第32話 閉じた門の向こうには-1-
精霊界でレイに出会った三日後のこと。二人は静寂が支配する精霊の森を並んで歩いていた。もうすぐ森を抜けるという場所まで戻ってきたところで、不意にレイヴンが声をあげる。
「ほんとによかったの?」
「なにがだ?」
レイヴンは横目使いにレヒトを見上げた。
「快、置いてきちゃって」
「彼女は関係ないだろう。危険な旅になりそうなのに……わざわざ巻き込むもんじゃない」
もっともらしく、レヒトは返す。レイヴンはなにか言いたそうな様子でレヒトを見上げていた。
「ふぅん?」
「……なんだよ」
「別れの挨拶もせずに出てきちゃったからさ」
ちょっと気になっただけ、と続け、レイヴンはぱたぱたと走って行った。
(……好きで黙って出てきたわけじゃないさ)
その後ろ姿をぼんやりと見つめ、レヒトは小さくため息を吐いた。
本当は、誘いたかったのだ。一緒に来ないか、と。
(……言えるわけ、ないだろう)
ゆっくりと首を横に振る。レイヴンの後ろ姿はもう見えなくなっており、代わりに森の出口が前方に姿を現した。この森を出れば、そこは魔界。彼女とは、もう会うこともないだろう。
これでよかったはずだ、と。レヒトは一度、振り返る。もちろん、そこに人の姿などはなかった。
快がまだ起きて来ない早朝に精霊界を発ったのも、彼女に会わずに出るためだった。どうせ別れなければならないのなら、会わないほうがいいから。
「……我ながら情けないことだ」
小さく呟き、苦笑して、レヒトは先を行くレイヴンの後を追った。レイヴンの姿を見付けたのは、それから程なくして。ちょうど森を抜けたところで、レイヴンは立ち止まっていた。
「レイヴン?」
言って、同じ方向を向き――レヒトも同じように固まった。
「……レイさん……馬、用意しとくって言ってたよね……」
「ああ……言ってたな」
確かに、馬はそこにいた。ただひとつ、違うことといえば。
「天馬だなんて、聞いてないし!」
感嘆の声をあげて、レイヴンは天馬に駆け寄る。天馬は純白の翼を広げて嘶いた。
「これは……レイ様にしてやられたな」
レヒトは苦笑し、あの人を驚かせるのが大好きな天界最高責任者に感謝した。天馬であれば、真魔界までの遠い道のりも、そう長くはかからないだろう。
「凄いよ、レヒト! わぁー、初めて見た!」
興味津々、といった様子で、楽しそうにはしゃぐレイヴン。レヒトも実際に目にするのは初めてだ。
天馬は、天界人と同じく、天魔大戦で生み出された種族である。現存する数は非常に少なく、天界で保護されていると聞いたことがある。
「……綺麗だな」
レヒトはそっと天馬に触れ、ひらりとその背に飛び乗った。このあたりはさすがに慣れたものだ。
「ほら、来いよ」
慣れない様子のレイヴンに手を貸して前に乗せ、レヒトは手綱を握る。
「はっ!」
天馬は蒼穹へと翔びたった。地上の景色が、どんどんと遠ざかっていく。
「わぁッ! 凄いね!」
「落ちるなよ!」
興奮状態のレイヴンに声をかける。天馬は風よりも早く蒼穹を駆け、目指すは真魔界国境、キピア砦。
「これで本当にさよならだな……快……」
精霊の森を振り返り、ぽつりと溢したレヒトの呟きは、流れる風に掻き消された。
「うわぁ……」
眼前にそびえる巨大な壁を眺め、レイヴンが感嘆の声をあげた。
――真魔界国境、キピア砦。
今から千年前に勃発した、魔精霊による奴隷解放戦争。人間からの独立を目指した魔精霊たちは、当時はまだ未開の地であった魔界北西部へと逃れ、徹底抗戦の構えを見せた。
数では圧倒的に劣る魔精霊だが、個々の戦闘力は人間を遥かに凌駕する。ラヴァン、リデルという二人の英雄を擁する魔精霊は連戦連勝を重ね、ついには混乱する魔界北西部の大部分を掌握。前線基地たるキピア砦を建設するに至った。
魔界の惨状を見かねた天界が仲介に入り、キピア砦より北西の土地を魔精霊に与え、独立国家となることを了承。真魔界側にも、これ以上の戦闘行為は侵略と見なすと伝え、ここに奴隷解放戦争は幕を閉じた。もともとが好戦的な種であり、勝利に酔っていた魔精霊の間からは、二人の英雄が条件を呑んだことに対する不満も出たらしいのだが。
