第35話 帝都に立ち込める暗雲-2-
年の頃なら五十過ぎ、白いものが混じったブラウンの髪と、同じくブラウンの瞳。良く言えば温厚そうな、悪く言えば気の弱そうな印象を受ける男性。見る限りでは、とても裏で闇取引などをするような人物には見えないのだが……。
「突然押し掛けてしまい、申し訳ございません。俺は天界の特使、レヒトと申します」
「いやいや、こちらこそお待たせして申し訳ない。わしがこの屋敷の主、ブラム=フォード。立っていてはなんでしょう、こちらへどうぞ」
フォード卿に促され、レヒトは部屋の長椅子に腰を下ろす。フォード卿が向かいの長椅子に腰かけると、即座に紅茶が運ばれてくる。例の使用人の男性だ。男性は紅茶のカップを並べると、礼をして部屋の外へと消える。
「ささ、どうぞ」
「ありがとうございます」
レヒトはゆっくりと紅茶のカップを口に運ぶ。液体を舌の上で転がし、目を閉じて、ゆっくりと飲み干す。
「……美味しいです」
味わって飲んでいたわけではない。可能性は低いだろうが、毒を疑ったのだ。
レヒトは職業柄、毒物などに関してもそこそこの知識を持っている。過去、ラグネスの食事に毒が混ぜられていたこともあり、レヒトは致死量に満たない、微量の毒を自ら服用するなどといった、かなり無茶な実験も重ねてきた。その成果がこれである。食事にしても飲み物にしても、ゆっくりと味わえば、毒が入っているかどうかわかるようになったというわけだ。……あまり自慢できるような特技ではないが。
「そうですか、それはよかった」
フォード卿はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべた。そして自らも紅茶のカップを口に運ぶと、少し声のトーンを落としてレヒトに問いかけた。
「して……天界の特使殿が、わしなどにどのようなご用件で? セルトラートの書状には、確か陛下にお会いしに来た方である、と書かれておりましたが……」
「はい。俺は天界最高責任者レイ=クリスティーヌ様より、真魔界へ向かうようとの特命を帯び、この国へ参りました」
にっこり笑顔で言ってやる。なんの目的でかは、あえて言わずに。
「そ、そうでしたか……」
「皇帝陛下に謁見したかったのですが、生憎、今はできないとのこと。……事件があったようですね」
「え、ええ……まあ……」
レヒトはまた紅茶を啜る。別に喉が渇いているわけではない。相手に心理的な揺さぶりをかけるためである。
「事件のことはセルトラート様より伺いました。ブラム様も危険な目に遭われたとか」
「危険な目……?」
レヒトはわざとらしく首を傾げる。
「二人組の男女に寝首を掻かれ、無理に陛下に宛てた紹介状を書かされた……と聞いたものですので。……違いましたか?」
「あ、ああ! そ、そのことでしたか。ええ、その通り。大変な目にあいましたよ」
フォード卿はいささか安堵したような表情を見せる。こういった腹の探り合いには、向かない性格のようである。尤も、ファントムに言わせれば、レヒトもじゅうぶんにわかりやすい性格らしかったが。
「ご無事でなによりでしたね。しかし、今度は街の子供たちが消えてしまったとのこと。なにかお心当たりなどは?」
「いや、それがまったく。わしは連中と一度会っただけ。陛下への紹介状を書いてやっただけで、それ以上のことは……」
レヒトはまた首を傾げる。
「一度だけ? それはおかしいですよ」
「お、おかしいとは?」
手にしたカップを机に戻す。その音が、静かな室内には嫌に大きく響いた。
「フォード卿。貴方は二度、少なくとも二度は犯人と接触しているはずです。一度目は、陛下への紹介状を書いた時、そして二度目は、おそらく子供たちが消えた後に」
「ど、どうして……」
