第30話 還らぬ人
その夜。精霊界ではレヒト、レイヴンを歓迎する宴が、盛大に開かれた。
あれだけの戦いだったにも関わらず、一人の死傷者も出さずに済んだことで、精霊人は二人を認め、心を開いてくれたようだった。
「……ふぅ」
宴の会場となっている広場の片隅で、レヒトは一人、風に当たっていた。
ひっきりなしに勧められる酒をなんとか断り、ようやく落ち着ける場所を見付けたところだ。
「熱いな……」
頬に手をやって呟く。
二、三杯飲んだだけだが、身体中が熱かった。精霊界原産だという祝い酒は無駄に強い。酒に強くないレヒトは、あのままでは確実に酔い潰れていただろう。
流れる風が、火照った身体を優しく撫でる。レヒトは心地よい睡魔を感じ始めていた。
少し離れた場所では、未だ賑やかな宴が続いている。ちょうど、女性たちが伝統の舞を披露しているようだ。
その様子をぼんやりと眺めていたレヒトは、ふと、森の奥へと消えてゆく人影に気付いた。眠気と酔いが一気に醒める。
(あれは……)
闇に映える真紅のドレスは、間違いなく、彼女のもので。
(どこに行くんだ、こんな時間に……)
魔物が現れた以上、精霊界も安全とは言えなくなっている。
(……一人には、しないほうがいいだろうな)
レヒトは気付かれないよう、森の奥へと進む、快の後を追った。
快が足を止めたのは、小高い丘の上だった。魔界との境界である例の湖と、正反対の位置にあたるその丘の上には、たくさんの白い墓標が並んでいた。
手に花束を携えて、快はひとつの墓標の前に佇んでいた。
「ただいま。……しばらく帰ってこれなくて、ごめんね」
墓標の前に膝を付き、手にした花束を手向ける。レヒトの位置からでは、墓標に刻まれた名前を見ることは叶わなかったが、その墓標には、幾つもの花束が手向けてあった。
「今日はね、話せることいっぱいあるよ。……友達ができたんだ」
そう言って微笑むと、快は墓標の前に座り込み、今は亡き誰かに語りかける。
「人間なんだけど、ね。すごく、不思議な人たちだよ。……やっぱり、僕は人間が好きだな。あ、それとね。人間と同盟を結ぶことになったの。これで、仲良くなれるよね。……きっと、みんなも人間が好きになるよ」
墓標に向かい、嬉しそうに語る快を、レヒトは少し離れた場所から見つめていた。
「気になるかね」
不意に肩へと手を置かれ、レヒトは飛び上がらんばかりに驚いた。ぎこちない動作で振り返ると、そこには苦笑を零す一人の男性。
「すまないね。驚かせるつもりは、なかったんだが……」
レヒトを驚かせた張本人、紅蓮が笑いながらそう言った。
「何度か声をかけたのだが……気付かなかったようなのでな」
「も、申し訳ありません。全然、気付きませんでした……」
未だ驚きに高鳴る胸を押さえ、レヒトは頭を下げる。
いかにぼんやりしていたとはいえ、人並み外れた神経を誇るレヒトの背後を、紅蓮はあっさりととってみせたのだ。やはり、ただ者ではない。
紅蓮は小さく笑うと、レヒトから快に視線を移した。その瞳に、どこか悲しげな光が宿る。
「……快が誰に語りかけているか、気になるかい?」
「はい」
レヒトは素直に頷いた。
「あれは、あの子の母親の……私の妻の墓だ。あの子は旅から帰ると、ああして必ず母親に報告するんだよ」
隣に立つ紅蓮の横顔を、レヒトはそっと盗み見た。その瞳は、月明かりに照らされた快の後ろ姿を見ていたが――ひょっとしたら、彼は快に、今は亡き愛する人を重ね見ているのかもしれない。
「セレネは、あまり丈夫とはいえない身体でね。快がまだ幼い頃に……亡くなった」
少し寂しそうにそう語り、紅蓮は静かに目を閉じた。
「……奥方様は、精霊人ではなかったのですか?」
名前の持つ響きが、精霊人とは違う。気になったレヒトが問いかけると、紅蓮は小さく頷いた。
「セレネは天界人だ」
「あ……」
人間と精霊人が、相容れない存在であれば……僕は、生まれなかった。同盟が結ばれるよう……僕が、懸け橋になってあげるよ――レヒトは快の言葉を思い出していた。
人間と精霊人の間に生まれた娘。双方を結ぶ、懸け橋。
しかし、天界人といえば、紅蓮や、他の多くの精霊人にとっては、敵にも等しい存在だろうに。紅蓮の妻と快は、この精霊界で、どのような思いで過ごしていたのだろう。
「……天魔大戦は、本当に酷い戦いだった。多くの精霊人が、未だ癒えぬ傷に苦しんでいる」
レヒトの心の中を読んだかのように、紅蓮は静かに言葉を紡ぐ。
「セレネや快の存在は……時として、その傷を抉ることになっていたのかもしれん」
「……」
レヒトはなにも答えられなかった。紅蓮は再び、墓標の前に座る快へと視線を移す。
「二人に向けられる、その眼差しは……無意識のうちに、冷たいものとなっていたのかもしれんな……」
なんとなくだが、レヒトはそれを察していた。快は故郷に帰ってきたというのに落ち着かない様子だったし、宴の間も、レヒトは快の姿を見付けることができなかった。
「……私は、愛する妻も、大切な娘も……救ってやることができなかった……」