そして現在、真魔界へ入国するためには、このキピア砦で入国審査を受けなければならない。とはいえ、本来が開放的な性格の多い魔精霊、入国審査はそれほど厳しくないといわれている。特に、痩せた土地の多い真魔界では農作物があまり育たないため、隣接する魔界ウェルネス領の肥沃な大地で取れた農作物は人気が高く、荷馬車を引いた商団などが行き交い、キピア砦は大変な賑わいを見せていたという。
ところが、本来は開放されているはずの砦門も今は固く閉ざされ、中の様子を窺い知ることはできなかった。
二人が今いるのは、砦から少し離れた茂みの中。レイより借り受けた天馬を放して、門が閉じた砦の様子を窺っていたというわけだ。
「さて。どうする、レイヴン。入らなきゃならないんだが、あの噂が本当だとすると少し厄介だぞ」
「……うーん」
二人はここに来るまでの間、休息を取るついでに付近の村や街へと降り、それとなく情報も集めていた。レイヴンは、魔界評議会議員から依頼された魔物出現の原因調査と、魔物による被害調査。レヒトはもちろん、国境を閉ざしたままだという真魔界について。
レイヴンのほうはあまり捗々しい成果は上がっていないらしく、愚痴だか独り言だかわからない専門知識をぶつぶつ呟いていたりもしたが、残念なことに、レヒトには詳しいことはまるでわからなかった。ひとつ確かなことといえば、魔物の出現数はここのところ急激に増加しており、街の自警団程度では手に負えない状況にまで悪化している、ということ。立ち寄った幾つかの街や村で、二人はその痕跡を目の当たりにすることにもなった。
いつだったかは魔物の襲撃に出くわし、自警団と共闘したこともある。小さな村が、魔物に襲われて壊滅していたこともある。被害は少しずつ、だが確実に大きくなっているようだ。
真魔界とて、無関係ではないだろう。一刻も早く皇帝ウィンドリヒに会い、ヘヴンに迫る危機について伝えねばならないのだが。
「子供の旅人を片っ端から集めて、どっかに連れていっちゃってる……なんて、なにしてるんだろ」
そう。レヒトが集めた真魔界に関わる情報で、二人の興味を引いたのがそれだった。
なんでも、国境が閉ざされる前――ちょうど二ヶ月ほど前からそれは始まり、真魔界への入国者の中に子供がいれば強制的に捕縛され、どこかに連れて行かれてしまったというのだ。子供たちの無事はわからず、噂を聞いた旅人は真魔界に寄り付かなくなった。すると、今度は付近を通りがかった旅人を捕縛し、同じように子供を連行し始めたのだという。大問題になりそうな話だが、子供を奪われた旅人たちはなにも言わず、こちらもひっそりと姿を消してしまったという話だった。一ヶ月前に砦の門が閉じられてからは、そういった話は聞かなくなったということで、それ以上の情報は手に入らなかった。
「……怪しいよね。どのくらい怪しいかっていうと、レヒトと快の関係くらい怪しいよね」
「馬鹿なこと言うんじゃない」
軽く頭を小突けば、悪戯っ子のように笑って舌を出す。
「けどさ、入るだけなら簡単だよ。少なくともレイヴンは入れるわけだから」
「……それは、そうだろうが……」
レイヴンの外見は十歳前後。これなら確かに入れるだろう。しかし、レヒトのほうはそうもいかない。どう見ても子供には見えないし、噂話では連れの大人は連行されなかったらしい。つまり、大人であるレヒトは最悪、砦の中にすら入れないということにもなりかねない。
「お前を一人で行かせるわけにはいないだろう」
「もしかして、心配してくれるの?」
「ああ。仲間だからな」
レヒトが言うと、レイヴンはきょとん、とした表情を見せた。
「なんだよ、気に入らないのか」
「え、あ……違うよ。……仲間、仲間かぁ……ちょっとくすぐったいね」
呟くレイヴンの頭に手を置けば、はにかんだような笑顔が返る。
「とりあえず、どうにかして砦の中に入る方法を……」
そこで、レヒトは言葉を切った。こちらを窺う、幾つもの気配。殺気、とは違う。
「……来た?」
小声で問うレイヴンに、レヒトは軽く。気配は少しずつ近付いている――が、まだ遠い。
「……いいか、レイヴン。ここからは俺に任せろ。絶対にお前を一人で行かせたりはしない」
「ん、わかった。頼りにしてるから」
