも変わったようには見受けられない。だが、レヒトの頭は激しく警鐘を鳴らしている。
それは、いわば直感とでも言うべきものだ。普通の人間であれば大して気にも留めないであろう、この不確かな感覚に、レヒトは絶対の信頼を置いている。常に死と隣り合わせの戦場などでは、この直感によって命を救われることも、決して少なくはないからだ。
そして、レヒトの直感は、時に恐ろしいまでの的中率を誇る。
「……説明できるようなものじゃないが……間違いなく、なにかが変わった……と思う」
青々と繁った葉を風が揺らす、その微かな音だけが、静かな森の中を流れてゆく。言葉の途絶えた森の中は、静かだ。静か過ぎるほどに。
「……そうか、音だ。音が、消えてる」
「音? ……あッ、鳥の囀り!」
その言葉が終わるとともに、不意に生まれた殺気を感知し、二人はほぼ同時に飛んでいた。
レヒトは右に、レイヴンは左に。目標をなくした炎の弾はそのまま真っ直ぐに飛び、石化した大樹の幹に当たって爆発した。衝撃で石の大樹は砕け散り、飛来する無数の破片を、レヒトは手で叩き落す。
――森の静寂を破るのは、低い獣の唸り声。
レイヴンの掲げるスタッフの先に、煌々と宿った魔法の光が、薄暗い森の中に潜む獣の姿を映し出した。
シルエットは、直立した狼にも見えるだろうか。その背にボロ雑巾のような闇色の翼を持つ魔物――ブロウ・デーモン。大抵は群れで行動し、知能もそこそこにある。鋭い牙と爪、そして炎の弾を生み出して攻撃する、最下級の魔物である。
最下級の魔物とは言っても、それは他の魔物――先程のゴーゴンなどと比較してのことであり、一般的な兵士や傭兵にとって、素早い動きから繰り出される攻撃はまさしく脅威。ヘヴンに魔物が溢れた十年前の大異変では、このブロウ・デーモンの群れによって、壊滅的な被害を受けた街も多かったという。
「……ここは、こんなに魔物が活動的なのか?」
「まぁね。さっきも遊んであげたとこ」
あの大異変から早十年。最近になって、再びヘヴンの各地に魔物が出没するようになったと主から聞かされてはいたが、これだけの短時間、それも狭い範囲内で何度も魔物に遭遇するほど、事態は深刻になっていたということか。
「おいおい……三光の庭園は三闘神に祝福された神聖な場所……のはずだよな」
遥か昔にヘヴンを創造したとされる三人の神々――三闘神。その三闘神が最初に降り立った場所と伝えられるのがこの地、三光の庭園なのである。
「そのはずなんだけどね。……けど、つい最近だよ。こんなにいっぱい見かけるようになったのは」
そう答えて、レイヴンは緊張感の欠片もなしに欠伸する。
「ま、大丈夫でしょ。そんなにいっぱいいないしね」
なにを基準に、そんなにいっぱいいない、との言葉が出てくるのかは不明だが、目の前にいるデーモンの群れは、軽く見積もっても二十といったところだろうか。とはいえ、いかに数が多かろうとも、レイヴンの敵でないことには違いない。
これは余裕だな、などとレヒトが気楽に考えていると。
「んじゃ、頑張ってね」
いつの間にか、また近くの大樹の枝に腰掛けたレイヴンが、にこにこと笑いながら言い放った。
「……。一応、聞いておきたいんだが」
飛んできた火炎弾を、身を低くしてかわしながら、レヒトはレイヴンに声をかける。
「なぁに?」
「拒否権って知ってるか?」
「レイヴン、そんな難しい言葉知らなーい」
楽しげに笑いながら、おどけた口調で言い放つ。レヒトは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。こういった手合いにはなにを言い返しても無駄であると、今朝がた嫌というほどに思い知らされたばかりである。
「……なんだって俺がこんな目に……」
ため息とともに呟き、レヒトは懐から、大きさや形状の異なる数本の短剣を引き抜いた。
「……怪我の治療費と、使い物にならなくなった剣とひしゃげた鎧、それから……ああ、まったく! とにかく生きて帰って、請求書叩きつけてやる!」
一声吠えて、レヒトは魔物の群れの中へと躍り込んだ。