「貴方は皇帝陛下にこう言ったそうですね。『真魔界に来る子供たちを、指定された場所に連行するように』と。それは犯人から聞いたのでしょう。おそらく交渉が決裂し、子供たちが姿を消した後。……貴方は犯人と会っているはずだ。会って、この言葉を聞いている。……お忘れですか?」
フォード卿は答えなかった。
「……しかし、俺にはわからない。どうして、要求を突っぱねなかったのですか?」
「そんなことをすれば、子供たちの命はないと……」
彼が震える声で呟く。レヒトは大袈裟に何度も頷く。
「ああ、そうでした。確かに子供たちを盾にされては、それ以上、動けませんね。……実は、俺もここに来る前に、魔界で似たような事件に遭遇したのですよ。……幼児誘拐事件に、ね」
部屋の空気が凍り付く。レヒトはそんなことなど気にせずに、机に並べられた菓子のひとつを摘まんで口に入れた。もちろん、毒見は忘れずに。
「その時は、俺の連れが誘拐されて事件が明るみになり……実行犯など、組織の者は全員が捕らえられたのですが……首謀者は確か、ベイゼル=ワイザーとかいう男でしたね」
「そ、その男……どうなったので?」
「興味がおありですか? 魔界の誘拐犯の末路に」
フォード卿はぶんぶんと首を振った。
「い、いえ! ただ……どうなったのかと」
「これがなかなか口を割らないもので……なにも喋らないままついに処刑されました」
「そ、そうでしたか……」
胸を撫で下ろす、といった表現がぴったりのフォード卿を見て、レヒトは内心、舌を出す。もちろんまったくの嘘で、現在でもベイゼル=ワイザーの取り調べは行われているだろう。彼はレイの言葉を信じて、なにもかもべらべらと喋っているはずである。
そんな時だった。
「……フォード様」
まだ幼い声がした。それから、慌てたように部屋の扉が叩かれる。
「ご、ごめんなさい。ミッフィーです。えっと……お茶を……」
扉がゆっくりと開かれ、フォード卿が慌てて立ち上がる。そして開いた扉の前――レヒトから、部屋に現われた小柄な人影を隠すように立ちはだかる。
「ミッフィー! 今日はよいと言ったはずだ!」
「え、けど……」
「ええい、もうよい! すぐに下がれ、今すぐにだ!」
「は、はい……!」
えらい剣幕で怒鳴られ、ミッフィーと名乗った人影は、慌てたようにその場を去ってゆく。
「これはお見苦しいところをお見せしましたな。……さて、もうこのような時間ですし、そろそろお帰りになられてはいかがですかな」
「……そうですね。突然押し掛けてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえいえ。それでは……」
呼ばれて現れた使用人の男性に連れられ、最初に通された来賓用の部屋を抜けて屋敷の外へ。
「あ、あの……」
控え目な声がかけられたのは、すでに屋敷からはだいぶ離れた頃だった。
振り返れば、そこには。
「君は……」
立っていたのは、明るいオレンジ色の髪をした、まだ顔に幼さを残す少女だった。純朴そうな、可愛らしい顔立ちをしている。
少女の顔に覚えはないが、その声に、聞き覚えがあった。少女はぺこり、と頭を下げると、小さな声で言った。
「……ミッフィーです」
「フォード卿の屋敷にいた子だね。……どうしたんだい?」
「……これ」
差し出したのは、丸められた一枚の紙だった。レヒトがそれを受け取ると、ミッフィーと名乗った少女はなにも言わずに走り去ってしまう。
「ミッ……!」
名を呼ぼうとして、レヒトはやめた。どこで誰が聞き耳を立てているともしれない。
彼女がレヒトに託した一枚の紙。これは、なにを意味するのか。レヒトはミッフィーから託された紙を懐にしまうと、一度だけ彼女が走り去った方角――フォード卿の屋敷を眺め、セルトラートの屋敷へと戻るために踵を返した。
「おかえりぃ。意外と早かったね」