言って笑うレイヴン。口の端をあげることで返せば、微かな葉擦れの音とともに、姿を現す鎧姿の男――数は五人。意外と少ないな、とレヒトは思った。それとなく気配を探るが、どうやらこれですべてらしい。
数の少なさをいぶかしむ前に、レヒトは思い出していた。魔精霊と人間――魔界人との、圧倒的な力の差を。彼らにしてみれば、魔界人の二人連れなどに、これ以上の人数を割く必要はないとの判断なのだろう。それほど強いとは思えない男と、どこぞの貴族のような格好の子供。実際には、レヒトの腕前は決して並みではないし、レイヴンは魔界人ではない。彼らが油断している今ならば、不意を突いて突破することも可能だろうが――。
(……大人しくしているべきだろうな、今は)
レヒトはそう決め、現れた男たちに向かって驚いたような表情を見せた。
「だ、誰ですか! 貴方たちは!」
背後のレイヴンを庇うように立つ。腰に佩いたセイクリッド・ティアの柄に手をかけてみたりもするが、少しの怯えも見せ、あくまで戦い慣れていない様子の若者を演じた。
すると、兵士たちは途端に笑顔を見せた。
「そう怯えずともいい。我々は怪しい者ではないぞ」
「い、いきなり現れておいて、怪しくないなんて言われても……信じられませんね」
「まあ、確かにそうなんだが……信じてくれないか。俺たちは真魔界の兵士だ」
言われずともわかる、とレヒトは思ったが、余計なことは言わずに言った青年を見返した。
剥き出しの腕部に見える青い鱗。兜のない頭部――耳は、鰭のようにも見える。最初に声をかけてきた隊長風の男には尻尾があり、耳はやはり、なにかの動物を思わせるものだった。
半獣人――魔精霊は別名、こう呼ばれることもある。レイヴンによると、これは奴隷解放戦争前に、人間によって使われていた呼び名であるらしく、酷く侮辱する意味合いが籠められているため、決して使ってはならないのだそうだ。
「そう怯えんでくれ。取って食ったりはせんし、魔法を使ったりもせん」
隊長風の男が笑って言った。魔精霊の使う魔法は、自然に干渉してその力を借りる精霊人と異なり、自らの肉体を変化させるものだという。人間に近い普段の姿から、原型たる動物へと変化する。その力は圧倒的で、原型となる動物特有の力も使うことができるのだと、ここに来るまでの間にレイヴンが説明してくれた。
「……そうですか」
レヒトはとりあえず剣の柄から手を離す。視線で名乗るよう促されたので、レヒトは少し躊躇ってから口を開いた。
「ウェルネス領主ゼクセ様にお仕えする、ランドルフといいます。……こちらは、ウェルネス領主に縁ある方。申し訳ありませんが、お名前は控えさせて頂きます……」
おずおず、とレヒトが名乗ると、兵士たちは驚いたような顔をした。
「ウェルネス領主の関係者が、共も連れず……失礼、護衛も連れずにこのような場所を歩かれているとは」
レヒトはどうやら召使いかなにかだと思われているらしい。誤解なのだが、あえて解く必要はあるまい。
「そ、それは……」
「見てみたいっていったから」
今までずっと黙っていたレイヴンが口を開いた。
「あの砦。近くで見てみたかったから、うるさい護衛を置いて見に来たの」
兵士たちは困ったように顔を見合わせた。
「……隊長。これってどうすればいいんでしょうか」
「うぅむ……我々が陛下のご命令に逆らうわけにはいかんが……」
「しかし、これではセルトラート様のご心配の通りに……」
しばらく小声で囁きあった後、隊長風の男がレヒトに向き直る。
「申し訳ないが、キピア砦までご同行願いたい。悪いようにはしない故、従ってはもらえぬか」
「……わ、わかりました」
「そうか。感謝する」
レヒトとレイヴンの二人は、魔精霊の兵士とともにキピア砦に入り込むことに成功した。レヒトが戦い慣れない気弱な青年を演じたおかげか、セイクリッド・ティアは取り上げられず、レイヴンのスタッフは武器だと認識されていないらしく、やはり取り上げられなかった。
正門ではなく、横に設えられた関係者用の小さな扉を潜って、奥の一室へと連行される。
「ファントム様。……ウェルネス領主の関係者を、ご案内しました」
「……ウェルネス領主?」
背を向けるような格好で佇んでいた男が、ゆっくりと振り返った。