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第2話 三光の庭園で-1-

 ――夢を、見ていた。

 風渡る小高い丘の上に立ち、臨むのは、どこまでも広がる緑豊かな命の大地。強き想いを胸に秘めて。

 歩き出そうと一歩を踏み出したその刹那、誰かに呼ばれたような気がして振り返り――。

「うっ……」

 薄らと開けた目に飛び込んできたのは、大樹に繁茂する枝葉から漏れる、淡い一筋の光だった。

「……どう、なったんだ……ここ、は……」

 声が掠れ、息を吸い込む度に全身が痛む。まるで自分のものではないかのように動かぬ身体に困惑し、とりあえず現状を把握しようとするものの、頭は頭で考えることを拒否しているようだ。白い靄がかったようにぼんやりとする意識を呼び覚まそうと、左手で額を押さえた瞬間、掌に引き攣れるような痛みを感じて、レヒトは思わず顔を顰めた。涙で霞む視界で捉えた左の掌には、鋭い刃で斬ったような傷が見て取れる。じわり、と紅い血が滲んだ。

 紅く染まった掌を見つめつつ、幾度か瞬きを繰り返せば、白く濁っていた視界が徐々に輪郭を取り戻した。ついでに脳内にかかっていた靄も取り払われたようで、レヒトはようやく自身の現状を認識するに至った。

「……あぁ、そうか」

 視線だけを動かして周囲を窺う。手を伸ばせば届きそうな位置に、あの時、手放した愛剣が転がっているのが見えた。そのまま視線を奥へと向ければ、森の木々の遥か向こう、そびえ立つ灰色の壁が目に入る。紅眼の魔女の一撃を食らい、レヒトは崖から墜落したらしいが、どうやら、崖を滑落することは避けられたようだ。もしあの崖を滑落していたら、岩肌に全身を殴打して死んでいてもおかしくはあるまい。思い切り吹っ飛ばされたことが、逆に功を奏したようだ。

「よくもまあ、無事だったもんだ……」

 どこか他人事のように呟き、重だるい身体をなんとか起こす。全身を駆け巡る激痛に、呼び戻した意識がまた遠退きかけるが、身体を折ることで辛うじて耐えきった。ここで意識を飛ばしたら、二度と目覚めないような気がしたからだ。

 半ば這うような形で近くの大樹の傍へと移動し、太い幹に身体を預けて嘆息する。周囲に紅眼の魔女と使い魔の気配は感じない。

 痺れにも似た痛みを堪え、確かめるように、レヒトはゆっくりと身体を動かした。魔女の一撃をまともに食らった肋骨はやや怪しいが、その他にはさほど酷い怪我はなさそうだ。鎧を着込んでいたことが大きいとはいえ、この頑丈さはレヒトの取り柄である。

 身体を十分に慣らしてから、レヒトは傍に転がっている剣を引き寄せる。鈍く光る刀身は刃毀れし、幾筋もの細かい亀裂が走っていた。名剣、とまではいかずとも、それでも決して安物の剣ではないのだが。使い物にならない愛剣を眺め、レヒトは軽いため息を吐いた。

(……さて、どうするか。あれに追われてからすでに方向は見失っているし、崖から落ちたせいで余計にわからなくなったじゃないか。地図もないから現在地の把握だってできやしない。……まったく、なにが『大した危険はないさ』だ)

 今朝がた出会った性格破綻の天界最高責任者を思い出し、レヒトの眉間に皺が寄る。吟遊詩人の伝承歌サーガにも謡われる伝説の英雄があれでは、千年の恋だって一瞬で冷めるに違いない。レヒトは心の中で思い付く限りの悪口雑言を並べ立てた。

(……こんなところで死ぬなんて冗談にもならない……)

 大樹の幹に手をついて、ふらつく身体で立ち上がる。あの傲岸不遜な天界最高責任者に、文句のひとつも言ってやらねば死んでも死にきれない。

(とにかく、まずはこの森を抜けることだ。方向を見失ったのは痛いが、ここでこうしていても意味がない)

 現在地の把握に努めるため、歩き出そうとしたレヒトは、背後に聞こえた微かな物音に身体を強張らせた。それとほぼ同時に、背筋に冷たい感覚が走る。

 振り返るいとまも惜しみ、レヒトは反射的にその場を飛び退いた。

 レヒトが傍の大樹の陰へと身を躍らせた瞬間、強烈な殺気が弾け、周囲に閃光が迸る。とっさに両腕で顔を覆っていなければ、目を焼かれていただろう。

 閃光の影響だろうか、軽い頭痛を感じながらも目を開く。視線の先――先程までレヒトの立っていたその場所は、大地も、草木も――そこにあるものすべてが、石と化していた。人の手で作り上げることは不可能であろうほどに精巧で、滑らかな石像群。細い枝に繁る葉の一枚一枚の、風にそよぐその動きまでもが、忠実に再現されている。

 まるで――そう、まるで森の一部を、そのまま石化してしまったかのように。

 身を隠した大樹の陰から窺えば、森の影を妖しく蠢く紅眼の魔女。すっかり逃げ遂せた気でいたというのに、今日はとことんまで災難に付き纏われる一日らしい。

「……少し愚痴を零したい気分だな」

 レヒトの言葉に反応したように、それはゆっくりと姿を現す。

(紅眼の魔女ゴーゴン……呪われし美しき魔物、か)

