第27話 隠密の帰郷
シスカの街を出発し、指折り数えて両手に足りなくなったある日のこと。快の案内で精霊界へと向かっていたレヒト一行は、ようやく精霊界への入り口へと辿り着いた。
「うーん、思ったより時間かかっちゃったなぁ」
「……間違いなく快のせいだぞ、それは……」
レヒトは小声で呟く。快の寝起きの悪さは凄まじく、レヒトは何度命を危険に晒したか知れない。なにしろ快を起こす度に、なにかしらの魔法が飛んでくるのだ。かといって、起こさなければいつまでも寝続ける快を放っておくわけにもいかず、それは必然的にレヒトの役目になっていた。
しかも、快は自分の寝起きの悪さをまったく自覚していないし、魔法をぶっ放すことも覚えていないのである。
「なにか言った?」
「いえ、なにも」
ちょっぴり、レヒトは悲しくなった。
「精霊界まではあとちょっとだよ。これなら、今日はあったかい寝台で寝られるね」
幸せそうに呟く快に、地図を眺めていたレヒトはそっと苦笑した。
基本的に、馬車で移動している間は、街道沿いの街や村の宿などを利用していた。まあ当然、傍に街や村がない場合は馬車の中で横になるわけだが、これは正直、頂けない。ラグネスの馬車だけあって広さも十分だが、さすがに三人ともなると、身体を伸ばす余裕はない。それに加え、ここ三日ほどは森の中を移動していたため、ずっと野宿だったのである。寝ることがなにより好きだという姫君は、暖かな寝台で眠れることが嬉しくてたまらないようだ。
尤も、それは疲れの溜まっているレヒトとレイヴンも同様であったが。
ちなみに、ラグネスの馬車は三日ほど前――最後に宿を借りたクリスティーヌ領の小さな村に残してある。しばらくは森の中の移動になるということで、村人に金貨を握らせて預かってもらったのだ。ロイゼンハウエルを発つ際、予め城の使用人に仔細を話しておいたため、あとは彼らが手を回して馬車を回収してくれるだろう。次の目的地がどちらになるかはわからないが、その時はその時、いざという時は身軽なほうがどうとでもなるというのがレヒトの経験則でもあった。
「まあ、ここのところはずっと野宿だったしな。俺もだいぶ身体に疲れが来てるよ。……今日中には着けるのか?」
見ていた地図を懐に戻しながらレヒトが問うと、快はこくりと頷いた。
一行が今いる場所は、魔界クリスティーヌ領より東に位置する精霊の森。位置的には、森のちょうど中心部にあたるだろう。
精霊界は、この森の中に存在するといわれる小さな国なのだが、その存在は謎に包まれている。わかっていることといえば、精霊王と呼ばれる指導者が存在し、現在の精霊王は、天界最高責任者であるレイ=クリスティーヌの親友・戦友にして、あの天魔大戦の英雄の一人に数えられる人物である、ということのみ。
というのも、この十年間、精霊界に辿り着いた人間は、一人として存在しないからである。
十年前、精霊狩りが起きる前までは、この森の奥には確かに精霊界が存在し、少なからず他種族――人間とも交流があったのだが、精霊狩りの後、精霊界は忽然とその姿を消してしまったのだ。王宮も、家々も、人々も、その全てが。
しかし、精霊人が皆いなくなってしまったのかといえばそうではない。少なくはなったが、精霊人と出会った人間もおり、天界が主催する公式の場などには、その姿を見せる。彼らは今も、この森のどこかにあるはずの精霊界に住んでいるのである。
何人もの人間が、好奇心に駆られてこの森に足を踏み入れたが、彼らは戻ってくるなり、全員がこう言ったのだ。森の中に大きな湖があるだけで、他にはなにもなかった、と。
この神秘的で不可思議な現象は瞬く間に噂となり、『精霊人は心の清らかな者の前にしか姿を見せない』だの『精霊界に辿り着いた者は幸せになれる』だのと、十年前の恐怖はどこへやら、今ではすっかり好奇の目で見られているのである。
快もそうだが、精霊人は総じて美しい容姿の者が多く、それが余計にこの噂に拍車をかけているのだろう。
