第31話 突然の来訪者
紅蓮に案内されて訪れた彼の私室で待っていたのは、意外な人物だった。
「遅ぇぞ、紅蓮」
不機嫌さを隠そうともせず、欠伸混じりにそう声をあげたのは、本来ならばここにいるはずのない人物――天界最高責任者、レイ=クリスティーヌだったのである。
「すまん、遅れた」
紅蓮は笑顔で返した。その横で、レヒトは瞬きを繰り返すばかり。
「レイ様!? ど、どうしてここに……」
「逃げて来たんだってさ」
レヒトの問いに答えたのは、レイの向かいの席に座っていたレイヴンだった。手には小さな袋が握られている。中に入っているのは甘い飴玉。滅多に手に入らない貴重な品で、貴族の子女などに人気がある菓子である。
「レイさんからお土産にもらったの」
「お前にもやるよ。ほら」
言って、同じ袋を投げて寄越した。慌てて受け取る。
「あ、どうも……じゃなくて!」
レヒトはぶんぶんと首を振った。
「どうして、レイ様がここにいらっしゃるんです?」
レイと紅蓮はともに天魔大戦を戦い抜いた英雄にして、親友同士だ。親しい関係にある二人なのだから、まあ、おかしくはないのだが。
紅蓮が持ってきた果物に齧りつきつつ、レイが答える。
「お前らの様子見ってのが建前で、トゥールの奴があんまりうるせぇから仕事押し付けて逃げて来た」
(トゥールさん……)
レヒトはご愁傷様、と心の中で合掌した。となると、先程貰った飴は、俗に言う口止め料というものだろうか。
「またそんなことを言って……これを受け取りに来たのだろう?」
そう言って、紅蓮は一枚の紙を取り出した。
「ああ、ついでにな。仕事サボる口実になっていい」
紙を受け取り、机の上に広げる。高級そうな紙に、ビッシリと書き込まれた細かな文字。その一番下には、紅蓮の署名がある。
「なぁに、それ」
「同盟の締結を……まあ、証明する書類みたいなもんだ」
「ふぅん……」
レイヴンはあまり興味もなさそうに、飴玉をひとつ口に放り込んだ。
「四百年もの間、ずっと所望し続けていたものが、今、君の手にあるわけだ」
紅蓮は小さく笑った。彼もまた、それを望んでいたということがわかる、柔らかな微笑だった。
「これで、やっと一歩前に進んだ。残る二枚も、早いとこ手に入れてもらいたいもんだな」
「あと二枚だけ? なーんだ、あっさり終わっちゃいそうだね」
楽観的なレイヴンの言葉。レヒトもそう思ったのだが、レイは表情を曇らせ、首を横に振った。
「そううまくはいかねぇだろう。残る相手は、魔精霊と竜族。どっちも厳しいもんだ」
「竜族は難しくとも、魔精霊はそれほど厳しいとは思えないが。向こうにはセトがいるだろう」
紅蓮がそう返すと、レイも頷いた。
「ああ、俺もそう思ってた。あの皇帝は気に食わねぇが……セトがいればなんとかなるだろうってな。だから、俺も最初の訪問国は真魔界にするつもりだったんだ。そうしなかったのには、理由があんだよ」
「確か……なにか問題が起きて、国境を閉ざしているという話でしたね」
魔界に降りた段階では、レイからは真魔界へ向かうよう指示されていた。ところが例の誘拐事件の後、真魔界が国境を閉ざしているという情報がもたらされ、二人は快と出会ったこともあり、行き先を精霊界へと変更したのだ。
「ああ。……とはいっても、新しい情報が掴めたわけじゃねーんだ。手のもんを向かわせたが、どうにも厳しいようでな」
レイの言葉に、レヒトはシスカの街で出会った二人の密偵を思い出していた。天界最高責任者ともなれば、子飼いの密偵などそれこそ星の数ほどいるだろうから、おそらくあの二人とは別人だろうが。それでもひとつだけ断言できるのは、そのすべてが二人に劣らぬ実力者揃いだと言うことだ。
「君の密偵で情報が掴めないとはね」
レヒトも同じ疑問を抱いたのだが、レイは少し困ったように息を吐いた。
「ああもがっちがちに固められちまうと、流石にどうにもなんねぇようでな。魔精霊が相手となると、さすがにうちの連中でも人間相手と同じようにはいかねぇさ」
「しかし、君はセトと連絡を取り合っているのだろう? セトから何も聞いてはいないのかい?」
紅蓮の問いかけに、レイはしばし沈黙し、やがてぽつりと呟いた。
「……セトと、連絡が取れなくなった」
「なんだって?」
レヒトが聞き返すより先に、声をあげたのは紅蓮だった。
「セトと連絡が取れない? なにかあったのか?」
「わからねぇ。……無事でいりゃいいが……」
