第29話 もう一度、信じて-2-
(しまった……!)
剣は投げ捨ててしまっている。レヒトは少年をその背に庇うように立ち上がると、二人を狙う魔物と対峙する。
「に、兄ちゃん……」
少年が、レヒトの足に縋り付いてくる。その声は、恐怖に震えていた。
二人の周囲を、魔物の巨体がとぐろを巻くように取り囲んでいた。完全に退路を断たれ、武器はない。
(くそっ……なんとかこの子だけでも……!)
レヒトは唇を噛み締め、じりじりと後退する。しかし、魔物が作り上げた巨体の檻に阻まれ、逃げることはかなわない。
上体をもたげた魔物は、その口から白い液体を二人に向かって吐き出した。
「くっ……!」
レヒトはとっさに少年を抱き締め、魔物にその背を向けて屈み込む。
「兄ちゃんっ!」
少年の絶叫が響く。その時だった。
「光よ、護れ!」
二人の前に、輝かしい光の盾が現れた。白い液体は光の盾に弾かれ、横手の大地に降り注ぐ。液体を浴びた大地が、嫌な音と煙とを吹き上げた。
(溶解液……!)
レヒトは背筋が凍るのを感じた。あんなものの直撃を受ければ、それこそ骨も残らないだろう。
魔物が声に反応して、そちらへ視線を移した瞬間。
「プチポァルス!」
迸る魔法の雷が、無防備だった魔物の腹部を襲った。吹き荒れる雷撃に身を焦がされ、魔物が苦鳴の絶叫を上げる。その隙を見て、レヒトはその巨体を飛び越え、駆け付けた快とレイヴンの二人と合流した。
「……助かったよ。快、レイヴン」
「まったく、無茶するんだから……。こっちの心臓に悪いよ」
快は重そうに抱えた大剣をレヒトに差し出した。先程、レヒトが投げ捨てたセイクリッド・ティアだ。
「すまない」
レヒトは抱き抱えていた少年を降ろして剣を受け取る。剣を渡した快が、少年の目線にあわせて屈む。
「翡翠、大丈夫だった?」
「大丈夫。兄ちゃんが助けてくれたんだ」
翡翠と呼ばれた少年は、嬉しそうにそう言った。
「さ、君は離れているんだ。ここは、危険だからね」
レヒトがそう言うと、翡翠は素直に頷き、走って行った。これで、全員が避難しただろう。怪我人がないことを祈りつつ、レヒトは魔物に視線を向けた。
「……まだ、生きてるようだな」
痛みにのたうっていた魔物が、ゆっくりとその身を起こす。魔法でレイヴンに射たれた場所は焼け焦げたような跡が残っているが、致命傷とはなっていない。
怒り狂った魔物が咆哮を上げ、三人に向かいその巨大な尾脚を振り下ろす。とっさに退る三人。尾脚が大地を叩き、濛々たる土煙を巻き上げた。
巻き込まれるのを嫌い、後退した三人を狙って、魔物は再び尾脚を振り下ろした。
「二人とも、離れて!」
快の言葉に、とっさに散るレヒトとレイヴン。快は後退しつつ、太腿の革鎧からセイブ・ザ・クイーンを取り出す。それを瞬時に銃身の太い、一撃粉砕が可能な形態へと変化させ、魔物の頭に狙いを定めて撃ち放った。
だが、放たれた光が魔物の頭を撃ち抜く寸前、魔物はその巨体に似合わぬ俊敏さで光をかわすと、逆に快に向かって突っ込んでゆく。
「快!」
「大丈夫!」
快は大地を蹴ってかわし、空中で銃を二挺形態に戻すと、即座に振り返って銃を乱射するが、魔物は突進をかけたそのままの勢いで、地中へとその姿を消した。
後には、魔物の消えた大穴が残るばかり。
「逃げた……?」
ぽつりと呟き、銃を下ろす快。
まだ、魔物が大地の奥にいることを証明するように、わずかではあるが地揺れは続いている。本当にわずかに、神経を尖らせていなければわからないほど。つまり、魔物はそれだけ深い場所にいる、ということなのだが……。
そして、やがて完全に揺れも収まり、緊張していた周囲の空気もゆるゆると解けていった。
「なーんだ、案外あっさり片付いたね」
「そう、だね。なんとかなった、かな?」