とはいえ、たかだか数十年しか生きられない人間と違い、精霊人は永き時を生きる種族だ。四百年前の天魔大戦や、十年前の精霊狩りなどが、人間にとっては昔の出来事でも、精霊人にしてみれば、ほんの少し前の事件に過ぎないのだろう。
ロイゼンハウエルで快に言われた言葉を、レヒトは思い出していた。
「レヒト? どーしたの、ぼーっとして」
不意にかけられたレイヴンの声で、レヒトは覚醒する。
「あ、いや。少し考え事を……」
レヒトの言葉が終わるより早く、空気がピンと張り詰める。それと同時に、木々の影から顔を覗かせる一体のブロウ・デーモン。
「プチポァルス!」
響いたレイヴンの声に反応し、振り上げたスタッフから放たれた雷撃が、雄叫びを上げるブロウ・デーモンに直撃し、その体内で雷が弾ける。哀れ魔物は大きく身体を震わせると、そのまま倒れて動かなくなった。
「これだけ?」
「……そのようだな」
レヒトはそう答え、柄にかけていた手を離す。他に、周囲に気配は感じない。
「……また、魔物。まだ数は少ないみたいだけど……精霊の森に、魔物が……」
快は内心の動揺を隠しきれない様子でそう呟いた。
やはり、魔物の被害は人間だけにとどまるものではなかったということだ。一刻も早く精霊王に事の次第を告げ、同盟を結ぶ必要がある。
「それにしても凄い威力。……レイヴンは相当、魔力が高いんだね」
「えへへ」
快に褒められ、レイヴンは嬉しそうに笑った。
「魔力?」
魔法の知識に疎いレヒトが首を傾げると、快はくすりと笑った。
「そうだよ。魔力について説明するには、先に魔法のことも説明しなきゃいけないんだけど……魔法っていうのは、精霊の力を借りて、世界の理に変化を与えるもの。ここまではわかる?」
レヒトは頷いた。
「じゃあ続けるよ。精霊っていうのは、ヘヴンに溢れるエナジーのことで、これがないと僕たちは生きていけないの。大地も、草木も、そして僕たちも。みんな、精霊の力を受けて生きてるんだよ。だから、精霊は神の力だって言われてるんだ」
神、とは遥か昔にヘヴンを創造したとされる三闘神のことだ。このヘヴンは三闘神の精神で形作られ、そこに溢れるエナジーである精霊は、三闘神の精神そのもの、と言われている。
「その精霊なんだけど、見える――要するに、感知できる人とできない人がいるのよ。それを感知できる人が、魔法を使える。魔法を使うには、術者を媒介――つまり、精霊を一旦体内に取り込む必要があるの。一度に取り込める量――魔法容量には個人差があって……容量の大きさを表す言葉が魔力ってわけ。わかった?」
「……なんとなく。ところで、どうして精霊を感知できたりできなかったりするんだ? 確か、種族によって使える者と使えない者とにわけられるんだよな?」
レヒトが問うと、快は少し困ったような顔をした。
「うーん、それは僕にも……」
「レイヴンにもわかんない。そういうのって興味あるけど、竜族とか魔精霊とか、もちろん精霊人の協力も必要だからね。種族による差異がどうして生まれたのか、元となる生物と進化の過程なんかも……」
「あー、とりあえずこの話は置いておくとして!」
レヒトは慌てて、レイヴンの講釈とも独り言とも言えぬ呟きを制止する。熱中すると周囲が目に入らなくなるらしいレイヴンの場合、放っておくと大変なことになる。快と出会った夜も、二人が倒した新種の魔物にいたく感激したらしく、似た系統のゴーゴンに比較して弱くはなったが、実際には進化しているだのなんだのと、レヒトにはまるで理解不能な解説が城に帰るまでひたすら続いたのだ。
「……とりあえず、行こうか」
「そうね。……と、言いたいところなんだけど。実はもう着いてるんだ」
快は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。どこかで見たような笑い方である。
「ここが目的地だよ」