 深い森の影から這い出た魔女を真っ直ぐに見つめ、レヒトは小さく舌打ちした。

 ゴーゴンとは、古い言葉で美しい女という意味だ。その名の通り、人間の女性の上半身と、大蛇の下半身を持つ美しき魔物である。彫像のような美貌を彩る長い髪は、黒光りする鱗を持った無数の蛇。濡れた固い鱗に覆われた蛇の肌は、先程レヒトが試してみせたように、鋭い刃をも寄せ付けない。そして、ゴーゴンが恐れられる最大の理由が、額にある閉じられた第三の目――邪眼の存在だ。邪眼から放たれる眩い光は、浴びたものすべてを一瞬にして石へと変える。

 初撃を避けられたのは、幸運と呼ぶべきか。

 レヒトは慎重にゴーゴンの様子を窺う。視力や聴力がそれほどよくないあの魔物は、大地の微かな振動と、獲物の放つ匂いを感知し、追跡するのだと聞いたことがある。この場所にはわずかとはいえ血の匂いが充満している。周囲をゆっくりと見回すゴーゴンは、どうやらまだ、レヒトの居場所を把握できてはいないようだ。

 しばしレヒトは思案する。

(……どうする。今なら奇襲を仕掛けることも可能。このまま逃げ出すことも可能だ)

 ――身を翻して逃げるべきか、一縷の望みに賭け戦うべきか。選択を誤れば、その先に待つのは死だ。尤も、どちらを選択したところで、待ち受ける運命は同じかもしれなかったが。

 立ち止まったまま周囲を探っていたゴーゴンの髪が一掴み抜け落ち、妖しく黒光りするそれは地面に落ちると同時に鎌首を擡げた。また一房、もう一房と零れ落ちた髪は、意思を持った蛇となって、絶えず舌を出して威嚇するとともに、血の匂いを辿って獲物を探る。

 もう、迷っている時間はない。決断の時が迫る。

(この状態で逃げられは……しないだろうな。どうせなら、最後まで足掻いてみせよう)

 覚悟は、決めた。

 刃が砕け、幾筋もの亀裂の入った愛剣を握り締め。

(さあ、行こうか!)

 レヒトは躊躇うことなく走り出す。ゴーゴンは巨体に似合わぬ俊敏な動作で振り返ると、自らに向かい来る愚かな獲物へ狙いを定め、額の目を見開いた。周囲の蛇も一斉に臨戦態勢に入るが、そちらに構っている余裕はない。

「食らえ!」

 一瞬の隙を逃さず、レヒトは懐に忍ばせた小指ほどの大きさの短剣を、見開かれたゴーゴンの瞳めがけて投げ付けた。

「ッギャオオォォォオオ――!」

 覚悟のもとに放った捨て身の一撃は、狙い違わずゴーゴンの瞳に突き刺さり、美しき魔物は絶叫をあげる。レヒトを取り巻く蛇が怯んだように後退した。

「はぁっ!」

 大きく仰け反り、隙を見せた魔物の胸に、大地を蹴り、その勢いを利用して、レヒトは渾身の力で手にした剣を突き立てる。

 急所を狙ったその一撃。しかし狙いは、わずかに逸れたようだった。

(っ……まずい!)

 空中で体勢を立て直し、なんとか着地したレヒトを、間髪入れずに鞭のような尾が襲う。

「ぐぁっ……!」

 容易く跳ね飛ばされたレヒトは、受け身を取ることもできず、邪眼で石化した大樹の幹へと、強かに身体を打ち付けた。凄まじい衝撃に、肺の中の空気がすべて吐き出される。

「……ぅ、ぐ……」

 意識が遠退き、ぐにゃりと視界が歪んだ。どこか口の中を切ったらしく、溢れた鮮血が唇の端を伝い落ちた。全身から力が抜け、レヒトは大樹の幹に身体を預けるような形で崩折れる。起き上がれそうにはなかった。

 レヒトの剣に胸を貫かれても未だ倒れず、胸怒りの咆哮をあげゆっくりと近付いてくる魔物を、焦点の定まらぬ目で見上げながら。死の匂いを間近に嗅ぎ、レヒトの脳裏を過ぎったのは、いつの日か見た優しい眼差しと、差し伸べられた温かな手。

(……ラグ、ネス……様……)

 血を思わせる深紅の双眸がレヒトを捕らえた。無慈悲な追撃の腕が振り上げられるのを、涙に歪む視界でぼんやりと眺める。

(……俺、ここで死ぬみたいです……今度ばかりは……幸運の女神にも見放されたらしいですね……)

 すみません、と呟いて。レヒトはせめてもの抵抗にと、目は閉じずに歯を食いしばった。ゴーゴンの長く鋭い爪が、レヒトの身体を捕らえようとした、刹那。レヒトの身体を、柔らかな風が包み込む。

「いっくよぉ!」

 底抜けに明るい、どこか楽しそうにさえ聞こえる声が響き渡った。突然の乱入者に、動きをとめたゴーゴンが、声の主の姿を確認するより、早く。

 ――風が、変わった。

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