気楽な口調で言ったレイヴンに、わずか笑みを浮かべて答える快。しかし、レヒトは違った。
「違う……」
レヒトは悟っていた。あの魔物は逃げたのではない、ということを。
「……違うって?」
「あの魔物は……逃げたわけじゃない。まだ……」
言葉が終わるより早く、背筋に悪寒を感じ、レヒトは二人を突き飛ばしていた。それと同時に、身体を襲う熱さ。足に痛みを感じた時には、レヒトは大地に叩き付けられていた。
「レヒト!」
地中から飛び出した魔物の一撃を受けたのだと気付いたのは、その後のこと。起き上ろうとしたレヒトは、右足を襲う妙な熱と痛みとを覚え、視線を移す。
右足の鎧の繋ぎ目あたりに、ほんの微か、擦れたような傷と、どろりとした青黒い液体。レヒトは唇を歪めた。
「シャアァァゥウ!」
倒れたレヒトを食らおうと、魔物の鋭い顎が迫る。
レヒトは身を起こし、飛び込むような形で魔物の攻撃をかわすと、傍に転がっていたセイクリッド・ティアに飛び付き、振り向きざまに魔物の腹を斬り付ける。
辛うじて傷は残るものの、致命傷にはほど遠い。
この様子では、おそらく並の武器では傷も付くまい。そしておそらく、この防御力こそがこの魔物の最大の武器なのだ。これでは、魔法の扱えない人間たちでは打つ手がない。一方的に蹂躙されて終わりだろう。
さすがに頭を潰せば倒せるだろうが、この尋常でないスピードでは、リーチの短いレヒトの剣で、頭を狙うのは難しい。これまでなんとか攻撃をかわしてはいるものの、倒せなければ意味はない。そして、レヒトが被った魔物の体液――毒は、徐々に彼の身体を、そして意識を蝕んでいた。
レヒトは視界が歪むのを感じ、頭を振って遠退きかかった意識を呼び起こした。ここで倒れるわけにはいかない。
即座に死に繋がるような毒ではないようだが、身体の動きは確実に鈍くなっている。あの攻撃を、一度でもかわし損なえばどうなるか。
再び、魔物がレヒトに視線を向けた。剣を構えようとした瞬間、レヒトは激しい眩暈を感じ、その場に蹲る。
その機を逃すまいと、魔物の鋭い顎が迫り――。
「プチヴォルケーノゥ!」
「焔よ、踊れ!」
同時に放たれた二人の魔法。レイヴンの掲げたスタッフの先から噴き出した焔と、快の右手に宿った焔。二人の生み出した焔が混じりあい、螺旋を描き、まるで意思を持つかのように魔物に向かう。
魔物の鋭い顎が、レヒトに届くまさに寸前、螺旋を描く魔法の焔が、その頭に命中した。
「レヒト! 大丈夫!?」
駆け寄ってくる二人に、レヒトは大丈夫だと頷いて見せた。
「今、治癒を……」
「待て、快。まだだ……」
言いかけた快を制し、レヒトは魔物に視線を戻す。頭を焼かれ、それでも、魔物は生きていた。ゆっくりとその巨体を起こし、威嚇するように咆哮をあげる。
「あれで、まだ死なないなんて……しぶといにも程があるよ」
魔物を見上げ、渋面で呟く快。迂闊には仕掛けられないと悟ったのか、魔物は上体をもたげ、様子を窺っているようだ。
「どーするの?」
「……魔法は効いている。俺が囮になるから、二人の魔法を何度か叩き込めば……くっ」
「レヒト!」
再び視界が歪み、心配そうな二人の声が、耳の奥で反響する。情けないが、どうやらこれ以上は無理なようだ。
「くそっ……こんな、ところで……!」
レヒトが、そう呟いた時。蒼穹が輝き、淡い光が降り注いだ。すべてを浄化するような、美しく、優しい光。
「あ、あれは……!」
驚きの声をあげたのは、快。
光は魔物を包み込み――魔物は一瞬にして灰と化した。断末魔の悲鳴も残さずに。いや、苦しむ素振りすら見せずに。
それと同時に、レヒトの身体にも体力が戻ってきた。足の傷は癒え、毒も浄化されたようで熱もない。
(……どういうことだ、これは……)
己の身に起きたことが理解できずに、レヒトが首を傾げると。