「……そう、言われてもな」
レヒトとレイヴンは顔を見合わせた。
目の前には大きな湖。太陽の光を受けて、水面はきらきらと輝いている。
「ここが精霊界への入り口なの」
「……この湖が、か?」
訝しげに問い、レヒトは水面に視線を落とす。映る自身の姿に、一瞬だけ、別の男の姿が重なった。夢の中で、何度か目にした白髪の男――。
「!」
「……どうしたの?」
首を傾げるレイヴン。その視線は、レヒトと同じように水面へ向けられていたが、レイヴンは気付いていないようだ。いや、それとも見えなかったのか。
「快……なにか変だ。この湖は……」
レヒトが言うと、快は少しだけ驚いたようだった。
「まあ、変かもしれないけど。精霊を感じたのかもね」
「精霊を……?」
前述した通り、精霊とはヘヴンに満ちるエナジーで、すべての生物が生きてゆくために必要な力である。ヘヴンの創造主たる三闘神の精神そのものだと考えられており、この精霊を感知して行使し、世の理になんらかの変化を与えるものを魔法と呼ぶのだそうだ。
しかし、精霊を感知し、魔法を扱うことのできる種族は限られている。精霊人、魔精霊、そして竜族――現在確認されている限りでは、この三種族のみである。ここに当てはまらないレヒトは精霊を感知することができず、そのため彼は魔法を使えない。
ちなみに、天界人とは、人工的に魔法を扱えるようにされた魔界人のことを指す。両者はもともと同じ種族であり、呼び名をわけたのも天魔大戦の後のこと。それまで、天界人と魔界人は、人間という名で呼ばれていた。
「精霊界はね、精霊がたくさん存在する場所なの。だから、この湖からも精霊が溢れているんだよ。それでも、本来感知できないはずのレヒトが気付くなんて、凄いね」
「俺は職業柄、人より神経が鋭くなっているから……そのせいかもな」
レヒトはそう答えた。魔界評議会の議長を務めるラグネスの護衛役という職業柄、襲撃なども多かったため、人の気配などに対し、レヒトはかなり敏感だ。それに加え、彼は生まれついて、特殊能力とも呼べるほどに卓越した神経を備えている。
しかし、あれは精霊を感知したがためだったのだろうか。それとも単なる目の錯覚だろうか。
レヒトはゆっくりと首を振った。どちらにしろ、大したことではない。
「むぅ……レイヴンはなんにも感じないけどなぁ……」
水面と睨めっこするレイヴンに、レヒトは落ちるなよと声をかけた。
快は湖に近付くと、目を閉じて、静かに例の不思議な言葉で語りかけた。すると水面が、虹色の光を放つ。
「それじゃ、行こう。付いてきて」
言うなり、彼女は湖に飛び込んだ。慌てて覗き込むが、不思議な輝きを湛えて揺れる水面の向こうに、彼女の姿を見付けることはできなかった。
「……付いてきて、と言われてもな……」
レヒトとレイヴンは思わず顔を見合わせる。
「うーん、とりあえずやってみるしかないんじゃない? 快、行っちゃったし。……どーしたの?」
心なしか、蒼白い顔のレヒトにそう問いかけると。
「……泳げないんだ」
返ってきた言葉に、レイヴンは目を丸くする。
「えーッ!? レヒトってば泳げないの? うわぁ……」
「……なんだよ」
「別にぃ」
くすくすと、レイヴンは面白がるように笑った。完全にこの状況を楽しんでいる。
「じゃあ、レイヴンは先に行くねー!」
とぉッ! というやたらと元気のよい掛け声とともにレイヴンは湖に飛び込み、その姿はすぐに見えなくなった。
「……はぁ」
レヒトは深いため息を吐いた。
とはいえ、考えていても仕方ない。覚悟を決めて、レヒトは虹色に輝く水面にダイブする。
身を襲うのは、肌を刺すような冷たい水の感覚――とは、違うものだった。どこか優しさすら感じさせる、柔らかなその感覚に、レヒトは恐る恐る目を開く。水の中にいるとは思えないほどに視界は鮮明で、呼吸も出来た。肺に流れ込むのは、空気とは違う、なにか別のもの。
(これは……水、じゃないのか?)