すっかり寛いだ様子のレイヴンの頭を小突き、レヒトも隣に腰を下ろす。部屋の外にも中にも、ファントムの姿はなかった。レヒトがフォード卿の屋敷に赴いている間に出て行ったらしい。
紅茶を運んできたセルトラートに礼を述べてから、レヒトは先程、ミッフィーと名乗った少女に手渡された紙を取り出した。
「なーに、それ。もしかしてラブレター?」
「そうだったら嬉しいが……ん?」
紙に目を走らせていたレヒトは、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「……凄いぞ、レイヴン。これは……」
「え、なーに?」
「……ミッフィーに感謝しないといけないな。最高のラブレターだ」
レヒトが机に置いた紙を、レイヴンとセルトラートの二人が覗き――その顔に驚きが広がってゆく。
「レヒト! これって……」
「ああ。人身売買の裏取引を書き記したものに違いない。魔界の幼児誘拐犯、ベイゼル=ワイザーと、ブラム=フォードとの取引を、な」
間違いない、やはりフォード卿は脅されたのだ。犯人である二人組が、どうして裏取引を知ったのかは不明だが。
フォード卿は、二人組を天界の密偵かなにかではないか、と推測したようだが、レヒトはその可能性は低いと見ている。レイは真魔界で起きている事件について、なにも知らない様子であったし、この街で事件が起きたのは、レヒトとレイヴンが旅に出る前。つまり、ベイゼル=ワイザーが捕らえられるより前だったのである。ということを踏まえると、二人組が天界の関係者であるとは考えにくい。
「……レイヴン。お前は誘拐された時に、ブラム=フォードの名前を聞いたんじゃないか?」
「え? うーんと……あ、そうだ。あの時、確か犯人が『フォードの旦那が喜ぶ』とか言ってたんだ」
「やっぱりな。これで、レイヴンがブラム=フォードの名前を知っていたことも、どうしてフォード卿が二人組に協力しなければならなかったのかも、すべて説明がつく」
この紙をどうしてミッフィーが持っていたのか、そして、どうしてレヒトに託したのか。
ここから先は推測に過ぎないが、ミッフィーは魔界人なのではないだろうか。誘拐されたのか、それとも売られてしまったのか、どちらにしろ、彼女は望んでこの国に来たのではないのだろう。そんな彼女が、偶然、この紙を手に入れ、そして偶然、レヒトがブラム=フォードのもとを訪れた。それを、彼女は廊下で聞いていたのではないだろうか。レヒトが天界より来たことを。
こうもうまく偶然が重なるとは思えないが、今はその偶然に感謝するだけだ。
「……フォード卿が、そのようなことを……」
「セルトラート様……」
彼女とブラム=フォードは、遠縁にあたる。ぽつりと呟かれた言葉には、複雑な感情が交差していた。
「……わかりました。これが真実であるとすれば、由々しき問題です。私のほうでも、調べてみましょう」
「よろしくお願いします……」
その時、控え目に、部屋の扉が叩かれた。
「失礼致します、セルトラート様」
扉を開けたのはファントムだった。その表情は酷く渋い。
「まあ、ファントム。どうしたのですか?」
「セルトラート様……それが」
「退け、邪魔だ」
ファントムを押し退け、部屋に入ってきた一人の男。年の頃は、二十代半ば程だろうか。腰のあたりまであるだろう、少しくすんだ水色の髪に、紅玉色の鋭い瞳。セルトラートと同じように、猫を思わせる耳と尻尾が見て取れる。整った顔立ちだが、そこには皮肉な笑みが浮かんでおり、まるで氷を思わせるようなその雰囲気とが、すべてを台無しにしていた。そして、その身を覆う王者の法衣。
その威圧感に負けぬよう、わずかに足を開いて胸を張り、レヒトは目の前に現れた男に視線を向けた。
真魔界皇帝、ウィンドリヒ=シグルーンに。