それきり、二人とも押し黙ってしまう。ずんとした重い空気の中でも、レイヴンはあくまでマイペースに、我関せずといった様子で飴玉を頬張っている。
「あ、あの……セト、とは?」
その場の空気に圧されたレヒトがおずおずと声をかけると、レイが組んだ手の上に顎を乗せたまま、視線だけをレヒトのほうへと移して答えた。
「――セルトラート=シグルーン。真魔界皇帝ウィンドリヒ=シグルーンの実姉で、天魔大戦で俺たちとともに戦った戦友でもある」
「かつての皇帝であり、自身の父親でもあったゼファルド=シグルーンに反旗を翻し、彼をその手で討ち取った――民からは英雄と名高い女性なんだ」
ゼファルド=シグルーンとは、天魔大戦を引き起こしたロライザ=クリスティーヌの甘言に釣られて彼に協力した、先代の真魔界皇帝の名である。
「ウィンドリヒの野郎は、セトを煙たがってるからな……」
「なんで? 実のお姉さんなんでしょ?」
珍しくレイヴンが口を挿んだ。
「実の姉だからこそ、だ。あいつは民から絶大な人気を誇るセトに、いつか皇位をとられるんじゃないかと不安で仕方ないのさ。本当はセトが皇位を継ぐはずだったのに、なんだかんだと言いがかりをつけて、無理に皇位についたんだからな、ウィンドリヒは」
レイは嫌悪感も露わに吐き捨てる。
「皇位継承者は直系の男子であるべき……なんて、馬鹿げた法をつくったのもそのためさ。セトを王宮から追い出して、離宮に監視付きで住まわせてる。外交的なものにも、一切参加させない」
「なるほど……腐ってますね」
「だろ?」
レヒトは大きく頷いた。
「しかし、そうだからといって諦めるわけにはいくまい?」
「当たり前だ。ここまで来て、すごすごと引き下がれるかよ」
レイはその長い脚を優雅に組み、果物に齧り付く。優雅ではあるが、上品ではない。
「本当は、俺が直接出向こうかとも思ったんだがな」
「それはだめだ、あまりにも危険が大きすぎる。今はとりあえずの休戦状態にあるとはいえ、お世辞にも仲がいいとは言えない状態で、君が直接出向いてみろ」
「そうですよ、レイ様! 最悪、捕まって取引なんかに利用されたりするかもしれませんよ?」
紅蓮とレヒトに詰め寄られ、レイはひらひらと手を振った。やかましい、と言わんばかりの顔で。
「行かねぇよ。トゥールにも同じこと言われた」
「それならいいが……ウィンドリヒは近視眼的で衝動的だ。君を行かせるわけにはいかない。となると……」
紅蓮の視線を受けて、レヒトも頷く。
「もちろん、真魔界へは俺たちが向かいます。けれど、無視されるという可能性も、捨てきれませんね」
「まぁな。精霊界と真魔界については、紅蓮とセトを頼っていきゃいいと思ってたんだが、そう甘くもなかったな」
レイはため息を吐いた。
「話くらいは聞いてもらえると思いたいですが……最悪、門前払いとか」
「可能性は否定できねぇ。俺が書状を認めてもいいんだが、相手はセトじゃなく、ウィンドリヒだ。無駄だろうな」
「ウィンドリヒは君を面白いほど嫌っているからね。君が認めた書状など持っていっては、逆効果にもなりかねないよ」
レイの言葉を紅蓮が補完する。レヒトの視線に気付いたのか、紅蓮はわずかに苦笑した。
「彼は……なんというか、駄々っ子のような人だからね。行動が読めない」
「……そうですか。もうこうなったら、まずは体当たりで行ってみましょう。意外といい方法が見付かるかもしれませんから」
レヒトが言うと、レイも複雑そうな表情をしながら頷いた。
「結局それしかねぇんだよな。悪ぃ、本当は俺が行きゃいいんだが……そうもいかねぇんだ」
「いえ。俺たちが行くのは、当然のことです。レイ様のお身体は、すでに、貴方だけのものではないのですから」
この世界、ヘヴンの象徴。そういっても、おかしくはないのだ。
レヒトの言葉に、レイは微かに苦笑して見せた。
「とにかくお前らに不快な思いをさせないよう、できる限り裏から手は回すつもりだ」
「私たちも、協力は惜しまない」
「ありがとうございます。それでは、明日の朝にはここを発ち、真魔界へ向かいたいと思います」
レヒトがそう答えると、レイと紅蓮は頷いた。
「ああ、そうしてくれ」
「ここから魔界に戻って、それから真魔界に行くんだよね? うわぁ……大変そう……」
頭の中に地図でも思い浮かべているのか、レイヴンがため息混じりに呟いた。
「仕方がないだろう。精霊界は東の外れ、真魔界は北西の端――つまり中央大陸を横断することになるんだからな。馬車は置いてきてしまっているから、馬屋のありそうな街に着くまでは当然、歩きだ」