「皆、無事か?」
凛とした声が響いた。視線を向けると、王宮へと続く扉の前に紅蓮が立っていた。
「パパ!」
(今のは……そうか、精霊王様の魔法か)
レヒトは納得した。三人がかりでてこずった魔物を、一瞬にして葬り去り、同時にレヒトの傷まで治癒してみせた。
(やっぱり、凄いな……)
そんなことを考えていると、紅蓮がレヒトに目を向けた。
「レヒト、と言ったね。君のお陰で、多くの命が救われた。感謝する」
そう言って、紅蓮はレヒトに向かい頭を下げた。
「そ、そんな……俺はなにも……」
ひたすら恐縮するレヒトに、紅蓮は笑いかける。快が見せるのとよく似た、穏やかな笑顔。
「……人間と精霊人の絆、か。……君の申し出、受けようと思う」
「精霊王様……! ありがとうございます!」
紅蓮は首を横に振った。
「礼を言うのは、私たちのほうだ。私は君の申し出を断ったはずなのに」
周囲を――魔物が消えたことを知り、集まってきた民を見渡して、紅蓮は言葉を続ける。
「君は私の民のために、必死で戦ってくれた。私たち、精霊人のために」
「パパ……」
紅蓮は快に視線を向け、苦笑した。
「お前のほうが、正しい道を選び取れていたようだ。人間とともに歩むという、道を……」
「……教えてくれた人がいたからね」
そう言って微笑む。紅蓮は周囲に集まった精霊人に向けて、威厳ある口調で告げた。
「聞け、皆の者。あの大異変から時は流れ、今、こうして魔物の脅威が再臨してしまった。我々は、再び人間と同盟を結び、この世界に訪れるであろう危機に、ともに立ち向かってゆくこととなる」
集まった精霊人は皆、静かにその言葉を聞いていたが。
「あ、あの……」
一人の女性が、おずおずと進み出た。
「……人間を信じても……大丈夫なのですか? また、あのようなことが起きるのでは……」
周囲にざわめきが、波のように広がった。それも仕方ないことだと、レヒトは思った。
過去、人間が精霊人にした仕打ちは、当事者でないレヒトには、想像もできないほどに酷いものだったのだ。許せと言われて、簡単に許せるようなことではないのだろう。
「そんなことない!」
そんな中、ざわめきを裂くように、大きな声が響いた。
「翡翠……」
レヒトが助けたあの少年――翡翠が、皆の真ん中に立っていた。
「あの兄ちゃんは、おれを守ってくれたんだ! おれは、兄ちゃんを信じる!」
幼い瞳に宿る、強い光。
「……わ、私も……信じます……」
紅蓮の背後に控えていた瑠璃が、小さな声で言った。
「レヒトさんも、レイヴンさんも……私たちのために、戦ってくださいました。怖がってばかりじゃ……だめだと思うんです……。だから、私はお二人を、人間を、信じます」
レヒトは瑠璃と目があった。はにかんだように、瑠璃は笑う。レヒトも小さく、微笑み返した。
「……過去の悲劇を悲しみ、閉じ籠っていても、なにも変わりはしないよ」
ぽつりと、快が呟いた言葉。見上げた蒼穹と同じ色をした彼女の瞳は、静かな光を湛えていた。
「悲しみや憎しみは容易くは消えないけれど……。それにいつまでも縛られていては……未来のために、今なにをするべきなのか――見失ってしまうから、ね」
詠うようにそう言って、快はそっと微笑む。
しかし、レヒトは彼女の微笑みの中に潜む、異質な感情を捉えていた。
「ね、レヒト?」
快はそう言って、レヒトに瞳を向ける。その瞳から、あの異質な感情は消え去っていた。
「その通りだ……」
どこかで、声があがった。
「……私も、信じてみる」
また、声があがる。
「お、俺も!」
「私も……!」
次々にあがる、声。レヒトの胸に、熱いものが込みあげてきた。
「わぁ……! よかったね、レヒト!」
「……ああ……」
レヒトは込みあげる涙を、誰にも気付かれないよう、そっと拭った。