水とは違う、キラキラと輝く美しい流れの中を、レヒトはゆっくりと降下――方向感覚がわからないので、ひょっとしたら上昇かもしれないが――していた。
すると、不意に視界が歪み、光が強くなった。
「ぷはっ……!」
水ではないなにかの中から、外に出られたようだ。肺に流れ込む空気が、レヒトにそれを告げている。
レヒトは水ではないなにかの中に、漂うように浮いていた。辿り着いた場所は、先ほどの湖があった場所と、同じような雰囲気のところだ。
違うのは、そこに満たされていたのが、水ではないなにかだということ。そしてあとは、あたり一面、見渡す限り薄桃色だったということ。
木々も、草木も、見たことのないもので――それらはすべて、薄桃色だった。
その周囲には、淡く光る胞子のようなものがふわふわと浮遊しており、とても美しい、幻想的な場所だった。
「あ、レヒト」
近くの木の根本に腰を下ろしていた、快とレイヴンが手をあげた。レヒトは大地に手をかけ、水ではないなにかの中から上がる。やはり水とは違っていたらしい。身体や衣服はどこも濡れていない。
「あれってなんだろうね、レヒト」
「俺にはわからないな」
レヒトとレイヴンは揃って首を傾げた。そんな二人を眺めて、快はくすりと笑みを零す。
「精霊界へようこそ。僕たちが暮らす都は、ここから少し離れた場所にあるんだ。案内するよ」
二人は快の後を追い、美しい薄桃色の森の中を歩く。足をつけるたび、大地から薄ぼんやりと光る綺麗な粉が、ふわりと微かに舞い上がった。
「なんだろ、これ。ちょっと採取していこっかなぁ」
レイヴンはこの不思議な森がたいそうお気に召したらしい。
浮遊する胞子を捕まえようとしているようだが、捕まえたはずのそれはレイヴンの指を難なくすり抜け、逃げるように遠ざかっていった。
しばらく歩いていくと、少し開けた見晴らしのいい丘に辿り着いた。
「あ!」
なにかを見つけたらしいレイヴンが声をあげた。光る胞子を捕まえるのは諦めたようだ。手にした透明な小さな瓶には、胞子の代わりに薄桃色の草花がいくつか納められていた。
「あそこ?」
指さす方向に見えるのは、薄桃色の森の中に見えた、宝石のような氷色。
「そうだよ。あれが精霊界の王宮。とは言っても、小さなものだけどね」
「……あそこに精霊王様がいらっしゃるんだな」
「そういうこと」
快は頷いた。そして神妙な面持ちで告げる。
「ここからは、あんまり大きな声を出さないで。見付かると煩いから」
「わかった」
「こっそり行くの? なんか楽しそうだね!」
言われた側から語尾が跳ねる。
「静かにしてろよ、レイヴン」
そう釘をさせば、レイヴンはわかってるよと頬を膨らませた。
快の案内で、二人はついに精霊人の住まう都へと足を踏み入れた。とはいえ、あくまでこっそりと。都の中は通らず、森から続く抜け道を使って、直に王宮へと潜入することに成功した。
「誰も知らない秘密の抜け道だからね、見付かる心配はないよ」
そう言って、悪戯っ子の笑みを見せる快。
「よく、こんな抜け道を知っていたな」
「ふふふ。昔、いろいろと悪いこと教えてもらったからね」
唇に指をあててウィンクする。と、その時。
「快!」
静かな王宮内に声が響く。声のしたほうに視線を移せば、見た目には快と同じくらいの年頃の女性が、一行の傍に走り寄ってくるところだった。
「久しぶりね! ずっと帰ってこないんだもの……。なにかあったんじゃないかと、心配したわ」
兄さんと同じように、と。女性が小声で呟いたのをレヒトは聞き逃さなかった。
「誰?」
レイヴンが快に声をかける。そこで初めて二人の存在に気付いたらしい女性が、小さく声をあげた。女性の目に、一瞬よぎった怯えの色。
「快、その人たちは……」
「大丈夫だよ、瑠璃。僕の友達だから」
快の言葉に、瑠璃と呼ばれた女性は安堵したようだった。
「そうよね。快が連れて来た人たちだもの……。大丈夫よね」
自分に言い聞かせるように言って、瑠璃は深々と頭をさげた。
「ごめんなさい、怯えたりして。私、瑠璃っていいます。あの……よろしくお願いします」
おずおずと差し出された手を、レヒトは握り返した。細くて壊れそうな手だと、レヒトは思った。
「俺はレヒト。よろしく、瑠璃さん」
「レイヴンだよ! よろしくぅ」
「はい、よろしくお願いします」
もう一度そう言って、少しぎこちないながら、瑠璃は微笑んで見せた。
「瑠璃。いきなりで悪いんだけど、精霊王に取り次いでくれないかな?」
「そんな。取り次ぎなんていらないわ。精霊王様、ずっと快のことを心配してたんだから。早く顔を見せて差し上げなきゃ!」
「え、けど、ほら。一応、形式は形式だし……わぁっ! ちょっと待ってよ!」
瑠璃は快を引きずって行った。彼女はしなやかに筋肉の付いた快と違い、線の細い女性なのだが、見た目によらず、意外と腕力はあるようだ。
レヒトとレイヴンも、二人の後を追う。
奥まった場所にある大きな氷色の扉の前に、二人は立っていた。この扉の向こうが、玉座の間なのだろう。
扉に向かい、瑠璃が声をあげる。
「精霊王様、快が戻って参りましたわ。お客様もご一緒です」
すると扉がゆっくりと開き、三人は瑠璃に促され、部屋の中へと足を踏み入れた。