紅蓮は自嘲ぎみにそう呟く。
「快は、自らに向けられるそれに……気付いていたのだろうな……。幼い頃から、あの子は疾風について旅ばかりしていた。ここに、帰りたくなかったからだろう……」
今もそうだ、と彼は小さな声で言った。
「あの……ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
「なんだね」
「……疾風、という人のことを」
控え目に尋ねれば、紅蓮は小さく笑みを溢す。
「快から、なにか聞いたかね」
「いえ……彼女が、探している人だ、ということしか」
「……そうか。探している、か……。もう、この世に存在しない者を……」
紅蓮が発した言葉は、レヒトに少なからぬ衝撃を与えた。
「……それは、どういう意味ですか……」
「言葉通りだ。疾風は十年前、人間たちに殺されている」
あの精霊狩りの犠牲者だ、と紅蓮は続けた。
「快も、その場に居合せた。あの子は疾風が死ぬ瞬間を見ていたはずなのだ。人間たちの手によって殺される、その瞬間を」
「そんな……」
「……遺体は、ついに見付からなかった。あの子は疾風の死を、信じようとはしなかった。遺体がないなら、生きているに違いない、と言ってな……」
それで、今も探し続けていると言うのか。還らぬ人を、今も。
「……それなら、どうして……」
かすれた声で、レヒトは呟く。
「どうして快は……人間を憎まないんでしょう。どうして……あんなに……」
人間を、愛することができるのか。憎まずにいられるのか。
「……捕われた場所から自力で逃げ出した快を、助けてくれた人々がいたそうだ。彼らは快に温かいスープとパンを与え、傷の手当てをし……怪我が治るまで、村に置いてくれたという。快が精霊人だと知っても……なにも言わず、なにも聞かずに……」
紅蓮の瞳は、穏やかな光を湛えていた。
「……だから、人間を憎むことはできない。……あの子はそう言っていた」
快は、憎しみだけに囚われなかったということか。愛する人を、奪われても。それでも、快は――。
もしも、レヒトが同じ立場であれば、快と同じように、人間を憎まずにいられる自信はない。憎悪に囚われ、絶望と悲しみを抱いて生きてゆくのだろう。たとえ、母親が人間であったとしても、だ。その母親をも、世界をも、憎悪したかもしれない。
「……快は、強いんですね……」
レヒトがそう呟くと、紅蓮は、疾風の影響かもしれん、と呟いた。そしてふっと、遠い目をする。
「疾風、か。……あれも変わった男だったな。掴みどころのない性格で……周囲からは浮いた存在だったが、私の大切な友でもあった」
そう言って、微笑む。もう手の届かない、遠い過去の時間を懐かしむように。
「精霊王様は……人間を、恨んではいないのですか?」
レヒトが問いかければ、紅蓮はその目をレヒトのほうへ向けた。様々な、複雑な感情が絡み合った、しかし澄んだ眼差しだった。
「そうだな。……恨んでいないと言えば、嘘になる。私も、家族や友を奪われているからな。だが、私もたくさんの人間を、この手にかけた。私にとっては敵であった彼らにも、家族や友がいただろう。私はそんな彼らから、大切な者を奪ったのだ」
憎しみは、憎しみしか生まないよ――紅蓮の澄んだ瞳の向こうに、快の姿が見えた気がした。
「……それに、私は知っている。すべての人間が、悪ではないのだと。私は人間を――セレネを愛し、娘を授かり、また多くのよき友を、得たのだから……」
そう言って、彼は再び微笑んで見せた。
「私は快のように、全てを受け入れることはできないだろうが……精一杯、努力してゆくつもりだ。人間と精霊人が、再び手を取り合って生きてゆける……そんな世界を作るために」
「……人間と精霊人が、わかりあえる日は、きっと来ます。……遠い過去に、確かにあった絆は失われてしまっていますが……けれど、一度はわかりあえたのだから……もう一度、わかりあえる日は、必ず来るはずです」
紅蓮と彼の妻が、愛しあえたように。そして、レヒトと快が、わかりあえたように。
「いつか、きっと……」
レヒトは微笑む。頭上に輝く、美しい月を見上げれば、そうだな、と呟く紅蓮の声が聞こえた。
「さて……そろそろ戻ろうか。実は珍しい客人が来ていてな。奴が君を連れて来いと言うので、私が迎えに来たというわけだ」
「俺を?」
レヒトは首を傾げた。
「うむ。レイヴン殿には、先に行ってもらっている。待たせると煩い男だからな。行くとしようか」
「あ、はい。わかりました」
と言っても、紅蓮が来てからけっこう話し込んだので、その客人とやらは、もうだいぶ待たされているのだろうが。レヒトは気にしないことにした。
レヒトは快のほうへ視線をやった。それに気付いたのか、紅蓮が小さく笑う。
「快のことは心配いらんよ。あの子は強い。それに、精霊界にいる限りは、心配ない」
そう言って、紅蓮はもと来た道を歩いて行った。
レヒトは一度だけ振り返り、紅蓮の後を追う。
月に照らされた快の姿が、レヒトには、酷く小さく感じられた。