「うげッ」
「はは、そんな顔すんな。ちゃんと移動手段は用意してあるさ」
思い切り嫌そうな顔をしたレイヴンを見て、レイは楽しげに笑った。
「精霊の森を抜けた先に、馬を用意しておいた。それを使って行けばいい。……ああ、馬は使い終わったら適当に放してくれりゃ、勝手に天界まで帰ってくるからな」
「わかりました」
「あー、よかったぁ。本気で歩いて行けとか言われるかと思ったよ」
ふあぅ、とレイヴンは小さな欠伸を溢す。
「なんか安心したら眠くなっちゃった。先に寝るねー」
「ああ、おやすみ。明日は早いぞ」
はーい、という間延びした返事が廊下から聞こえる。二人があてがわれた客間までは少し距離があるのだが、迷子にならないだろうか。レヒトはそんな心配をしていたが、実際、迷子になる危険性があるのは、むしろレヒトのほうである。
「そういや、快はどうしてる? 戻ってきたんだろ?」
レイがそう問えば、紅蓮は怪訝そうな顔をした。
「確かに戻ってはいるが……どうして知っているんだい」
「報告があったんだよ。天界の兵士が、こともあろうに魔界でナンパしてるってな。んで、その相手ってのが」
「快だった、と」
「そういうことだ」
レイはまたひとつ果物に齧りついた。好きなのかもしれない。
その様子を眺めていたレヒトに視線を移すと、レイはにやりと唇の端を持ち上げた。
「……それを救い出したのが、そこにいるレヒトだったってことも知ってるぞ」
「え!? い、いや……俺は、なにも……」
突然話を振られ、レヒトは大いに慌てた。あれは救い出した、などという格好の良いものではない。
「そうだったのかい。君が娘を」
なんでもっと早く言ってくれないんだ、と詰め寄る紅蓮に、レヒトは思わず半歩下がる。
「い、いえ、俺は本当になにもしてないんです! た、助けてください、レイ様!」
娘のこととなると目の色が変わる紅蓮に詰め寄られたレヒトが救いを求めるが、レイは素知らぬ顔で果物を齧っている。
これは後に知った話だが、あの乱闘騒ぎに街の警備隊が出動し、天界の兵士と特使までもが絡んだ事件として、レイは忙しい中、そのくだらない、実にくだらない報告書を、一枚余分に読まされるはめになったのだそうだ。
そんなやりとりがしばし続き、いい加減飽きたのか、レイが欠伸混じりに紅蓮に声をかけた。
「お前も相変わらずの親馬鹿っぷりだな。そんなに娘が好きか。あんまりしつこいとそのうち嫌われるぞ」
「娘だけじゃないさ。妻も愛している」
聞こえていたのかいないのか、最後の一文は綺麗に無視された。
ふと、気付いたように紅蓮が口を開く。
「セレネも、君のことをずっと心配していたよ。身体を壊すんじゃないか、一人で泣いているんじゃないか、とね」
レイは答えない。
「……精霊王様の、奥様ですよね?」
「ああ。セレネはレイの妹でもあるんだよ」
「……そうだったんですか」
ということは、レイと快は伯父と姪の関係にあるということだ。
(そう言われてみれば……少し、似てる感じがする)
レイの瞳は、どこか遠くへと向けられていた。そんな表情をすると、少し、快に似ているとレヒトは思った。
「すまない。私はセレネを……」
紅蓮の言葉を、レイは無言で制した。
「……言うな、紅蓮。セレネは幸せだったんだろ。なら……それでいいさ。それで、いいんだ」
レイは自らに言い聞かせるようにそう言った。
「少し……休ませてやれればと、思っている」
紅蓮の言葉が指すのは、快のことだろうか。やはり、レイはなにも答えなかった。
「君も少し、休んでいけ。随分と痩せたようにも見える」
「……ここんとこ、しばらく寝られてないもんでな。んじゃ、お言葉に甘えて、寝かせてもらうとしますかね」
そう言って椅子から立ち上がると、レイは部屋にある寝台に寝そべった。
「……ここは私の部屋なんだがね」
「おー、知ってる。使うわ」
その言葉が終わると同時に、安らかな寝息が響く。レイの様子からは想像できないが、休む暇がないほどの激務なのだと、レヒトは以前ラグネスから聞いたことがある。
「やれやれ……相変わらずというか、なんというか」
とんでもない義兄を持ったものだ、と紅蓮は呟く。表情は、穏やかだった。
「……セレネも、きっと喜んでいるだろうな」
紅蓮は、そう言って静かに目を閉じる。
レヒトは満天の夜空を見上げた。星は、ただ静かに瞬いていた。